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5 田部の丁籍を撿定するの詔 欽明天皇(第二十九代)

田部た べ丁籍ていせき撿定けんていするのみことのり(三十年正月 日本書紀

量置田部、其來尙矣。年甫十餘、脫籍免課者衆。宜遣膽津、撿定白猪田部丁籍。

【謹譯】田部た べはかくこと、きたることひさし。としはじめて十にして、せきれてのがるるものおおし。よろしく膽津い つつかわして、白猪しらい田部た べ丁籍ていせきかんがさだめしむべし。

【字句謹解】◯田部 「たべ」又は「みたべ」とくんずる。朝廷の田を耕作する農民のむれ當時とうじ朝廷では御料田ごりょうでんを農民にたがやさしめて⻝料しょくりょうきょうし、又凶年きょうねんに備ふるため、屯倉みやけを設けて田部た べの作つたいねおさめた ◯丁籍 ていは二十歳の男子、せき戸籍こせき ◯撿定 調査する ◯其の來ること尙し その由來ゆらいは古いとの意で、これは景行朝けいこうちょうに始められた。〔註一〕參照 ◯籍に脫れて 戸籍に登記するのを避けること ◯課を免る 課役かえき―一定の勞役ろうえき―をまぬがれる。〔註二〕參照 ◯膽津 人名、細註さいちゅうには「膽津い つは、こにきし辰爾しんにおいなり」とあり、こにきし辰爾しんには『日本紀しょくにほんぎ』の延曆えんりゃく九年七月のくだりに見える。〔註三〕參照 ◯白猪の田部 白猪しらいは土地の名で欽明きんめい天皇十六年に置かれた。〔註四〕參照 ◯丁籍 前の丁籍ていせきとあるのに同じ。

〔註一〕田部の由來 『景行紀けいこうき』の五十七年冬十月には「諸國をして田部た べ屯倉みやけおこさしむ」とあり、田部た べの起源はここに求められると多くの學者がくしゃつてゐる。

〔註二〕課を免る 大寶令たいほうりょうでは「男女十六以下をしょうとなし、二十以下をちゅうとなす。男二十一をていとなし、六十一をろうとなす」と規定しある。本詔ほんしょうはそれ以前ではあるが、大體だいたいその制が行はれてゐたと見るべきで、年をいつわつて課役かえきまぬがれる者が多かつたので、このみことのりを下されたのであらう。

〔註三〕膽津 『日本紀しょくにほんぎ』の延曆えんりゃく九年七月には百濟くだらこにきし仁貞にんていなどの上表じょうひょうがあり、そのうちに「午定君ごていくん、三なんを生む。長子ちょうし味沙み さ仲子ちゅうし辰爾しんに季子き し麻呂ま ろこれにより別れて三せいをなし、各々おのおの職とする所につて以てうじを命ず、葛井くずいふね連等むらじらは、すなわこれなり」とある。『書紀しょき通釋つうしゃく』の著者飯田いいだ武郷たけさとは、日本紀しょくにほんぎ養老ようろう四年に、白猪史氏しらいのふびとうじを改めて葛井連くずいのむらじたまへるよしの記事があるので、この膽津い つ味沙み さの子ではないかとのせつを立ててゐる。膽津い つ白猪しらいの地の所有者か監督か、かく關係かんけいの深い人であつたことが判明する。

〔註四〕白猪の田部 『欽明紀きんめいき』十六年秋七月に「蘇我大臣そがのおおおみ稻目宿禰いなめのすくね穗積ほづみの磐弓臣いわゆみのおみつかわして、吉備き びの五ぐん白猪屯倉しらいのみやけを置かしむ」と見え、これが白猪屯倉しらいのみやけの起源だが、現在の何處ど こあたるかは不明である。

〔注意〕本詔ほんしょうを受けて膽津い つ白猪しらい田部た べを調査すると、はたして幾人かの脫法者だっぽうしゃ發見はっけんした。そこで正しく撿定けんていしたものをたてまつつたので、天皇はそのこうよみせられ、白猪史しらいのふびとせいたまひ、田部た べおさに任ぜられたよしが『欽明紀きんめいき』に見える。

【大意謹述】朝廷が公田こうでんを置いて、それを耕すべき部民ぶみんを定めた由來ゆらいは、相當そうとうに古い。現在、その制がみだれ、十歳以上になつても戸籍に登錄とうろくせず、したがつて課役かえきまぬがれる者が多い。ゆえちんは早速膽津い つを派遣して、白猪しらい公田こうでんを耕す者共ものどもつき丁年ていねんに達したものの戸籍を調査させたいと考へる。

【備考】本詔ほんしょうはいしただけでは、事柄ことがら一寸ちょっと分明わ かりかねる。田部た べ―皇室の土地を耕す部民ぶみんが、以上の如く、義務をおこたつたについては、事情がある。欽明きんめい天皇の二十八年、諸國に洪水があつて、年榖ねんこくみのらず、饑餓き がのため死んだものが非常に多かつた上に、生者せいしゃは互ひにその肉をふといつたやうな悲慘事ひさんじさへあつた。ここ田部た べの耕作民に取つて、なりに、手ひどい打撃だげきがあつたとへる。當時とうじ帝都ていとを中心として生活した貴族は、ようや奢侈しゃしに流れ、懷手ふところでして、彼等に隷屬れいぞくした部民ぶみんを、酷使するのふうが次第にはげしかつた。そのため、部民ぶみん負擔ふたんは一そう過重かじゅうになり、困憊こんぱいしたものが多い。かうした事實じじつを考へると、田部た べ部民ぶみんが義務を怠つたことも、それが必ずしも、不忠ふちゅうの心から出たのではなく、主として大洪水の影響により、間接には田部た べ取締とりしまる者らの壓迫あっぱくなどにもよるのでなからうかと推想すいそうせられる。