4-2 筑紫に榖稼を收藏するの詔 宣化天皇(第二十八代)

筑紫つくし榖稼こっか收藏しゅうぞうするのみことのり(第二段)(元年五月 日本書紀

故朕遣阿蘇仍君、加運河內國茨田郡屯倉之榖。蘇我大臣稻目宿禰、宜遣尾張連、運尾張屯倉之榖。物部大連麤鹿火、宜遣新家連、運新家屯倉之榖。阿倍臣、宜遣伊賀臣、運伊賀國屯倉之榖。修造官家那津之口。

【謹譯】ゆえちんは、阿蘇あ そ仍君ものきみつかわして、河內國かわちのくに茨田郡まんだごおり屯倉みやけもみくわはこばしむ。蘇我そ が大臣おおおみ稻目宿禰いなめのすくねは、よろしく尾張おわりむらじつかわして、尾張おわりのくに屯倉みやけもみはこばしむべく、物部もののべ大連おおむらじ麤鹿火あらかびは、よろしく新家連にいのみのむらじつかわして、新家にいのみ屯倉みやけもみはこばしむべし。阿倍臣あべのおみは、よろしく伊賀臣いがのおみつかわして、伊賀國いがのくに屯倉みやけもみはこばしむべし。官家みやけ那津な つほとり修造しゅうぞうせよ。

【字句謹解】◯阿蘇仍君 現行本の『宣化紀せんかき』にはこの下に細字さいじで「未だつまびらかならず」とある ◯屯倉 御料田ごりょうでんの意 ◯蘇我大臣稻目宿禰 崇佛家すうぶつか蘇我稻目そがのいなめのこと、『神祇じんぎ佛敎ぶっきょう篇』でその人物を說明せつめいした ◯物部大連麤鹿火 麁鹿火あらかびとも書く、仁賢にんけん天皇以下の五ちょうつかへて大連おおむらじとなる。繼體けいたい天皇の二十一年に磐井いわいはんがあつた時、大伴おおとも金村かなむらなどにされてそれを討滅うちほろぼしたこうがあつた。本詔ほんしょうの直後にこうじたよしに見える ◯新家 新家にいのみ伊勢國いせのくに新家村にいのみむらにある屯倉みやけのこと ◯阿倍臣 當時とうじ大夫たいふの地位にあつた阿倍火麻呂あべのひまろのこと ◯官家 榖物こくもつ貯藏ちょぞうするくらの意から、それを監督する役所のことにもなる ◯那津の口 現在の博多の古名こめいで、いにしえは、今よりも三程、西北にあつた。

【大意謹述】筑紫國つくしのくに穀物こくもつを多く貯藏ちょぞうして天下平安のじつをあげる必要から、ちん諸臣しょしんに次のことを命ずる。阿蘇あ そ仍君ものきみを派遣して、河內國かわちのくに茨田郡まんだごおりにある榖物倉こくもつぐらから榖物こくもつ運漕うんそうさせる。蘇我大臣そがのおおおみ稻目宿禰いなめのすくめは、早速尾張おわりのむらじつかわして尾張おわりのくに榖物倉こくもつぐらからそれを運ばしめなければならない。物部もののべ大連おおむらじ麤鹿火あらかびは、これも早々に新家連にいのみのむらじつかわして、伊勢國いせのくににある新家にいのみ榖倉もみぐらから榖物こくもつ運漕うんそうすることを命ずるのがよく、大夫たいふ阿倍火麻呂あべのひまろは、ただちに伊賀臣いがのおみつかわして伊賀國いがのくににある榖物倉こくもつぐらから同樣どうようのことをするやうにちんが命ずる。そして筑前ちくぜんのくに那津郡なつごおり海岸かいがんあまり遠くない場所を選んで一大榖物倉こくもつぐらを造らなければならない。

【備考】博多の地が、早くから繁昌はんじょうしたことは、本詔ほんしょうによつて、あきらかである。當時とうじ海港かいこうはすべてと呼ばれた。港灣こうわんにあるものは船津ふなづ、河にあるものは川津かわづしょうし、那津な つ(博多)は、難波津なにわづ住吉津すみよしのつなどとならんで、當時とうじ最もよく知られたのである。それらの海港かいこうには、津史つのふびと津守つのかみといつた官吏かんりを置き、これを監督せしめた。