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3 大河內味張が郡司を罷むるの勅 安閑天皇(第二十七代)

大河內おおこうち味張あじはり郡司ぐんじむるのみことのり(元年閏十二月 日本書紀

率土之上莫匪王封、普天之下莫匪王域。故先天皇、建顯號垂鴻名。廣大配乎乾坤、光華象乎日月。長駕遠撫、横逸乎都外、瑩鏡區域、充塞乎無垠。上冠九垓、旁濟八表。制禮以告成功、作樂以彰治定。福應允臻、祥慶符合於往歳矣。今汝味張、率土幽微百姓。忽爾奉惜王地、輕背使乎。宣旨味張。自今以後勿預郡司。

【謹譯】率土そっとうえおうところにあらざるなく、普天ふてんもときみところにあらざるなし。さき天皇てんのう顯號けんごう鴻名こうめいる。廣大こうだい乾坤けんこんならび、光華こうか日月じつげつかたどれり。ながとおで、よこみやこそとこえいで、區域くにのうち瑩鏡みだきてらし、かぎりなきにふさがる。うえ九垓ここのみちかむらしめ、あまね八表や もわたる。れいさだめてもっ成功せいこうげ、がくしてもっ治定ちじょうあらはす。ふくこたまことあつまりて、祥慶よろこび往歳むかし符合か なへり。いまなんじ味張あじはり率土くにのうち幽微ゆうびなる百姓ひゃくせいなり。忽爾たちまち王地おうちおしたてまつり、使つかいかろしめそむけるか。むね味張あじはりべよ。自今じこん以後い ご郡司ぐんじになくわはりそと。

【字句謹解】◯率土の上 土地のつづく限りのこと、これは『詩經しきょう』にある有名な句「溥天ふてんもと王土おうどにあらざるはなく、率土そっとひん王臣おうしんにあらざるはなし」からつた。天下いかなる地方も王の所有でないものはなく、國土のどんな片隅かたすみに住む人でも王家のしんでないものはないとの意 ◯王の封 國王から諸侯しょこうに授けた領土 ◯先の天皇 過去に於ける代々の天皇御事おんこと、必ずしも特定の御方おんかたを指したのではない ◯普天の下 天下全部の事 ◯王の域 國王の支配けんきとどいてゐる土地 ◯顯號を建て 偉大な德行とっこうのある御名み なの意。〔註一〕參照 ◯鴻名を垂る 立派な大きい名を後世にのこすことで、その感化かんかが長く後世につたはる意 ◯廣大乾坤に配び 廣大こうだいは通常「ひろくおほきなること」とくんぜられてゐる。乾坤けんこんは天地の意で、この一句は、「光華こうか日月じつげつかたどれり」とついになつてゐる。過去の諸天皇ひろおおいなる御德おんとく天と地とのやうにこの上もなく著しく世の中にあらはれる意 ◯光華日月に象れり 光華こうかは通常「ひかりうるはしきこと」とくんじ、御身おんみ高尙こうしょうとくそなへさせられてゐる形容として使用されてゐる。『書紀しょき』にこの句が天照大御神あまてらすおおみかみの形容とされてゐるのは誰も知つてゐよう。御德おんとくの明らかなことが太陽又は月と等しい意、日月じつげつかたどつて「めい」といふ字が生じたやうに、光彩こうさいの輝かしい場合に日と月とを比較に持つてるのは、漢文かんぶん特有の成句法せいくほうである ◯長く駕き きは御親征ごしんせいあそばすこと、長い間諸方を御親征ごしんせいされる ◯遠く撫で 遠方の者がふうしたつて歸服きふくするのをよく治められる意 ◯横に都の外に逸で よこにはこの場合、積極的な意味はない。皇都こうと以外に御親征ごしんせいあられて天下を平定された意 ◯區域 國中くにじゅうのこと ◯瑩鏡 寶石ほうせきや鏡をみがいてくもりのないやうにすることで、國中くにじゅうせいして不服從者ふふくじゅうしゃの根をつ意 ◯垠なきに充ち塞る 大御威おおみいずが地上のあらゆる方面にまで及ぶ意 ◯九垓 がいは國の極みの意で、九ほうの國の極み、すなわ國中くにじゅう全部 ◯八表 八ぽうの極めて遠いはてすなわち土地のある限りの意 ◯禮を制めて これはのちの「がくして」とついするので、人心じんしんを統治者がやわらげるのには禮樂れいがくを中心とするといふ儒敎じゅきょう思想である。社會しゃかい的に上下の區別くべつを正しく守ること ◯成功 普通「いたはりをなすこと」とくんじてゐる。人民の心から統治者にふくするやうにさせる意 ◯樂を作して 平和な時代を享樂きょうらくする唱歌しょうか及び舞踊ぶようのこと ◯治定を彰す 國家が治まり人心じんしんが安定することを具體的ぐたいてきに見せる ◯福應へ 禮樂れいがくが正しく盛大となればあらゆる幸福こうふくが出現する意 ◯允に臻りて 一ぽんには「しん」を「」とある。天皇を中心としてそこに四方からあつまること ◯祥慶往歳に符合へり 祥慶よろこびすべ目出度め で たく理想的な意、往歳むかしは昔の申し分ない世の中、符合か なへりは一致すること、昔の申し分のない世の中の樣子ようすと、少しもかわらない程の幸福こうふくあつまつた意味である。〔註二〕參照 ◯味張 大河內おうこうちあたい味張あじはりのこと、何故なにゆえれにたいして本勅ほんちょくたまはつたかに就いては、〔註三〕參照 ◯率土 國內こくないの意 ◯幽微 地位身分が共に低い意 ◯王地を惜み奉り 天皇の土地を理由なくおしんで奉還ほうかんしないこと ◯使 皇室の御使者おししゃすなわ勅使ちょくし ◯輕しめ背けるか 輕視けいししてその命にしたがはないのか ◯郡司 これは國造くにのみやつこの意だと一般に言はれてゐる。

〔註一〕顯號を建て 我國わがくに所謂いわゆる武威ぶ いだけを用ゐる侵略的國家でなく、文武ぶんぶ一致の思想で養はれた國であることを示すもので、王道のじついにしえから考へられてゐた證據しょうことなるのである。

〔註二〕祥慶往歳に符合り この部分までが本勅ほんちょくに於いては序文となつてゐる。ゆえ支那し なの古典から引用した句が多く、全體ぜんたいを貫く思想が儒敎味じゅきょうみびてゐる。儒敎じゅきょうと日本思想との關係かんけいは、上代じょうだいに於ける我が詔勅しょうちょくを中心として再考される餘地よ ちがあらう。

〔註三〕味張 『安閑紀あんかんき』には元年うるう十二年に突然味張あじはりの名が出て前文とつづかない。ゆえにこれは當然とうぜん元年七月のつづきと見なければなるまいとはれてゐる。元來がんらい天皇には皇太子がましまさなかつた。大連おおむらじ大伴おおとも金村かなむらなどがこれを憂ひ、皇后のほかに三人のきさきたてまつつたが、それでも御子み こは出來ないので、遂に皇后の御名み なを後世にのこすために一定の良田りょうでんえらんで皇后の御名み なをつけることにした。この時えらばれた田地でんちの所有者が大河內おおこうちあたい味張あじはり(一名は黑梭)だつた。勅使ちょくしがこのよし味張あじはりに告げると、味張あじはりは自己の良田りょうでんかみ沒收ぼっしゅうされるのをおしんで、「この田地でんちは一見非常に良田りょうでんに見えますが、じつは少し天氣てんきつづくとあがり、雨が多いと一ぱいの水潦みずたまりになつて、骨折りだけの收穫しゅうかくるのに困難です。おかみに差上げたとしても何のえきもないでせう」とあざむいて申し上げた。勅使ちょくしはその事をそうすると、うるう十二月に至つて本勅ほんちょくが下されたのである。勅中ちょくちゅうに「今後國造くにのみやつこに任じない」とあるのは、永久に出世する道が失はれることになるので、味張あじはりふるあがつて罪をしゃし、末長く獻上物けんじょうもつたてまつることにつてその罪を許された。以上『安閑紀あんかんき』の記事を了解すると、本勅ほんちょくむねを理解出來るであらう。

〔注意〕大化たいか改新かいしん以前に於ける我國わがくにの土地制度に就ては私有制であつたと主張する者、共有制だつたと主張する者があつて未だ定說ていせつはないが、大體だいたい、私有制論者が多いやうである。ただし私有制といつてもかみに皇室がこれを統治あそばされてゐる關係かんけい上、絕對ぜったいの私有ではなく、今日こんにち同樣どうよう相對そうたい的なものであつた。したがつて味張あじはり朝命ちょうめいそむいた罪は明らかに罰されなければならない。『安閑紀あんかんき』に「つみ萬死ばんしあたれり」と味張あじはりしゃしてゐるのは當然とうぜんである。又同紀どうきにこの事件を以て「永く鑒戒かんかいとなさむ」とあるのを見れば、當時とうじ皇威こういが國民のこの種の罪を罰するのに十分威力があつたことも判明する。しかし、天皇御仁慈ごじんじは罪をいた味張あじはりを許されたのであつた。

【大意謹述】土地のつづく限り、國王の領土でないところはなく、天のつらなつてゐる下は何處ど こへいつても國王の所有地でないものはない。ゆえに過去に於ける代々の天皇がたは見事な德行とっこうを建て、立派な御名み なを後世にのこされた。歷代れきだい天皇御德おんとくは天地と比較される程ひろく大きく、日月じつげつに劣らない程の光輝こうき發揚はつようしてをられる。長い間御親征ごしんせいつづけられ、遠方の者を皇威こういふくして歸順きじゅんせしめられた例も少くない。皇都こうと以外の場所にみずから出られて、統治區域くいきを平定し、無限に皇威こういを張られた例もある。以上の天皇方に時代には、國の極みまでおごそかに皇室の御支配地となり、土地のある限り御稜威み い ずは光り輝いた。かうして社會しゃかい上下の地位を正し、人民を悅服えっぷくさせ、平和を享樂きょうらくする唱歌しょうか舞踊ぶようを作つて、國は治まり民心みんしんは定まつたのである。だからすべての幸福こうふくが一つ所に集まり、上古じょうこ聖人せいじんが統治されたと同じ目出度め で たさが地上に再びあらはれたのである。今、なんじ大河內おおこうちあたい味張あじはりは身分のいやしい農民の頭株あたまかぶでしかない。それにもかかわらず、勅使ちょくしなんじの所有地の一部を御料地ごりょうちとすべきむねを告げるとぐに天皇へ土地を奉還ほうかんする事をおしみ、勅使を輕視けいしして、虛言きょげんを吐き、ちんの旨にしたがはなかつた。今後、味張あじはり國造くにのみやつこに任命しないよしを早速味張あじはりにまで告げよ。