2 勸農のため池溝を開くの詔 崇神天皇(第十代)

勸農かんのうのため池溝ちこうひらくのみことのり(六十二年七月 日本書紀

農天下之大本也。民所恃以生也。今河內狭山埴田水少。是以其國百姓怠於農事。其多開池溝、以寬民業。

【謹譯】のう天下てんか大本たいほんなり。たみたのみてもっくるところなり。いま河內かわち狭山さやま埴田うえだみずすくなし。これもっくにの百せい農事のうじおこたれり。さわ池溝ちこうりて、もったみぎょうひろめよ。

【字句謹解】◯ くんずるのが例で、はたを作る意とされてゐる。水田は南方文化がもたらした農業上の一改革であつたが、その性質上高地こうちには手數てすうをかけなければ利用出來なかつた ◯天下の大本なり 天下の人々が生活するに就いて根本となるものである。この意はこれにつづく「民のたのみて以てくる所なり」とあるので分明わ かる ◯民の恃みて以て生くる所なり 天下の人々は農產物のうさんぶつたよりにして生活してくことが出來る意 ◯河內狭山 宣長のりながの『古事記こ じ きでん』には、『和名抄わみょうしょう』を引用して、河內國かわちのくに丹比郡にひごおりにある狭山郷さやまごう佐也萬さ や ま―としてゐる。『河內志かわちし』には、「丹南郡になみぐん狭山池やまいは、狭山村さやまむらにあり。錦部郡にしきべごおり天野あまの小山田おやまだの二けいここたまりて池をなす。周𢌞まわりばか云々うんぬん永祿中えいろくちゅう安見やすみ美作守みまさかのかみなる者かさねておさむ。慶長中けいちょうちゅう片桐かたぎり東市正とういちのしょうつて修補しゅうほくわふ」と見える ◯埴田 田地でんちのこと ◯多に池溝を開りて 狭山さやまの池もこの時に開かれたので、そのにも多くの池溝ちこうを堀りたもうたこと。〔註一〕參照 ◯池溝 くんじてある。灌漑用かんがいようの貯水池のこと ◯民の業を寬めよ たみぎょうとは農事のうじのこと、ひろめよとは現在以上に自由におこなふ意。

〔註一〕多に池溝を開り 『書紀しょき』にしたがへば崇神すじん天皇の開かれた池溝ちこうは、この狭山池やまいほか依網池よなみいけ(河內國丹比郡)・苅坂池かりさかいけ(所在未詳)・反折池さかおりいけ(所在未詳)があり、いで卽位そくいされた垂仁すいにん天皇高石池たかしいけ(和泉國泉北郡)・茅渟ちぬいけ(和泉國泉南郡)・狭城池さきいけ(大和國生駒郡)・迹見池とみいけ(大和國磯城郡)を開き、諸國に八百池溝ちこうを開かしめたもうた。

〔注意〕前詔ぜんしょうの『船舶せんぱくつくるのみことのり』と共に人民の幸福こうふくに重きを置かれた御仁慈ごじんじの程をはいたてまつる。「のうは天下のだいなるもとなり」は古今を通じての眞理しんりで、如何い かに物質生活上享樂きょうらくを多く受ける現在の我々でも、食糧しょくりょうの一ぱんは結局農民の手で造られたものを材料としてゐる。まして當時とうじにあつては文字通り「民のたのみてもっくる所」であり、國民の生活と農業とは一そう密接な關係かんけいがあつた。

【大意謹述】農業は人間生活の根本となるもので、國民はそれに手賴た よつて始めて生活出來る。現在、河內かわち狭山さやまにある田地でんちは常に水不足のため、その地方の農民は自棄じ きして農事のうじに一こうせいを出さなくなつてしまつたと聞く。これは決して喜ばしいことではない。ぐに狭山さやまを始め諸地方に灌漑用かんがいようの池を多く掘つて、國民が農業を自由にこころよいとなめるやうにしなければならない。

【備考】本詔ほんしょうによつて拜察はいさつせられるやうに朝廷では、積極的に農業を發達はったつせしめる方針を始終しじゅうられた。そのため多く池を作り、みぞうがつことを命ぜられたのである。垂仁すいにん天皇また諸國に命令を下して、池溝ちこうを開かしめたまひ、仁德にんとく天皇山城やましろ河內かわち攝津せっつ地方の開墾かいこんに努められた。したがつて池溝ちこうの修理は、地方官に取つて、大切な任務の一つとせられたくらいである。

 けだ我國わがくにでは神代かみよから農業傳說でんせつが多く、早くから⻝料しょくりょう上、農業を重んじた。身體からだから諸々もろもろ種子た ねを出した保⻝神うけもちかみの話、天照大御神あまてらすおおみかみ天邑君あまのむらきみに命じて、いね種子た ね天狭田あめのさなだ及び長田おさだかしめられた話などいろいろある。流石さすが豐葦原とよあしはら瑞穗國みずほのくにだ。當時とうじ、主として栽培せられたのは、奥津御年おきつみとし晩熟ばんじゅくするゆえかくふ―と呼ばれたいねである。その栽培は、神代かみよに始まり、稻榖とうこくつかさどかみとして、御年神みとしのかみがあつた。古い傳說でんせつうちには、むぎ大豆だいず小豆あずきひえあわなどの名が出てゐるから、あるいは少しは栽培されたかも知れないけれども、多くは水田耕作に適するいねだつた。けだむぎなどは陸田りくでん耕作に適し、すぐに簡易におこなはれがたいか、水田耕作となると、割合に行はれやすい。その結果、稻作いなさくに主力を注ぐ事となつたものと思はれる。

 それらの日、農具として、一番、重んぜられたのはくわだつた。『仁徳紀にんとくき』に「許久波こ く わ」『安閑紀あんかんき』に『钁丁くわよぼろ』とあるのを見ても分明わ かる。「許久波こ く わ」は小さいくわとも、木製のくわともはれてゐる。それからすきくわいで大切にされた。『雄略紀ゆうりゃくき』には、これ那須か な す きと呼んでゐる。からすきは牛の力を用ゐるもので、これもまた有用ゆうようとせられた。そのほか馬杷うまぐわうすかまみのなどもあつた。かの牛馬ぎゅうばが農業の手傳てつだひに用ゐられたのは、すこしくのちの事である。要するに、當時とうじは、農業本位の時代で、榖物こくもつ豐熟ほうじゅくせんことを始終しじゅうかみいのり、旱天かんてんつづくと、犠牲いけにえを神に捧げて、降雨をうた。したがつて勸農かんのうといふことが、政治上、最も大切とせられたのは、當然とうぜんの事である。これいで力を注いだのは、工藝こうげい發達はったつといふことにあつた。すなわち商業に先立つて、第一に農業が進み、それから工業が伸びたといふ順序である。