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1 航海の進歩を計るため船舶を造るの詔 崇神天皇(第十代)

航海こうかい進歩しんぽはかるため船舶せんぱくつくるのみことのり(十七年七月 日本書紀

船者天下之要用也。今海邊之民、由無船以甚苦歩運。其令諸國、俾造船舶。

【謹譯】ふね天下てんか要用ようようなり。いま海邊うみべたみふねなきにりてもっはなは歩運ほうんくるしむ。諸國しょこくれいして、船舶せんぱくつくらしめよ。

【字句謹解】◯天下の要用 交通上天下の人々にとつて必要くべからざる器具である事。〔註一〕參照 ◯歩運に苦しむ 人間の交通及び貨物の運漕うんそうに不便であること ◯船舶を造らしめよ 本文ほんもんれば最初に船舶せんぱくを造つたのはこの時のやうに考へられるが、すで文獻ぶんけん上からも船舶せんぱくは『神武紀じんむき』に見え、考古學こうこがく上からも古代の船舶せんぱく神代かみよから存在することが明らかなので、造船のはじめではなく、諸國にれいを下して船舶せんぱくを造らしめた最初だとしなければならない。〔註二〕參照

〔註一〕天下の要用 現在、我々の生活にとつて船舶せんぱくじつに重要であるものの、當時とうじわずかに皇都こうとを中心とした四どうの一部が四どう將軍しょうぐんの派遣によつてひらけただけで、一般に交通といへば、船舶せんぱくをかりなければ何處ど こへもかれなかつた。神武じんむ天皇御東征ごとうせい瀨戸せ と內海ないかい航行こうこうして大和やまとられたのを考へてもこの關係かんけいは理解出來る。陸地の交通がひどく困難だつた時代のことを考へると、本詔ほんしょうは、のちに明治時代に鐵道てつどうが各地に設けられて交通上多大の便宜べんぎあたへられたやうに、交通關係かんけいを助けられた大御心おおみこころのほどがはいせられるのである。

〔註二〕船舶を造らしめよ 諸書しょしょには天皇の十四年に伊豆國いずのくにから船舶せんぱくたてまつつたことが見える。が、『大日本史だいにほんし』には「未だ何にれるかを知らず」とつてゐる。

 船が神代かみよから存在したことは、記紀き きによつて、明白である。海國かいこく日本では、船舶せんぱく讃稱さんしょうする傾向が、神代かみよからあつた。浮寶うきたから岩舟いわふね速鳥はやとりなどがそれだ。浮寶うきたからは、この上もない水上の寶物ほうもつといふ意で、岩舟いわふねは、舟の堅固けんごさをあらはしたのである。速鳥はやとりは、その快速力を歎賞たんしょうした言葉と思はれる。また材料の上から、舟の種類を區別くべつして、いろいろの名稱めいしょうがあつた。大體だいたいにおいて、古代の舟は、刳木舟くりきぶねを以て、共通の形式とせられ、蘿摩船かがみぶね瓠船ひさごぶねなどといふのも、刳木舟くりきぶねの別名にほかならない。わにかめと呼んだのも、それらの舟のことである。それから葦舟あしぶねといふのは、あしつかねて作つたいかだのことでなからうかともはれてゐる。また刳木舟くりきぶねの內外に赭土そほにを塗つたのを埴舟はにぶねしょうしたさうで、『萬葉集まんようしゅう』中の赤曾保舟あけのそほぶねとは、埴舟はにぶねのことと思はれる。かく埴土はにつちを以て舟を塗つたわけは隙間の穴をふさぎ、材木の腐朽ふきゅうを防ぎ、裝飾しょうしょくともなつたからである。

〔注意〕崇神すじん天皇時代には、國史こくし上、注目すべき事蹟じせきが多い。その中で重要な詔勅しょうちょくは、左の如くである。

(一)群卿ぐんけいりょうに下し給へるみことのり(四年十月、日本書紀)(二)人民をこう課役かやくするのみことのり(十二年三月、日本書紀)(三)卜災ぼくさいみことのり(七年二月、日本書紀)は『神祇じんぎ佛敎ぶっきょう篇』に、(四)四どう將軍しょうぐんに下し給へる詔(十年十月、日本書紀)は『軍事外交篇』に、それぞれ謹述きんじゅつしたので、本篇に於いては、本詔ほんしょう及び(五)池溝ちこうひらくのみことのり(六十二年七月、日本書紀)を奉掲ほうけいして謹解きんかいした。

 本詔ほんしょうは十七年秋七月丙午ひのえうまついたちくだされたもので、『書紀しょき』には「冬十月、始めて船舶せんぱくを造る」とある。ただし、これが製造の最初のものでないことは、〔註一〕に說明せつめいした。

【大意謹述】船舶せんぱくは天下の人々にとつて非常に必要なものである。しかるに現在、海邊かいへんに居る民衆は、船がないために人間及び貨物の交通上、大きい不便を感じてゐる。ゆえちんはこの際、諸國にれいし、船舶せんぱくを多く造らしめたい。

【備考】當時とうじ、諸國にれいして、船舶せんぱくを造らしめたのは、やはり、刳木舟くりきぶねであつたらしい。その後に及び、兩枝船ふたまたぶねが出來たのである。それは垂仁すいにん天皇の時代に始つたやうだ。神功じんごう皇后こうごう征韓せいかんの際は、刳木舟くりきぶね兩枝船ふたまたぶねとを併用せられてゐたらしい。元來がんらい刳木舟くりきぶねは細長くて、幅がひろくない。兩枝船ふたまたぶねは、そのけつを補ひ、一かん兩分りょうぶんした大樹たいじゅを骨格と見立てて、これに板を張つたもので、根幹をへさきとし、兩枝ふたまたを左右のふなべりとした。ここ船舶せんぱく製作上の一進歩を示したのである。

 元來がんらい日本にっぽん海國かいこくであるから、海上かいじょうに於ける活動は、餘程よほど早くから始められた。朝鮮との交通は、神代かみよから始り、相當そうとう往來おうらいしげく行はれたらしく思はれる。それについて、航海こうかいかんする知識も進み、神功じんごう皇后こうごうが持つてをられた潮涸しおひる潮滿しおみつといふ寶物ほうもつ新羅しらぎ日矛ひぼこ王子おうじ携帶けいたいして日本にっぽんたといふ振風かぜふり振波なみふり切浪なみきり切風かぜきりといふ神寶しんぽうなども航海こうかいかんする知識の一部を示す器具・機械のたぐひでなからうかと推想すいそうするせつもある。應神おうじん天皇の時代に、大船たいせんを作り、それを「枯野か ぬ」としょうした記事もあるから、崇神すじん天皇の時代のみならず、造船は、歷代れきだい天皇が特に奬勵しょうれいせられた事業であらう。