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53 東照宮奉幣の宣命 孝明天皇(第百二十一代)

東照宮とうしょうぐう奉幣ほうへい宣命せんみょう慶應元年三月 孝明天皇紀)

天皇詔旨、掛畏下野日光御坐勢留東照宮大權現廣前美毛申給者久止、世、民、泰平勳績遂給比之與里、四海波靜萬民安所古止者、偏大權現助護給可有止奈母所念行。今二百五十囘遠忌倍利。因祭禮修行、報謝精誠、常爾之毛幣使令發遣牟止、吉日良辰擇定正四位下行右近衞權中將藤原朝臣公賀差使、禮代大幣令捧持奉出給。大權現此狀聞⻝天皇朝廷、寶位無動常磐堅磐、夜守日守護幸給比氐、文敎倍盛武運彌久護恤給倍止美毛申給者久止申。

【謹譯】天皇すめら詔旨みことと、けまくもかしこ下野しもつけ日光にっこう御坐おわしませる東照宮とうしょうぐう大權現だいごんげんひろきみまえかしこかしこみももうたまはくともうさく、みだれおさめ、たみくるしみすくひ、泰平たいへい勳績いさおしたまひしより、四海しかいなみしずかに、萬民ばんみんところやすんずることは、ひとえ大權現だいごんげんたすまもたまふにるべしとなもおもほしめす。いま、二百五十かい遠忌おんきおよべり。りて祭禮さいれいおさおこなひ、報謝ほうしゃ精誠まこといたたまひ、つねにしもなき幣使へいしらしむと、吉日きちにち良辰りょうしんえらさだめて、正四位下おおきよつのくらいのしもつしな右近衞權中將うこんえのごんのちゅうじょう藤原朝臣ふじわらのあそみ公賀きみよし使つかわして、禮代いやじろ大幣おおみてぐらささたしめていだまつたまふ。大權現だいごんげんさまたいらけくやすけくきこしめして、天皇すめら朝廷みかどを、寶位ほういうごきなく常磐ときわ堅磐かきわに、夜守よまも日守ひまもりにまもさきはへたまひて、文敎ぶんきょうますますさかん武運ぶうんいやひさまもめぐたまへとかしこかしこみももうたまはくともうす。

【字句謹解】◯下野の日光に御坐せる東照宮大權現 德川とくがわ家康いえやすれいのこと。權現ごんげんとはぶつ菩薩ぼさつして用ひたかみ尊號そんごうである ◯世の亂を治め 家康が天下を統一して戰國せんごく時代の締めくくりをつけた意 ◯泰平の勳績 天下を太平にさせた功績 ◯四海波靜に 四かいは四方のうみ、それが風もなく波がしずかにあるといふのは天下が太平である意 ◯萬民所を安んずる 國民全部があたへられた自己の地位に滿足まんぞくすることで、やはり天下が太平なことを他の言葉で表現したのである ◯二百五十囘の遠忌 薨後こうご二百五十年目にあたる日、家康は後水尾ごみずのお天皇元和げんな二年(皇紀二二七六年)にこうじたので、本詔ほんしょうたまわつた慶應けいおう元年(皇紀二五二五年)は二百五十年目にあたる。なほ、太政大臣だじょうだいじんの地位でこうじた家康は、翌三年二月に東照とうしょう大權現だいごんげん勅號ちょくごうたまひ、三月しょうおくられ、正保しょうほ三年には東照宮とうしょうぐう神號しんごうたまわつた。〔註一〕參照 ◯報謝の精誠を致し給ひ 家康がみだれた天下を天皇に代つて平定したのち、天皇が感謝されるために誠心せいしんから祭禮さいれいを行はれること ◯常にしもなき 常例に見られない程の ◯吉日良辰 共に星𢌞ほしまわりの最上の日の意 ◯寶位 皇位こういのこと ◯文敎倍盛に 精神せいしん的に國民を善導ぜんどうすることがますます盛大に ◯武運彌久に 我國わがくに武威ぶ いをいよいよ輝かす。

〔註一〕二百五十囘の遠忌 德川とくがわ家康いえやす天文てんもん十一年十二月の出生しゅっしょうである。幼名ようめい竹千代たけちよ通稱つうしょうは二ろう(藏人とも云つた)その初名しょめいは、元信もとのぶといひ、元康もとやすともつたが、後、家康いえやすと改めた。れは德川とくがわ廣忠ひろた長子ちょうしで、母は水野みずの忠政ただまさむすめである。六歳の時、故郷岡崎おかざきの地を離れて、尾張おわり國主こくしゅ織田お だ信秀のぶひでのもとに人質となり、三年の後、一度、歸郷ききょうしたが、再び今川いまがわ義元よしもとたいする關係かんけい上、人質とならしめらるる厄運やくうんおちいり、駿府すんぷおもむいた。この間、家康は他人の間にゐて、いろいろと人生の經驗けいけんを重ね、天文てんもん十八年その父が卒去そっきょしたときも、本國ほんごくかえることを許されなかつたのである。が、れが他日たじつ大成たいせいすべき下地は、この時代の苦勞くろうによつて築かれたとつてよい。

 家康が始めて岡崎にかえることが出來たのは、永祿えいろく二年、今川いまがわ義元よしもとのため、敵軍の重圍じゅういおかして、大高城おおたかじょう兵粮ひょうろうを入れるこうを立てた際にある。當時とうじれは一大高城おおたかじょうを守つて、重任を全うしたが、義元よしもと卒去そっきょの時ようやく自立することが出來た。爾來じらい、家康は名將めいしょうとしての資質ししつ發揮はっきし、附近ふきんの地を攻略して、ぼ三かわを統一した。かうして永祿えいろく七年、左京大夫さきょうのたいふとなり、武田たけだ信玄しんげんと提携して、今川いまがわ氏眞うじざねたたかひ、遠江とおとうみに地を手に入れた。爾來じらい、家康の勢力は次第に伸び、元龜げんき元年、その居城を濱松はままつに築いたのである。

 當時とうじ、家康の實力じつりょくは、織田お だ信長のぶながの認むるところとなり、家康のもとに提携を申込んだので、共に朝倉あさくら義景よしかげを討ち、姉川あねがわ合戰かっせん武勇ぶゆうあらはした。元龜げんき二年、じゅ位上いじょう侍從じじゅうに任ぜられ、次いで武田信玄が家康の所領しょりょう遠江とおとうみの地を侵略しようとするに及び、在來ざいらい盟約めいやくて、三方みかたはらたたかひ、益々ますます勇名ゆうめいせた。そののち天正てんしょう六年、家康は、しょう位下い げのぼり、同年五月、織田信長應援おうえんして、武田たけだ勝賴かつより長篠ながしのに破り、到頭とうとう勝賴かつよりほろぼしたのち駿河するがの地を所領しょりょうとした。かくて駿すんえん・三の三ごくは、家康のるところとなり、名將めいしょうとしての器量は、當時とうじおもきすに至つたのである。これより先、家康はじゅ位下い げ右少將うしょうしょうに進み、更に天正てんしょう八年には、じゅ位上いじょうとなつた。天正てんしょう十年れの知己ち きたる織田信長がそのしん明智あけち光秀みつひでのために、本能寺ほんのうじしいされたほうに接すると、當時とうじ、堺にゐた家康は急いで岡崎へかえつて、更に京都におもむかうとしたが、豐臣秀吉がすで光秀みつひでちゅうしたとことを知ると、出發しゅっぱつを思ひとどまつた。いでれは北條ほうじょう氏直うじなおと提携し、そのむすめ氏直うじなおのもとにせしめた。やがて天正てんしょう十一年、しょう位下い げ右中將うちゅうじょうに任ぜられ、十二年、じゅ參議さんぎの地位にのぼつた。折柄おりから、秀吉が信長の子、信雄のぶかずを除き去らうとするにあたり、信雄のぶかずから救ひを求められたので、これを助け、小牧こまきの地で秀吉の軍とたたかひ、勝利を得たことにより、一段の重きを加へたのである。

 當時とうじ、家康は、一たん、秀吉の軍を破つたが、長くこれこうすることの不利を知り、秀吉のひにまかせて、講和こうわした。天正てんしょう十三年、豐臣秀吉は、威風いふう、天下をあっしてゐたが、ひとり、家康をくっすることが出來ぬといふ有樣ありさで、實力じつりょく名望上めいぼうじょう、秀吉にぐものは、家康だといふ事がおのずかあきらかになつた。それゆえ、秀吉は天文てんもん十三年、その生母大政所おおまんどころしちとし家康に接近し、その妹朝日姬あさひひめを家康にせしめて、歡心かんしんおさめたのである。

 かうした關係上かんけいじょう、家康はその子、秀康ひでやすを秀吉の養子とし、次いで入洛じゅらくして、秀吉に逢ひ、その傘下さんかに加はつた。爾來じらい、家康は秀吉の推重すいじゅうする人として、益々ますます力を伸べ、天文てんもん十三年、しょう中納言ごんちゅうなごんとなり、こうしんこくをもその勢力圏に入れ、同十五年、じゅごん大納言だいなごん左大將さだいしょうに進んだ。更に秀吉の薨後こうご、天下五大老たいろうの一人となり、せきはらたたかい石田いしだ三成かずしげらの軍を破つて、慶長けいちょう八年、征夷せいい大將軍たいしょうぐんに任ぜられ、德川とくがわ三百年のもといを作つた。元和げんな四年薨去こうきょ、時にとし七十五。

【大意謹述】天皇御詞みことばにより、つつしんで下野國しもつけのくに日光山にっこうさん鎭座ちんざあられる東照宮とうしょうぐう大權現だいごんげん(德川家康の神號)の御前みまえ申上もうしあげる。その昔、戰國せんごく時代にあさみだれた世の中を統一し、國民を水火すいかくるしみから救ひあげ、天下太平の功績をまっとうせられて以來いらい、日本には長く平和がつづき、國民各自あたへられたその地位に滿足まんぞくするやうになつたことは、ただただ大權現だいごんげん我國わがくにを助け、守護された結果に相違そういないと思召おぼしめされる。今年、その二百五十年に際して祭禮さいれい擧行きょこうし、天皇が心から謝意をあらはされ、常例にない奉幣使ほうへいしを派遣しようと、最上の星𢌞ほしまわりの日を撰定せんていし、ここにしょう位下い げこう右近衞權中將うこんえのごんのちゅうじょう藤原朝臣ふじわらのあそん公賀きみよし宣命使せんみょうしとして、御禮おんれい幣帛へいはく捧持ほうじせしめて日光に出發しゅっぱつさせることになつた。大權現だいごんげんに於かせられては、以上のむねをそのまま受納じゅのうあつて平安にきこしめされ、我が皇室の地位を永久不變ふへん大石たいせきの如く久遠くおんに微動だにもさせず、晝夜ちゅうや共に加護か ごされ幸福こうふくさずけられ、益々ますます文敎ぶんきょうが盛大におもむくやう、我が武威ぶ いが永く四方にあがるやう、つつしんで特別の守護をねがたてまつる。

【備考】東照宮とうしょうぐう二百五十年祭にあたり、常例にない奉幣使ほうへいし差遣さけんされたことは、矢張やはり、非常時の平安を只管ひたすらいのられためと拜察はいさつされる。明治天皇御治世ごちせい王政おうせい復古ふっこの最初にあた神道しんどう振興しんこうされたのは、もとより復古ふっこといふ意味からではあつたが、孝明こうめい天皇御世み よにもう神道しんどう思想の興起こうき事實じじつの上に見たのである。天皇の時代に於ける詔勅しょうちょくの一ぱん神祇じんぎ尊崇そんそうの上に表示されてゐる。伊勢大廟いせのだいびょうたいする御尊信ごそんしんは格別であつたが、これに次いでは特に石淸水いわしみず八幡はちまんを深く信仰せられた。それから賀茂か も神社じんじゃたいする尊崇そんそう御心みこころまた厚かつたのである。その事は詔勅ごしょうちょくの上にあらはれてゐる。その東照宮とうしょうぐう祇園ぎおん神社じんじゃ貴布禰き ふ ね神社じんじゃ宇佐う さ八幡はちまん及び北野きたの春日かすが兩社りょうしゃとうにも國安こくあんいのられ、神武じんむ天皇山陵さんりょう修成しゅうせいして、さい三、國難こくなん排除をいのられた。時には神功じんごう皇后こうごう御陵ごりょう外患がいかん調伏ちょうぶく祈禱きとうされた事もある。孝明こうめい天皇が日夜間斷かんだんなく、なやうれたまふのは、外夷がいい跳梁ちょうりょう跋扈ばっこにあつたことが、明白に拜察はいさつされてかしこきわみである。天皇當時とうじ如何い かに一身のやすきを忘れて、國家・國民のため切實せつじつに配慮せられ、慨然がいぜん洋夷よういを一ぱいしようと御奮勵ごふんれいあらせられたとうと御姿おすがたを今、歷々ありありと思ひ浮べまゐらせて、肅然しゅくぜんかたちを正し改めずにはられない。