読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

52-1 石淸水社に內憂外患祈禱の宣命 孝明天皇(第百二十一代)

石淸水社いわしみずしゃ內憂ないゆう外患がいかん祈禱きとう宣命せんみょう(第一段)(元治元年九月 孝明天皇紀)

天皇詔旨、掛畏石淸水御坐勢留八幡大菩薩廣前、恐美毛申給者久止、去七月不意禁門近干戈災起、民屋多燒亡、武士東西亂走、公民遠近奔逃、殊躁驚奴留乎御意令惱給比之加、不日靜謐奴禮止、叡慮猶不安給。彼周防長門凶徒等攘鎭給牟止所念。然又戎虜來寇須止聞⻝。彼云、此云、皇國患難此、朕不德所招加止、晝夜無間憂念恥歎給

【謹譯】天皇すめら詔旨みことと、けまくもかしこ石淸水いわしみず御坐おわしませる八幡はちまん大菩薩だいぼさつひろきみまえに、かしこかしこみももうたまはくともうさく、いぬる七がつおもはずも禁門きんもんちか干戈かんかうごかすのわざわいおこりて、民屋みんおくおおほろび、武士ぶ し東西とうざいみだはしり、公民おおみたから遠近おちこちはしのがれ、ことさわおどろきぬるを、ふか御意ぎょいなやましめたまひしが、ならずして靜謐せいひつりぬれど、叡慮えいりょなおやすんじたまはず。周防すおう長州ちょうしゅう凶徒きょうとはらしずたまはむとおもほす。しかるにまた戎虜じゅうりょきたあだすときこしめす。かれひ、これひ、皇國こうこく患難かんなんここいたるは、ちん不德ふとくまねところかと、晝夜ちゅうやひまなくうれおもなげたまふ。

【字句謹解】◯去る七月 有名な蛤御門はまぐりごもんへんのこと。〔註一〕參照 ◯禁門近く 宮中の附近ふきんの意 ◯干戈を動かすの災 武器を動かしてあらそ不祥事ふしょうじ ◯靜謐 平和と同じ意 ◯叡慮 天皇御志おこころざし ◯周防 長州ちょうしゅうと同じく毛利藩もうりはんのこと ◯戎虜の來り寇す 元治がんじ元年八月にイギリス・アメリカ・フランス・オランダの聯合れんごう艦隊が下關しものせき襲擊しゅうげきしたことを指す。〔註二〕參照 ◯彼と云ひ 內憂ないゆうの意 ◯此と云ひ 外患がいかんの意 ◯患難 危急ききゅう存亡そんぼうときを意味する。心配となる難事 ◯不德の招く所 とくすくないことに原因する。

〔註一〕蛤御門の變 幕府は安政あんせい大獄たいごくに於いて極度の彈壓だんあつ政策を執り、尊王そんのう攘夷じょうい派の人々を苦しめたが、世の形勢は益々ますます進み、やがて討幕論とうばくろんさかんになつた。時に文久ぶんきゅう三年四月十一日孝明こうめい天皇かしこくも男山おとこやま石淸水いわしみず八幡宮はちまんぐう行幸ぎょうこうあり、供奉ぐ ぶする筈の將軍しょうぐん家茂いえもち不參ふさんだつたが、攘夷じょうい期を五月十日と決定された。期日になつて一方では長藩ちょうはんがアメリカ船を砲撃ほうげきし、他方では薩藩さつまを中心とした生麥なまむぎ事件が起り、それが共にわれに不利で終つただけに攘夷じょうい論者ろんしゃは「くに燒土しょうどとしても異國人いこくじんを一人も上陸させまい」と悲壯ひそうな決心を定め、開國かいこく論者ろんしゃは「攘夷じょういでは國は滅亡するのほかはない」と考へ、はげしく對立たいりつすることになつた。

 ここに至つて長藩ちょうはん攘夷じょうい論者ろんしゃ至尊しそん御親征ごしんせい奏請そうせいし、朝議ちょうぎもこれに傾いて、車駕しゃが大和やまと行幸ぎょうこうされた時、公武こうぶ合體がったい論者ろんしゃの薩藩は京都守護職しゅごしょく松平まつだいら容保かたもりと結んで朝議ちょうぎを一ぺんさせ、その結果有名な七きょうちとなり、攘夷じょうい論者の大部分は長州に逃れ、京都は會津あいず・薩摩の兵を以て守られた。朝廷では三じょう實美さねとみなどの官職かんしょくけずり、長州藩主の入京にゅうきょうとどたもうたのである。

 長州ちょうしゅう藩士はんしはこの處置しょちに我慢出來ず。元治がんじ元年、長藩ちょうはんの老臣益田ますだ右衞門介うえもんのすけ福原ふくはら越後えちごなどが入洛じゅらくし、伏見ふしみ嵯峨さ が山崎やまざき分屯ぶんとんして京都所司代しょしだいである桑名くわな藩主松平まつだいら定敬さだのりしょていし、七きょう及び藩主の宥免ゆうめん哀訴あいそした。一橋ひとつばし慶喜よしのぶはこの時、會津あいず薩摩さつま藩主とはかつて、右の人々に歸國きこくを命じたがふくしない。「この上は武力でうち退ける」と各部署を定めたよしを知つた長州ちょうしゅう軍は、「それこそ望む所」とこれにおうじ、七月十八・十九日に、中立賣なかたちうり堺町さかいまち蛤門はまぐりもんの三方面で激戰げきせんした末、長州兵は敗走した。所謂いわゆる蛤御門はまぐりごもんへんとはこの事で、元治がんじへんともいふ。

〔註二〕外艦の下關砲撃 朝廷の命につて文久ぶんきゅう三年五月十日に攘夷じょうい期日を定めた幕府は、これを諸外國に通知しても諸外國は受けつけなかつた。期日になつて、長州藩ちょうしゅうはん下關しものせきを守つてゐる關係上かんけいじょう攘夷じょうい主義からアメリカ船の通行を見てこれ發砲はっぽうし、イギリス・フランス・オランダ船にも攻擊こうげきを加へた。翌元治がんじ元年になつて以上の四こく聯合れんごう艦隊は下關しものせき襲擊しゅうげきしたが、遂に長藩ちょうはんはこれにてきず、こうじたのである。

〔注意〕文久ぶんきゅう三年四月の『賀茂祭かもさい外患がいかん調伏ちょうぶく祈禱きとう宣命せんみょう』には「ことけてもうさく、蠻夷ばんい神州しんしゅうけがあなどるの倨驁きょごうなる所爲しわざさまを、如何い かにやせむとうれたまひ、あやぶたまひ、拒絕きょぜつ謨議ぼ ぎつくし限るを定めたまひて、いぬる三月にしも行幸ぎょうこうせしめたまひて、親しくみずか叡慮えいりょの事情を誓ひいのたまふ」とある。次に宣命ほんせんみょうの出た前後に同じ目的のもとたてまつられた詔勅しょうちょく宣命せんみょうを左に列擧れっきょする。

(一)甲子きのえね厄運やくうんはらふの宣命せんみょう(元治元年四月、孝明天皇紀)(二)神武じんむ天皇山陵さんりょう國安こくあんいのるの宣命(元治元年五月、孝明天皇紀)(三)宇佐う さ八幡宮はちまんぐう外患がいかん調伏ちょうぶく祈禱きとう宣命(元治元年九月、孝明天皇紀)(四)大神宮だいじんぐう奉幣ほうへい宣命(元治元年九月、孝明天皇紀)(五)石淸水いわしみず放生會ほうじょうえに際して內憂ないゆう外患がいかん祈禱の宣命(元治元年九月、孝明天皇紀)(六)石淸水社いわしみずしゃに內憂外患祈禱の宣命(元治元年九月、孝明天皇紀)(七)北野きたの臨時祭りんじさいふくし內憂外患を祈禱するの宣命(元治元年十一月、孝明天皇紀)(八)春日祭かすが舊儀きゅうぎふくし內憂外患を祈禱するの宣命慶應元年二月、孝明天皇紀)(九)祇園ぎおん臨時祭りんじさいを復するの宣命慶應元年九月、孝明天皇紀)(一〇)神嘗祭しんじょうさい奉幣ほうへい宣命慶應元年九月、孝明天皇紀)(一一)松尾祭まつおさいを復するの宣命慶應二年四月、孝明天皇紀)

【大意謹述】今、天皇大御言おおみこと石淸水いわしみずにまします八まん大菩薩だいぼさつ御前みまえおそつつしんで申し上げる。去る七月に、思ひもらず宮門きゅうもん附近ふきん長州勢ちょうしゅうぜいへん勃發ぼっぱつして附近ふきんの民家の多くはほろび、武士は東西にあはただしく走り𢌞まわり、市民はなんを避けて遠方に逃れ京都を中心とした地方は非常に騒々しかつたのである。陛下には深くこれを心痛あらせられたが、幾日もないうちにその變事へんじは治まりしものの、天皇に於かせられては未だ安堵あんどされず、京師けいしみだした周防すおう長州ちょうしゅう者共ものどもをすつかり京都から一そうしてしまひ、よく治安を保つてゆきたいと考へられた。以上の事が一先ひとまず片づいたかと思ふと、今度は遠く下關しものせき異國人いこくじんが侵入しきたり、そのあたりおかしたとの報が叡聞えいぶんに達したのである。蛤門はまぐりもんに於ける長州兵の暴行といひ、下關しものせきに於ける異國船の日本領土にたいする攻擊こうげきといひ、內憂ないゆう外患がいかんに起つたのは、ちん不德ふとくに原因するに相違そういないと、晝夜ちゅうや、常にこれらについて御惱おなやみあり、御身おんみかえりみられてなげいておはす次第である。