50 僧道元に國師號を賜ふの勅 孝明天皇(第百二十一代)

そう道元どうげん國師號こくしごうたまふのみことのり安政元年二月 孝明天皇紀)

吉祥山永平寺開基道元禪師。本出華冑、便入桑門。重瞳照室、夙表人天之師。一葦航海遙求佛祖之道、禪慧圓淨、辭彼震旦之雲。身心脫落、歸我日出之邦。觀有爲法普濟萬物、以無礙慈覺悟衆生。創興聖於城南、闢吉祥於北越、玄化偏覆、芳聲遠播。九重延想、萬里契誠、相門降貴、武夫銷勇。盛哉妙機、大哉道德。來瓜瓞綿綿、閱永平六百星霜、馨香芬芬、薰楓宸一脈天風。緬懷厥人、豈無徽號。宜謚佛性傳東國師。

【謹譯】吉祥山きっしょうざん永平寺えいへいじ開基かいき道元どうげん禪師ぜんしもと華冑かっちゅうづ。便すなわ桑門そうもんり、重瞳ちょうどうしつてらし、つと人天にんでんとしてあらはる。一航海こうかいしてはるかに佛祖ぶっそみちもとめ、禪慧ぜんね圓淨えんじょう震旦しんたんくもし、身心しんしん脫落だつらく日出ひのでくにかえる。有爲う いほうかんじて、あまね萬物ばんぶつすくひ、無礙む げもって、衆生しゅじょう覺悟かくごせしむ。興聖こうしょう城南じょうなんはじめ、吉祥きっしょう北越ほくえつひらき、玄化げんかあまねおおひ、芳聲ほうせいとおけり。九重ここのえおもいべ、萬里ばんりまことちぎり、相門しょうもんとうときくだし、武夫ぶ ふゆうしょうせしむ。さかんなるかな妙機みょうきだいなるかな道德どうとく爾來じらい瓜瓞かてつ綿綿めんめんとして永平えいへいに六百星霜せいそうけみし、馨香けいこう芬芬ふんぷんとして、楓震ふうしんに一みゃく天風てんぷうくんず。はるかひとおもふ、あに徽號きごうなからんや。よろしく佛性傳ぶっしょうでん東國師とうこくしおくりなすべし。

【字句謹解】◯永平寺 越前にある禪宗ぜんしゅうの本山 ◯道元禪師 榮西えいさいと前後して禪宗ぜんしゅうの一派を開いた鎌倉時代名僧めいそう。〔註一〕參照 ◯華冑 貴族の事 ◯桑門 佛門ぶつもんに同じ ◯重瞳 俗にいふ、ふたへまぶち、相貌上そうぼうじょうひいでた一特徵とくちょう ◯人天 天上から人間迄、すなわち上流・中流を問はずあまねひろくわたつての意 ◯一葦 一そうふね ◯佛祖 禪宗ぜんしゅう達磨だるま大師だいし。〔註二〕參照 ◯禪慧 禪機ぜんきにさとい ◯圓淨 圓滿えんまんに全くきよい ◯震旦 印度インド支那し なを呼んでつた名稱めいしょう ◯脫落 ぬけおつ、又は捨てさるといふ意味だが、ここでは心身の執著しゅうじゃくを去る意 ◯日出の邦 日本の事 ◯有爲 人生指導に役立つ意 ◯無礙 自由自在に伸びひろがる義 ◯覺悟 人生のさとりを開く ◯興聖 宇治う じ深草ふかくさ興聖寺こうしょうじ ◯城南 京都の南方 ◯北越 越前を意味す ◯玄化 優れた微妙な感化かんか ◯芳聲 かんばしい名聲めいせい ◯九重 帝王の宮裡きゅうり ◯萬里に誠を契り 萬里ばんりの遠方にある、名僧めいそう名士めいしと誠意を以て道交どうこう禪風ぜんぷうつたへる ◯相門に貴を降し 大臣らの重位じゅういにあるものをして、へりくだらしめる ◯勇を銷せしむ ゆうを誇る武人をして謙虛けんきょならしめる ◯妙機 常人じょうにんの及び難い應機おうき說法せっぽう。〔註三〕參照 ◯瓜瓞 大小の瓜すなわち瓜のるやうに出來る後繼者こうけいしゃの事 ◯綿綿 長くつづく事 ◯聲香 宗風しゅうふうかんばしいことの形容 ◯楓震 帝王の宮殿 ◯天風 禪風ぜんぷうを形容した美辭び じ ◯徽號 よきおくりな

〔註一〕道元の閱歷 道元どうげん親鸞しんらんぼ同時代の人で、土御門つちみかど天皇正治しょうじ二年正月、內大臣ないだいじん久我く が通親みちちかの長男として生れた。母は太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわら基房もとふさじょである。道元どうげんが、かかる立派な家に生れながら、政治界へ出ずに、佛門ぶつもんに入つたといふことは、一寸ちょっと不思議に考へられよう。けだれは、三歳で父に別れ、八歳で母をうしなひ、孤兒こ じとしてさびしい人生に直面したことが、れをして發心ほっしんせしめたのであらう。かくて十三歳の時、叡山えいざんに登り、十八歳の時、京都の建仁寺けんにんじ榮西えいさいうて、その法弟ほうてい明全みょうぜんから禪宗ぜんしゅうの內容をおしへられた。爾來じらい道元どうげん禪宗ぜんしゅうに共鳴し、貞應じょうおう二年、支那し なに渡つて、如淨にょじょう禪師ぜんしについてまなび、滯在たいざい數年すうねんのち、二十八歳で日本へかえつた。それから京都にとどまつて、禪風ぜんぷう鼓吹こすいし、宇治う じ深草ふかくさ興聖寺こうしょうじにをつたが寶元ほうげん元年、波多野は た の義重よししげが越前に永平寺えいへいじを建てて招請しょうせいするに及び、同地におもむいたのである。その後、道元どうげん學德がくとくが加はると、北條時賴ほうじょうときより尊信そんしんする所となり、後嵯峨上皇ごさがじょうこうから紫衣し いたまわるの光榮こうえいよくした。かうした得意の地位にゐながら、道元どうげんは、平生へいぜい、「皆無かいむ所得しょとく」を念持ねんじして、淸貧せいひんやすんじ、山上さんじょう禪刹ぜんせつで、しずかに座禪ざぜんまいることを喜びとした。その著「正法しょうぼう眼藏げんぞう』『永平えいへい廣錄こうろく』『永平えいへい淸規しんき』などは、禪宗ぜんしゅうを日本化して、道元どうげんの個性をそこに反映してゐる。れが示寂じじゃくしたのは、五十四歳の時だつた。

〔註二〕達磨 梵語ぼんごでは菩提ぼだい達磨だるま(Bodhidharma)といふ。南印度みなみインドの人で、支那し な禪宗ぜんしゅう始祖し そである。れは初め般若はんにゃ多羅た らについて四十年間勉學べんがくし、のち支那し なおもむき、りょう武帝ぶていに知られ、嵩山すうざん少林寺しょうりんじにゐた。その時、れは面壁めんぺき九年の修業を積み、ここ禪風ぜんぷう宣揚せんようしたのである。永安えいあん元年卒去そっきょ支那し な(唐)の天子から圓覺えんかく大師だいし謚號しごうたまわつた。

〔註三〕妙機 人々にぜん妙機みょうきつたへた道元どうげん宗風しゅうふうついて、ここに一げんする。れは座禪ざぜんそのものを一番大切にした。何故な ぜ左樣そ うしたか。道元どうげんの信ずる所によると、「座禪ざぜんとはほとけおこなひを修めることで、自分たちは座禪ざぜんによつて成佛じょうぶつするのではなく、元來がんらい、各自が平等に佛心ぶっしんを持つてゐる。いな佛性ぶっしょううちに我々がゐるのだ。だから、いきお凡夫ぼんぷ所作しょさをやめ、ほとけおこなひとしての座禪ざぜんを修め、本來ほんらい佛性ぶっしょう發揮はっきすべきである」といふのが主眼しゅがんである。れはいずれかといふと、佛法ぶっぽうを第一位に置き、國家のための佛法ぶっぽうではなく、佛法ぶっぽうのための國家だといふ風に信じてゐる。かうなると、すこしく、佛法ぶっぽうを重んじ過ぎた弊害へいがいがある。けれども「皆無かいむ所得しょとく」を標榜ひょうぼうし、禪道ぜんどうるには「道心どうしんあつて、名利みょうりをなげすてんひとるべし」とつた。道元どうげん妙機みょうきを捕へる方法は大體だいたい、以上により、おのづから分明ぶんめいしようと思ふ。

〔注意〕孝明こうめい天皇の時代につて、諸宗しょしゅう高僧こうそう國師號こくしごう大師號だいしごう禪師號ぜんしごうたまわつた例が割合に多くなつてゐる。今、その光榮こうえいよくした人々をげると、景巴けいは禪悅ぜんえつ大觀たいかん濟宗さいしゅう月珊げっさん暘山ようざん超譽ちょうよ陽開ようかい俊嶺しゅんれい南海なんかい萬寧ばんねい菊潭きくたん空谷くうこく圓光えんこう太元たいげんを始め、碓州たいしゅう直傳ちょくでん潤叟じゅんそう泰嶺たいれい雪堂せつどう要峰ようほうがある。亮深りょうしんの如きは三ぐうに準じ牛車ぎっしゃたまわつた。それらは名僧めいそう尊信そんしんさるる事によるが、一つは內憂ないゆう外患がいかんに臨んで、國家平安をいのらせらるる大御心おおみこころからも出てゐる事と拜察はいさつせられる。

 さて道元どうげんは、以上のうちにおいて、特に傑出けっしゅつした一人で、その著『正法しょうぽう眼藏げんぞう』の中には座禪ざぜんの要領を巧みにいてゐる。今、その一部を抄錄しょうろくする。

「おろかならん人、うたがうていはん、佛法ぶっぽうにおほくの門あり。なにをもてか、ひとへに座禪ざぜんをすすむるや。しめしていはく、これ佛法ぶっぽう正門しょうもんなるをもてなり。とうていはく、何ぞひとり正門しょうもんとする。しめしていはく、大師だいし釋尊しゃくそん、まさしく得道とくどう妙術みょうじゅつ正傳しょうでんし、また三如來にょらい、共に座禪ざぜんより得道とくどうせり。このゆえ正門しょうもんなることを相傳あいつたへたるなり。しかのみにあらず、西天せいてん東地とうち諸祖しょそ、みな座禪ざぜんより得道とくどうせるなり。ゆゑに今正門しょうもん人天にんでんにしめす。とうていはく、あるひは如來にょらい妙術みょうじゅつ正傳しょうでんし、または祖師そ しのあとをたづぬるによらん。まことに凡慮ぼんりょの及ぶにあらず。しかはあれども、讀經どきょう念佛ねんぶつは、おのづからさとりの因緣いんねんとなりぬべし。ただむなしくしてなすところなからん。なんによりてか、さとりをるたよりとならん。しめしていはく、なんじ諸佛しょぶつ三昧ざんまい無上むじょう大法だいほうむなしくしてなすところなしとおもはん。これを大乘だいじょうぼうする人とす。まどひのいと深き、大海たいかいの中に居ながら、水なしといはんが如し。すでにかたじけなく、諸佛しょぶつ自受用じじゅゆう三昧ざんまい安座あんざせり。これ廣大こうだい功德くどくをなすにあらずや。あはれむべし、まなこいまひらけず、心なほゑひにあることを。およ諸佛しょぶつ境界きょうがいは不可思議なり、心識しんしきの及ぶべきにあらず、いわん不信ふしん劣智れっちのしることを得んや。ただ正信しょうしん大機たいきのみくいることをるなり。不信の人は、たとひおしふるとも、うくべきことかたし、靈山りょうぜん退亦たいやく佳矣け いのたぐひあり。およそ心に正信しょうしんおこらば修業し、參學さんがくすべし。しかあらずば、しばらくやむべし。昔より法のうるほひなきことをうらみよ。又讀經どきょう念佛ねんぶつ等のつとめに、るところの功德くどくなんじ知るやいなや。ただ舌を動かし、こえをあぐるを佛事ぶつじ功德くどくとおもへる、いとはかなし。佛法ぶっぽうするにうたたとほく、いよいよはるかなり。又經書きょうしょをひらく事は、ほとけ頓禪とんぜん修業の儀則ぎそくおしへをけるをあきらしめり。きょうの如く修業すれば、必ずしるしをとらしめんとなり。いたずらに思慮・念度ねんどをつひやして、菩提ぼだいをうる功德くどくせんとにはあらぬなり。おろかに千萬誦まんじゅ口業くごうをしきりにして、佛道ぶつどうにいたらんとするは、なほこれかじを北にしてえつに向はんと、おもはんが如し。」(下略)

【大意謹述】ここ吉祥山きっしょうざん永平寺えいへいじはじめた道元どうげん禪師ぜんしれいに告げる。禪師ぜんし本來ほんらい、立派な貴族の家に生れて、殿上でんじょう生活をすべきであつたが、人生に感ずる所あつて、佛門ぶつもんの人となつた。その重瞳ちょうどうにひとしい佛智ぶっちは、周圍しゅういを照らし、早くから上下に重んぜられて、その師表しひょうとなつたのである。その後、一ようの船に身をたくして、はるばると萬里ばんりの波をしのいで支那し なに渡り、禪宗ぜんしゅう達磨だるま大師だいし本懷ほんがいとするところを研究した。かうしてぜんの上でさとく、きよい業績を作り、悟道ごどうの目的を達して、支那し なをあとにし、すがすがしい身心しんしん日出ひ いづる祖國そこくかえつて來たのである。爾來じらい、人生指導に役立つ禪法ぜんぽう發明はつめいしてひろく人々を導き、限りない慈愛じあいの心を以て世人せじんに人生の一大事を覺悟かくごせしめた。同寺に京都の南方にあた宇治う じ深草ふかくさの地に興聖寺こうしょうじを起して禪風ぜんぷう宣揚せんようし、また北越ほくえつの地に吉祥山きっしょうざん永平寺えいへいじを建てて、本山とした。禪師ぜんしの優れた感化かんかは四方に及び、その名聲めいせいいたところに高い。へいせられて九重ここのえ、雲深き宮廷にその感想を述べ、また萬里ばんりの遠きにわたつて名僧めいそう名士めいしらとまことを以て道交どうこうちぎるに至つた。されば重い地位にゐる大臣らも、禪師ぜんしとうとんで、一歩をゆずり、いかつい武勇ぶゆうの士も、禪師ぜんしの前では、謙遜けんそんして、やはらぐといふ風である。じつにその應機おうき說法せっぽうの力はさかんであり、その道德どうとくを示すあとは偉大だとはねばならぬ。爾來じらい禪師ぜんし宗風しゅうふう繼承けいしょうするものが、大小の瓜のるやうに出來て、ゆる事なく、永平寺えいへいじではすでに六百年間の法燈ほうどうを維持し、禪風ぜんぷうきよかおつて、宮廷の上にも及んでゐる。今、はるかに禪師ぜんし風采ふうさいおもふとき、その高德こうとくを表彰すべき佳號かごうを授けたいと考へる。つてちんここ佛性傳ぶっしょうでん東國師とうこくしといふおくりな禪師ぜんし下賜か しする。