49-1 石淸水放生會に外患調伏を祈るの宣命 孝明天皇(第百二十一代)

石淸水いわしみず放生會ほうじょうえ外患がいかん調伏ちょうぶくいのるの宣命せんみょう(第一段)(嘉永六年八月 孝明天皇紀)

天皇詔旨、掛畏石淸水御坐勢留八幡大菩薩廣前、恐美毛申給波久止、去延久二年與利、納言參議辨外記史諸衞等差定、放生會行幸令供奉、兼又前後當日相竝三箇日放生令行給比氐、奉出給宇都御幣、官位姓名差使奉出給、掛畏大菩薩、平聞⻝天皇朝廷、寶位無動常磐堅磐、夜守日守護幸給、天下國家乎毛無事無故、安穩泰平恤給倍止、恐美毛申給波久止申。

【謹譯】天皇すめら詔旨みことと、けまくもかしこ石淸水いわしみず御坐おわしませる八幡はちまん大菩薩だいぼさつひろきみまえに、かしこかしこみももうたまはくともうさく、いぬ延久えんきゅうねんよりはじめて、納言なごん參議さんぎべん外記げ きふびと諸衞しょえいたちさだめて、放生會ほうじょうえ行幸みゆきごと供奉ぐ ぶせしめ、ねてまた前後ぜんご當日とうじつ相竝あいならび三箇日がにち放生ほうじょうことおこなはせたまひて、いだたてまつたま宇豆う ず御幣みてぐらを、官位かんい姓名せいめい使つかわしていだたてまつたまことを、けまくもかしこ大菩薩だいぼさつたいらけくやすらけくきこしめして、天皇すめら朝廷みかどを、寶位ほういうごきなく常磐ときわ堅磐かきわに、夜守よ も日守ひ もりにまもさきわたまひ、天下てんか國家こっかをもことなくゆえなく、安穩あんのん泰平たいへいあわれたすたまへと、かしこかしこみももうたまはくともうす。

【字句謹解】◯石淸水放生會 男山おとこやま石淸水いわしみず八幡宮はちまんぐうで、每年まいねん八月十五日に行はれる放生會ほうじょうえのこと。〔註一〕參照 ◯外患調伏 神の御力おちからつて外交上の國難こくなんを打ちはらふこと。〔註二〕參照 ◯石淸水に御坐せる八幡大菩薩 これに就いては本篇中に謹述きんじゅつした『石淸水いわしみず八幡宮はちまんぐう奉幣ほうへい宣命せんみょう』(朱雀天皇天慶四年八月、本朝世紀)の〔註一〕を參照のこと ◯去る延久二年より始めて 放生會ほうじょうえ後三條ごさんじょう天皇延久えんきゅう二年(皇紀一七三〇年)に始まつた意。〔註三〕參照 ◯納言 太政官だじょうかん次官じかん大納言だいなごん中納言ちゅうなごん少納言しょうなごん總稱そうしょう和訓わくんでは「ものまをすつかさ」あるいは「なふごん」といふ ◯參議 太政官中に置かれた官名で、大臣及び大中納言と共に政治に參議さんぎしたもの。四位以上で公卿く げの列にある人々から選ばれた。和訓は「おほまつりごとびと」である ◯ これも太政官ぞくする官名で、左右に分かれて、各自に大中少があつた。八しょう分擔ぶんたんしての文書の受附うけつけ及び國司こくし朝集ちょうしゅうなどのことをつかさどつた ◯外記 太政官にあつて少納言もとにをり、詔勅しょうちょく上奏文じょうそうぶん記錄きろくなどをつかさどり、除目じもく敍位じょいなどの公事く じ奉行ぶぎょうした。この職は大・少に分かれてゐる ◯ 太政官主典しゅてんのことで、文案の勘署かんしょ及び內外諸司しょしから上申じょうしんする庶務しょむを取り扱ふ。左右・大少各二人あるので都合八人居ることになる。和訓は「ふびと」といふ ◯諸衞 所謂いわゆる衞府え ふの役人、宮中の各方面を守護する官吏かんりのこと ◯前後當日相竝び三箇日 八月十四・五・六の三日間。

〔註一〕放生會 每年まいねん八月十五日を中心として行ふ法會ほうえで、捕へ置いた生類せいるいを放ちやる儀式、殺生戒せっしょうかいの趣旨によつて行はれるやうになつた。特に石淸水いわしみずで行はれるのが一番有名だ。その名は當日とうじつ讀誦どくじゅする『最勝王經さいしょうおうきょう』に「長者ちょうじゃの子、池にうおを放つ」とあるのから出たといはれる。この時には萬事ばんじ朝廷の諸節會せちえじゅんずるので、雅樂寮ががくりょうから樂人がくじん舞人ぶじんつかわし、左右の馬寮めりょうから十列うま各十ぴきけんじ、奉幣使ほうへいしが立ち、公卿く げ以下が參向さんこうする。宣命せんみょうたまひ、上卿じょうけい以下が著御ちゃくぎょすると、行幸ぎょうこうに准じ、衞府え ふの兵は武器を持つて警蹕けいひつこえきよらかに神輿みこしを送迎する。本宣命せんみょう中に「行幸みゆきごとに」とおおせられてあるのはこれを指してゐる。

〔註二〕外患 宣命ほんせんみょう嘉永かえい六年のアメリカ使節ペリイが來た時に神社じんじゃたてまつられたものだが、それ以前に北方からはロシアが、南方からはイギリスがわが國境こっきょうをおびやかし、尊王そんのう論者ろんしゃとしての高山たかやま彥九郞ひこくろう蒲生がもう君平くんぺい林子平はやししへい攘夷じょうい論者ろんしゃとしての藤田ふじた東湖とうこ開國かいこく論者ろんしゃとしての高野長英たかのちょうえい渡邊わたなべ崋山かざんなどが、各自の立場から國防こくぼうの急務を論じ、國中くにじゅうに幕府の無能を攻めるこえが高かつた。じつに我が言論界が空前の緊張を示したのみでなく、一歩誤れば、我國が異國の植民地となるべき危機にひんしてゐた。

〔註三〕放生會のはじめ 後三條ごさんじょう天皇延久えんきゅう二年八月十四日にみことのりがあり、奉幣使ほうへいしを立てて神輿みこしの送迎を行幸ぎょうこうじゅんぜしめて以來、この事は每年まいねん行はれてゐたが、例の應仁おうにんらんはじめとする戰國せんごく時代には一時え、延寶えんぽう七年に至つて再興さいこうされた。

〔注意〕宣命ほんせんみょうに「外患がいかん調伏ちょうぶく」とあるのが、十一年後の元治がんじ元年に至ると『石淸水社いわしみずしゃ內憂ないゆう外患がいかん祈禳きじょう宣命せんみょう』となり、內憂ないゆうの二字が加へられてゐる。それ以前に於ける各しゃへの御祈禳ごきじょうをここに列擧れっきょする。

(一)神嘗祭しんじょうさい外患がいかん調伏ちょうぶくいのるの宣命せんみょう嘉永六年九月、孝明天皇紀)(二)東照宮とうしょうぐうに外患調伏を祈るの宣命安政元年四月、孝明天皇紀)(三)賀茂か も臨時祭りんじさいに外患調伏を祈るの宣命安政元年十一月、孝明天皇紀)(四)賀茂祭かもさいに外患調伏を祈禱きとうするの宣命安政五年四月、孝明天皇紀)(五)大神宮だいじんぐうに外患調伏祈禱の宣命安政五年六月、孝明天皇紀)(六)石淸水いわしみずに外患調伏祈禱の宣命安政五年六月、孝明天皇紀)(七)賀茂社かもしゃに外患調伏祈禱の宣命安政五年六月、孝明天皇紀)(八)石淸水いわしみず放生會ほうじょうえに外患調伏祈禱の宣命安政五年八月、孝明天皇紀)(九)賀茂か も臨時祭りんじさいに外患調伏を祈禱するの宣命安政五年十一月、孝明天皇紀)(一〇)大神宮だいじんぐう奉幣ほうへい宣命文久元年五月、孝明天皇紀)(一一)大神宮だいじんぐうに外患調伏祈禱の宣命文久三年三月、孝明天皇紀)(一二)石淸水社いわしみずしゃに外患調伏祈禱の宣命文久三年三月、孝明天皇紀)(一三)石淸水いわしみず臨時祭りんじさいに外患調伏祈禱の宣命文久三年三月、孝明天皇紀)(一四)神武じんむ天皇神功じんごう皇后の御陵ごりょうに外患調伏祈禱の宣命文久三年三月、孝明天皇紀)(一五)賀茂祭かもさいに外患調伏祈禱の宣命文久三年四月、孝明天皇紀)(一六)石淸水いわしみず放生會ほうじょうえに外患調伏祈禱の宣命文久三年八月、孝明天皇紀)(一七)神嘗祭しんじょうさいに外患調伏祈禱の宣命文久三年九月、孝明天皇紀)(一八)鴨御祖かものおや神社じんじゃ遷宮しょうせんぐう宣命文久三年十二月、孝明天皇紀)(一九)賀茂別かもわけ雷社いかずちしゃ遷宮しょうせんぐう宣命(元治元年三月、孝明天皇紀)(二〇)貴布禰き ふ ね神社じんじゃ遷宮しょうせんぐう宣命(元治元年四月、孝明天皇紀)

就中なかんずく文久ぶんきゅう三年に多いのは朝廷に於いて攘夷じょういの事を決定あらせられたからであつた。

【大意謹述】今、天皇大御言おおみことを、石淸水いわしみずにまします八幡はちまん大菩薩だいぼさつ御前みまえに、おそつつしんで申し上げる。石淸水いわしみずに於ける放生會ほうじょうえ御事おんことは、後三條ごさんじょう天皇延久えんきゅう二年から開始され、その當日とうじつには太政官だじょうかんつかへる納言なごん參議さんぎべん外記げ きふびとの諸役人、及び六衞府え ふに詰めてゐる警護の人々を派遣して、神輿みこしの送迎を行幸ぎょうこうの儀式にじゅんじて行ひ、その上、當日とうじつを中心とした前の日、後の日の三日間はうおを池に放つて殺生戒せっしょうかいの趣旨にうてまゐつた通り執り行ふ次第である。尊信そんしんする大菩薩だいぼさつに於かせられては、この事をよく御承知あつて、天皇寶位ほういが微動だにせず、朝廷を永久に何物よりも堅固けんごひるも夜も御加護ご か ごあり、幸福こうふくあたへられ、天下及び國家を、無事に平和に、やすらかになごやかにと御慈悲ご じ ひれて助けたまはんことを、ここに陛下がこの上もなく恐れつつしんで申したまふことを告げたてまつる。