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44-5 神人衆徒等の濫行停止の宣命 鳥羽天皇(第七十四代)

神人しんじん衆徒しゅうと濫行らんぎょう停止ていし宣命せんみょう(第五段)(天永四年四月 石淸水文書)

方今興福延曆等兩所、互成訴訟、趣渉縱横禮利。無物禁止不奈皇憲。各施威猛之天、只企戰鬪。除此灾蘖、無爲無事、令護幸給波牟故止波、大菩薩御惠廣御助可有ナリ止所念行天奈牟。故是以、吉日良辰擇定、參議從三位行右大辨兼勘解由長官備前權守源朝臣重資、散位從五位下藤原朝臣泰盛等差使、禮代大幣令捧持奉出給

【謹譯】方今ほうこん興福こうふく延曆えんりゃくとう兩所りょうしょたがひに訴訟そしょうをなして、おもむ縱横じゅうおうわたれり。ものとして禁止きんしするなく、皇憲こうけんをなみす。おのおの威猛いもうほどこして、戰鬪せんとうくわだつ。灾糵さいげつのぞきて、すなくことなくて、まもさきわへしめたまはむことは、大菩薩だいぼさつあつ御惠みめぐみひろ御助おたすけにあるべきなりとおもほしめしてなむ。ここもって、吉日きちじつ良辰りょうしんえらさだめて、參議さんぎじゅこう右大辨うだいべんけん勘解由長官かげゆのかみ備前權守びぜんのごんのかみ朝臣みなもとのあそみ重資しげすけ散位さんいじゅげの藤原朝臣ふじわらのあそみ泰盛やすもり差使さしつかわして、禮代いやじろ大幣おおみてぐらささたしめてまつたまふ。

【字句謹解】◯興福 法相宗ほっそうしゅう大本山である興福寺こうふくじのこと、大和國やまとのくに添上郡そえかみごおり奈良市な ら しの中央にあり、山科寺やましなでらとも厩坂寺きゅうはんじともいふ。最初齊明さいめい天皇の三年に藤原鎌足ふじわらのかまたり山城國やましろのくに陶原すえはら造立ぞうりゅうし、じょう六の釋加像しゃかぞうを造つて安置しようとしたが事の成らないこうじ、天智てんち天皇の時に夫人鏡女王かがみじょおう山科寺やましなでらを建て、天武てんむ天皇の時にそれが飛鳥あすか厩坂うまやさかに移つて厩坂寺きゅうはんじしょうせられ、元明げんみょう天皇が都を平城な らに移されるに及んで、和銅わどう三年に不比等ふ ひ とが今の地をぼくして興福寺こうふくじ改稱かいしょうした。その後春日かすが神社じんじゃ管掌かんしょうし、藤原家の氏寺うじでらとなり、世にも珍らしい程盛大となつたが、藤原氏衰勢すいせいを共にし、前後八かいも火災をこうむつて、今殘留ざんりゅうするものは北圓堂ほくえんどう南圓堂なんえんどう東金堂とうこんどう大湯屋おおゆや・五重塔じゅうのとう・三重塔じゅうのとうなどにすぎない ◯延曆寺 天台宗てんだいしゅう總本山そうほんざんである延曆寺えんりゃくじのこと、近江國おうみのくに滋賀郡しがごおりにあり、世に比叡山ひえいさんじ山門さんもんなどとしょうされる。延曆えんりゃく四年七月にそう最澄さいちょう比叡山ひえいざんに登つて大願たいがんはっし、七年には桓武かんむ天皇おんめに根本こんぽん中堂ちゅうどうを建てて比叡山ひえいさんじごうし、以後今日こんにちに至るまでに盛衰せいすいがあつた ◯趣き縱横に渉れり 縱横じゅうおうわたるはの向くままの事をする意で、つまり兩方りょうほうが勝手な事を言ひ合つて强訴ごうそすること ◯物として禁止するなく 一ぶつも禁止する所がなく ◯皇憲をなみす 朝廷の役人及び方針を無視む しする ◯灾糵 さいがいげつは新しい芽の意で、大害たいがいのきざしのこと ◯爲すなく事なくて 無事平安にすること ◯良辰 良い星の日、吉日きちじつと同じ意 ◯右大辨 べんとは太政官だじょうかん判官はんがん宮中きゅうちゅうの事を判糺はんきゅうする役、大辨だいべん辨官べんかんの上位、これに左右があり、その右の位を右大辨うだいべんといふ ◯勘解由 勘解由使か げ ゆ しの略で、諸司しょしの交替にあたつて辭令じれいつかさどる役 ◯散位 位があつて職のない者。

【大意謹述】現在、興福寺こうふくじ延曆寺えんりゃくじなどが、相互に競爭きょうそうして朝廷に强訴ごうそし多方面に勝手な要求を致してゐる。この者共ものどもにとつては、天下中に禁止されてゐる所は一つもなく、全然朝廷の役人及び方針を無視む しし、各自腕力わんりょくを誇つて、事每ことごとに力であらそつて事を決する傾向がある。この大害たいがいの若芽を除き、國家を無事安穩あんのんに守護し、幸福こうふくにさせて下さるのは、八まん大菩薩だいぼさつの大きな御慈悲ご じ ひ、到らない方面のないひろ御助おたすけ以外にはないと叡慮えいりょあらせられた。そこで最上の吉日をえらび定めて、參議さんぎじゅこう右大辨うだいべん勘解由使か げ ゆ しの長官、備前權守びぜんのごんのかみを兼任してゐる朝臣みなもとのあそん重資しげすけ散位さんいじゅ位下い げ藤原朝臣ふじわらのあそん泰盛やすもりなどを使者として、御禮おれいのための大幣帛だいへいはくを捧げまつらしめたのであつた。

【備考】白河しらかわ法皇ほうおうは、その剛邁ごうまい不屈ふくつ英氣えいきを以てして、つ「天下、ちんが意の如くならぬのは、山法師やまほうし雙六すごろくさい鴨川かもがわの水ぢや」とおおせられた。山法師やまほうし!それが强暴ごうぼうたくましうし出すと、手がけられなかつた。當時とうじ公卿く げは多く文弱化ぶんじゃくかして、何らすなき有樣ありさだつたから、そのすきじょうじて、勢力扶植ふしょくにつとめたのは、興福寺こうふくじ(山科)園城寺おんじょうじ(三井)延曆寺えんりゃくじ(叡山)などである。それらの日、寺院は代々、帝室からとうとまれ、年每としごとにその所有の田畠でんばた・奴隷・僧侶そうりょすうし、陰然いんぜんたる一大勢力形造かたちづくつた。興福寺こうふくじは、藤原不比等ふじわらのふひとの建立するところで、藤原氏一族は、これをとうとんだところから、隨分、我儘わがままし、同寺どうじしたことは、道理に合はずとも、「山科やましな道理どうり」の名稱めいしょうのもとにこれ默過もっかしたのである。

 こんな具合だつたので、以上の各寺院は浮浪人數千すうせんを集めてそうとし、寺田じでんを開拓したり、財產ざいさん增殖ぞうしょくを計つたりした。中には、京都に出て、掠奪りゃくだつをする惡僧あくそうも少くなかつたといはれる。ひとり、寺僧じそうのみならず、神官しんかんのうちにも、往々、横車よこぐるまをひいて、政府を脅かしたものがゐた。かうして、敎化きょうかの責に任ずべき僧侶そうりょ神官しんかんらが、ひどく惡化あっかしたことは、時代によい影響をあたへる筈がなかつた。當時とうじ硬骨こうこつ・武勇を以て知られた大和守やまとのかみ源賴親みなもとのよりちか興福寺こうふくじ僧徒そうとの不法・横暴を指摘すると、興福寺こうふくじではこれをいかり、二千の僧徒そうと入洛じゅらくして、賴親よりちかを手に入れようと運動したことがある。こんな具合で、一切が末法まっぽうの姿をあらわし、朝廷でも、そのあまりにはなはだしい不法を憤概ふんがいされた。その眞相しんそうは、本勅ほんちょく拜誦はいしょうするとあきらかに看取かんしゅせられる。