40 僧最澄に大師號を 贈るの勅 淸和天皇(第五十六代)

そう最澄さいちょう大師號だいしごうおくるのみことのり(貞觀八年七月 朝野群載)

道高者光榮自遠、德盛者號諡必彰。舊章攸存、眞俗未異。故天台大師最澄、遠渉重溟、深求一乘、引慈雲於西極、注法雨於東岳。世初知波利之平路。人誰著驕奢之美衣。雖滅度年深、遙聞虛空之墮涙。而興隆日就、近見景葉之揚輝。旣篤芳躅之誠、空追崇之典、宜贈法印大和尙位。仍諡號傳敎大師。可依前例、主者施行。

【謹譯】みちたかもの光榮こうえいおのずかとおく、とくさかんなるもの號諡ごうしかならあらわる。舊章きゅうしょうそんするところ、眞俗しんぞくいまことならず。天台てんだい大師だいし最澄さいちょうとお重溟ちょうめいわたり、ふかく一じょうもとめ、慈雲じうん西極せいきょくき、法雨ほうう東岳とうがくそそぐ。はじめて波利は り平路へいろる。ひとだれ驕奢きょうしゃ美衣び いちゃくする。滅度めつどとしふかしといえども、はるか虛空こくう墮涙だるいく。しか興隆こうりゅうき、ちか景葉けいよう揚輝ようきる。すで芳躅ほうちょくまことあつきも、追崇ついそうてんむなし。よろしく法印ほういん大和尙だいわじょうくらいおくるべし。すなわおくりな傳敎でんぎょう大師だいしごうす。前例ぜんれいつて、主者つかさどるもの施行しこうすべし。

〔注意〕この詔勅しょうちょくの字句については、異同いどう往々おうおうある。(一)波利は りは一本に波刹はせつとあり、(二)驕奢きょうしゃまた嬌奢きょうしゃとあり、(三)芳躅ほうちょくの二字は濁注だくちゅうとある。ここでは意味の上から見て正しいと思ふ所にしたがつた。

【字句謹解】◯光榮自ら遠く その人の名譽めいよが必ず遠く後代こうだいまで影響する ◯號諡 生前のごうと、死後おくられた名を、共にその人の名稱めいしょうの意 ◯舊章の存するところ ふる佛敎ぶっきょう文獻ぶんけんの存在すること ◯眞俗未だ異ならず 眞諦しんだい(出世間)・俗諦ぞくだい(世間)の區別くべつが立たぬ ◯天台大師最澄 傳敎でんぎょう大師だいしのこと。〔註一〕參照 ◯重溟に渉り 遠くうみを渡つて支那し な留學ちゅうがくした意 ◯一乘 天台宗てんだいしゅう根本義こんぽんぎのこと、〔註二〕參照 ◯慈雲を西極に引き 支那し なからほとけの慈悲深い敎戒きょうかいを研究してかえる ◯法雨を東岳に注ぐ 比叡山ひえいざんに道場を構へてほとけの法を人々につたへた意 ◯波利の平路 波利は り巴利は りに同じ。南方なんぽう佛敎ぶっきょう聖典せいてんご現存げんそん小乘經しょうじょうきょうの原本はほとんどこの語を以て記述せられてゐる ◯人誰か驕奢の美衣を著する 心おごれ僧侶そうりょしんほとけの道に入れない。何ものか驕奢きょうしゃ美衣び いけて現世におごるか、淺間あさましい次第である ◯滅度 傳敎でんぎょう大師だいし弘仁こうにん十三年に五十六歳でじゃくしたこと ◯虛空の墮涙 高い空から天人てんにんが涙をながす ◯興隆日に就き 天台宗てんだいしゅうは近時ますます盛大になつてく ◯景葉の揚輝 天台宗てんだいしゅう勢力最澄さいちょうから代々よ よ分派ぶんぱして諸方面に達する意、景葉けいようは一本には景茶けいちゃとある、揚輝ようき光輝こうきをあげる事 ◯芳躅の誠 芳躅ほうちょく前人ぜんじん善行ぜんこうといふ意、ここでは傳敎でんぎょうが生前にしたところの嘉言かげん善行ぜんこうを指す ◯追崇の典 有德ゆうとくの人物を後世から追想して表彰する儀式 ◯主者 つかさどる役人 ◯施行 行ふ。

〔註一〕天台大師最澄 は近江おうみくに滋賀郡しがごおりの人で、姓は三津氏つ し祖先そせん東漢とうかん獻帝けんていの孫で、應神おうじん天皇來朝らいちょうしたとつたへられてゐる。最澄さいちょう稱德しょうとく天皇神護しんご景雲けいうん元年八月十八日に生れた。幼時ようじから神童しんどうしょうがあり、十二歳の頃、大安寺だいあんじ行表ぎょうひょうに就いて出家しゅっけし、唯識ゆいしきまなび、かたわ諸經しょきょう讀破どくはして、やがて南都なんとおもむき、天台てんだいの三大部だいぶ(法華玄義・法華文句・摩訶止觀)を研究し、心境が一定した。桓武かんむ天皇あつくこれに歸依き えせられた。その後最澄さいちょうは、延曆えんりゃく二十一年、三十六歳の時、入唐にゅうとう勅許ちょっきょを受け、天台山てんだいさん國淸寺こくせいじに到つて道邃どうずい法師ほっしえっし、二十二年、歸朝後きちょうご天台てんだい密敎みっきょうとの經文きょうもんたてまつり、天皇から天台宗てんだいしゅうを天下に流布る ふせよとのちょくを受け、比叡山ひえいざんを中心として宣敎せんきょうした。やがて帝室ていしつ護持ご じそうとなつておおい天台宗てんだいしゅうが世にひろまつた。

〔註二〕一乘 天台宗てんだいしゅうは正しくは天台てんだい法華ほっけ圓宗えんしゅうといふ、法華經ほけきょうによつて一じつ圓頓えんどん妙旨みょうしを了解し、止觀しかん明靜みょうじょう妙行みょうぎょうしゅするのが根本義こんぽんぎとされてゐる。我國わがくにでは傳敎でんぎょう大師だいし最澄さいちょうのち慈覺じかく大師だいし圓仁えんにん智證ちしょう大師だいし圓珍えんちんなどが、この當時とうじ有名なそうであつた。

〔注意〕本勅ほんちょく連關れんかんした詔勅しょうちょくとして、づ誰もが思ひ出すのは、

(一)空海くうかい大師號だいしごうたまふのみことのり醍醐天皇延喜二十一年十月、扶桑略記)があり、慈覺じかく大師だいし圓仁えんにんかんしては、

(二)そう圓仁えんにん大師號だいしごうたまわるのみことのり(貞觀八年七月、朝野群載)(三)圓仁えんにん圓載えんさいに黄金二百りょうたまふの勅(仁明天皇承和十一年七月、續日本後紀)等である。

【大意謹述】常人じょうにんの及ばない程高い地位に立つて道をいた者は、その名譽めいよが自然と遠く後世こうせいにまで達し、身に備つたとくが大きく盛んな者は、後世から必ず立派な諡號しごうおくられて名を世に輝かせる。我國ではふる佛敎ぶっきょう文獻ぶんけんつたはつてゐるが、未だ出世間しゅっせけん世間せけんの道があきらかでない。この時にあたり、日本天台宗てんだいしゅう開祖かいそである天台てんだい大師だいし最澄さいちょうは、遠く幾重いくえもの波路なみじを越えて入唐にゅうとうし、天台宗てんだいしゅう根本義こんぽんぎを深く理解し、支那し なから慈悲深いほとけの正しいおしえ輸入ゆにゅうして比叡山ひえいざんで世の人々にそれをいたので、世間の人々はこの世にも有難い敎戒きょうかいつて始めてほとけの道を知つた。しんほとけの道に入るに就ては、心おごれるものはいけない。驕奢きょうしゃ美衣び いけて俗世ぞくせに誇るとつたやうな僧侶そうりょは駄目でないか。ところが、大師だいし世塵せじんを離れてきよ山上さんじょう宗敎しゅうきょう生活をし、心おごれる者共ものどもから全く離れて宗敎しゅうきょう革新につくした。もう大師だいしが世を去つてから大分だいぶんになるが、おそらく天人てんにん大師だいしの死を惜んで涙を落した事であらう。それを今目に見るやうに思へるが、大師だいし示寂後じじゃくご天台宗てんだいしゅう日々にちにちさかんになり、後繼者こうけいしゃがその光輝こうきを揚げ、大師だいし嘉言かげん善行ぜんこうは一般の知りあおぐところだ。ところがまだ大師だいしとくを追想して之を表彰するの典禮てんれいを見ぬのは遺憾いかんである。つてここ法印ほういん大和尙だいわじょうの位をおくり、傳敎でんぎょう大師だいしといふ諡號しごうさずけることにした。この方面の役人はよろしく取計とりはからへ。

【備考】傳敎でんぎょう大師だいしは、佛敎ぶっきょう改革者として相當そうとう偉大な業蹟を示した。在來ざいらい、奈良に行はれてゐた小乘敎しょうじょうきょう權大乘敎ごんだいじょうきょうあきたらないでじつ大乘だいじょうを研究し、天台てんだい法華宗ほっけしゅうの一派を開いた。つ國家主義に立脚して、佛敎ぶっきょうと國家との一致冥合みょうごうを計つたところに、在來ざいらい佛敎ぶっきょうに見られぬ特色を發揮はっきした。いひかへると、日本國のための佛敎ぶっきょうで、佛敎ぶっきょうのための國家でないといふのが傳敎でんぎょうの見識である。それから傳敎でんぎょう社會しゃかい事業にも、却々なかなか力を入れ、また工藝こうげい・天文・醫學いがく曆術れきじゅつなどにも相當そうとう造詣ぞうしがあつた。その著『顯戒論けんかいろん』は佛敎ぶっきょう革新の先聲せんせいとして、最も當時とうじに重きをし、やがてその示寂じじゃく延曆寺えんりゃくじ大乘だいじょう戒壇かいだんを設けることを許された基本となつたのである。