31 三論・法相各五人を度するの勅 桓武天皇(第五十代)

ろん法相ほっそうおのおのにんするのみことのり(延曆二十二年正月 類聚國史)

緇徒不學三論、專宗法相、三論之學、殆以將絕。頃年有勅、二宗竝行、至得度者、未有制。自今以後、三論法相各度五人、立爲恒例。

【謹譯】緇徒し とろんまなばずして、もっぱ法相ほっそうむねとし、三ろんがくほとんもっまさえんとす。頃年さきごろみことのりありて、二しゅうならおこなはれ、得度とくどいたものいませいあらず。自今じこん以後い ご、三ろん法相ほっそうおのおのにんし、てて恒例こうれいとなさん。

【字句謹解】◯三論 三論宗ろんしゅうのこと。〔註一〕參照 ◯法相 法相宗ほっそうしゅうのこと。〔註二〕參照 ◯緇徒 くろの意で、墨染すみそめころも僧侶そうりょ一般を指す ◯頃年勅ありて これは延曆えんりゃく二十一年正月の『僧侶そうりょ學業がくぎょうひろむるのみことのり』を指す。すなわち、この二しゅうを平等の地位に置くことを命ぜられてゐる。〔註三〕參照 ◯得度 本來ほんらい生死しょうじうみを渡つて涅槃ねはん彼岸ひがんに達する意であるが、一てんして僧尼そうにとなることを官府かんぷから許可されたことになる ◯度し 得度とくどの略、許可する意 ◯恒例 常例。

〔註一〕三論 三論宗ろんしゅう佛敎ぶっきょうの一派で、『中觀論ちゅうかんろん』『十二門論もんろん』『百ろん』の三ろんを中心として宗義しゅうぎを立てたから、かく呼ばれた。一きょうかたよらずその共通の原理をく、我が國へ傳來でんらいしたのは、(一)推古すいこ天皇三十三年に來朝らいちょうした高麗僧こまそう慧灌えかんで、(二)慧灌えかん法孫ほうそん智藏ちぞうとうり、これを研究して歸朝きちょうし、(三)智藏ちぞうの弟子の道慈どうじが、文武もんむ天皇大寶たいほう元年に入唐にゅうとうし、これを本宗ほんしゅうとして、歸朝後きちょうご大安寺だいあんじ傳道でんどうした。ただ中古ちゅうこに於いて、このしゅう東大寺つたわつたのみで、は皆滅びた。

〔註二〕法相 法相宗ほっそうしゅうも同じく佛敎ぶっきょうの一派で三がいゆいしんといふことを主としてく、我國わがくにへの傳來でんらいは、(一)白雉はくち四年に元興寺がんごうじそう道昭どうしょう入唐にゅうとうして玄弉げんじょうぞうから本宗ほんしゅうまなび、(二)齊明さいめい天皇の四年に、智通ちつう智逹ちだつ兩僧りょうそう入唐にゅうとうして玄弉げんじょうからこれをまなび、歸朝後きちょうご弘通ぐつうした。(三)大寶たいほう三年には、智鳳ちほう智鸞ちらん智雄ちゆう入唐にゅうとうし、智周ちしゅうから宗義しゅうぎを受け、(四)この三は法を義淵ぎえんつたへ、その弟子玄昉げんぼう靈龜れいき二年から天平てんぴょう七年までの間、支那し なつてこれをきわめ、歸朝後きちょうご興福寺こうふくじ弘通ぐつうした順となつてゐる。その後、興福寺こうふくじ法隆寺ほうりゅうじ藥師寺やくしじを中心としておのずか興廢こうはいあり明治に至り、五年には一時、眞言宗しんごんしゅう所轄しょかつとなつたが、十五年六月、獨立どくりつした。

〔註三〕二宗平等 『僧侶そうりょ學業がくぎょうひろむるのみことのり』(延曆二十一年正月、類聚國史)には、「今聞く、三ろん法相ほっそうの二しゅうあいあらそひ、各々おのおのもんもっぱらとす。彼此ひ しの長短、へんせばよくこうむり、恐らく衰微すいびあらん。今より以後、正月の最勝王經さいしょうおうきょうならびに十月の維摩ゆいまきょうの二よろしく六しゅうこうじ、以て學業がくぎょうひろむべし」とある。

【大意謹述】最近になつて多くの僧侶そうりょは三論宗ろんしゅうまなばないで、主として法相宗ほっそうしゅう專攻せんこうしてゐる。そのために我國わがくにもっとも古くから傳來でんらいした三論宗ろんしゅうは、今や勢力が地に落ちて、すで法統ほうとうえやうとしてゐる。ゆえちん先年せんねんみことのりはっして二しゅうを平等にまなばしめたが、官許かんきょそうに就いては、別に規定を設けなかつた。今から以後は、三ろん法相ほっそう各宗かくしゅうから五人づつ得度とくどすることを許可し、これを常例とする。