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29 摩訶般若波羅密を念誦するの勅 光仁天皇(第四十九代)

摩訶ま か般若はんにゃ波羅は らみつ念誦ねんじゅするのみことのり(寶龜五年四月 續日本紀

如聞、天下諸國疾疫者衆。雖加醫療、猶未平復。朕君臨宇宙、子育黎元、興言念此、寤寐爲勞。其摩訶般若波羅密者諸佛之母也。天子念之、則兵革灾害不入國中。庶人念之、則疾疫癘鬼不入家內。思欲憑此慈悲、救彼短折。宜告天下諸國、不論男女老少、起坐行歩、咸令念誦摩訶般若波羅密。其文武百官、向朝赴曹道次之上、及公務之餘、常必念誦、庶使陰陽叶序、寒溫調氣、國無疾疫之灾、人遂天年壽。普告遐邇、知朕意焉。

【謹譯】くならく、天下てんか諸國しょこく疾疫者しつえきしゃおおし。醫療いりょうくわふといえども、いま平復へいふくせず。ちん宇宙うちゅう君臨くんりんし、黎元れいげん子育しいくし、興言こうげんこれおもひ、寤寐ご びうれいをなす。摩訶ま か般若はんにゃ波羅は らみつ諸佛しょぶつははなり。天子てんしこれねんずれば、すなわ兵革へいかく灾害さいがい國中こくちゅうらず。庶人しょにんこれねんずれば、すなわ疾疫しつえき癘鬼らいき家內かないらず。慈悲じ ひ短折たんせつすくはんとおもす。よろしく天下てんか諸國しょこくげ、男女なんにょ老少ろうしょうろんせず、起坐き ざ行歩こうほ摩訶ま か般若はんにゃ波羅は らみつ念誦ねんじゅせしむべし。文武ぶんぶかんちょうむかそう道次どうじうえおよ公務こうむは、つねかなら念誦ねんじゅし、こいねがわくは陰陽いんようをしてじょかなひ、寒溫かんおんをして調ととのへ、くに疾疫しつえきわざわいなく、ひと天年てんねんじゅげしむべし。あまね遐邇か じげ、ちんらしめよ。

【字句謹解】◯摩訶般若波羅密 摩訶ま かだいの意、般若はんにゃ波羅密はらみつ智慧ち えの光によつて涅槃ねはん彼岸ひがんに達すること、この意味を內容とした經文きょうもんである ◯念誦 一心になつて經文きょうもん音讀おんどくすること ◯聞くならく 最近ちんの耳に入つた噂ではの意 ◯疾疫者 病氣びょうきなやむもの、ここでは、流行病の意である ◯平復 全快 ◯宇宙に君臨し 宇宙は全世界のことで、この場合は天下、日本のこと、つまり天下に君主として日本を統治する意 ◯黎元 一般國民のこと ◯子育 親が子を愛するやうに天子が國民を愛撫あいぶする。これはきみは民の父母といふ思想から來たのである ◯興言此を念ひ 一げんはっするごとにこのてんを考へる ◯寤寐勞をなす てもさめてもこれが心配である ◯兵革 戰亂せんらんのこと、ここでは國難こくなんの意 ◯灾害 天變てんぺん地異ち いの一切を指す ◯庶人 一般の人々 ◯癘鬼 惡病あくびょうひろく言つたもの ◯此の慈悲 摩訶ま か般若はんにゃ波羅密はらみつを通してのほとけ慈悲じ ひ ◯短折 わかくして死ぬこと ◯起坐行歩 日常生活のいかなる場合にもの意 ◯咸な 人々の全部 ◯其れ 朝廷に奉仕する意 ◯文武百官 文官ぶかん武官ぶかんすべてを指したもの ◯朝に向ひ 朝廷に出仕しゅっしする ◯曹に赴く 自己の所屬しょぞくする役所にく ◯道次の上 道筋に於いて ◯陰陽をして序に叶ひ 陰陽いんよう當然とうぜんの順序にあわせしめるやうにする ◯氣を調へ 極度に及ぼさないやうにさせる、つまり極端な寒暑かんしょのないやうにする ◯天年の壽を遂げしむ 人間が天壽てんじゅまっとうするやうにする ◯普く 一般に ◯遐邇 遠近の事。

〔注意〕流行病及び天變てんぺん地異ち いに際しては、從來じゅうらいは我が國固有の諸神しょしんいのることが例となつてゐた。ところが當時とうじほとけ慈悲じ ひを求める傾向がつよくなり、その方法として、各地で誦經ずきょう及び寫經しゃきょうが盛大となつた。本勅ほんちょくはその誦經ずきょうの例で、これらの時代に於ける同質のものとしては、

(一)摩訶ま か般若はんにゃ波羅は ら密多みった念誦ねんじゅするのみことのり淳仁天皇天平寶字二年八月、續日本紀)(二)大般若經だいはんにゃきょう轉讀てんどくするのみことのり(稱德天皇寶龜元年七月、續日本紀)などがある。

【大意謹述】人々の噂によれば、最近天下の諸國に惡病あくびょうなやむ者がすこぶる多く、醫者いしゃの治療を受けても全快に至るのはほとんどないとのことである。ちん天皇として天下を統治し、國民を我が子のやうに愛撫あいぶして、一げんを出す每度ご とにこのてんを心配し、てもさめてもにかかつて致し方がない。朕は摩訶ま か般若はんにゃ波羅は らみつ諸佛しょぶつの母としての效果こうかがあるのを知つてゐる。天皇がこれを誦經ずきょうしてゐれば、天下中に兵亂へいらん天變てんぺん地異ち いもなく、一般の人々がこれを誦經ずきょうしてゐれば、その家には如何い かなる惡病あくびょう・流行病も入り込む餘地よ ちがないのである。朕は今、このきょうを通じてほとけ慈悲じ ひにすがり、惡病あくびょうのため夭折ようせつするものを救はうと考へた。よって天下の諸國に命を下し、男も女も、年齡ねんれい區別くべつなく、日常生活の如何い かなる時にも、すべてこの摩訶ま か般若はんにゃ波羅は らみつ誦經ずきょうさせるやうに致したいと思ふ。

 この際、朝廷に奉仕する文官ぶんかん武官ぶかんすべては、朝廷に出仕しゅっしする道又は自己のぞくする役所にく途上、及び公務の餘暇よ かには、必ずこれを口のうちし、春秋しゅんじゅうの季節を正しく調ととのへて、極端の寒暑かんしょがないやうにし、一こくに流行病でなやむ者なく、人々は全部天からあたへられた壽命じゅみょうまっとうして死ぬことを願望するがよい。有司ゆうし一同はこのことを例外なく遠近に徹底させ、全國民に朕の意を知らしめてほしい。