22-4 廬舍那佛鑄造に關して下し給へる詔 聖武天皇(第四十五代)

廬舍那佛るしゃなぶつ鑄造ちゅうぞうかんしてくだたまへるみことのり(第四段)(天平十五年二月 續日本紀

是故預知識者、懇發至誠心、各招介福、宜每日三拜廬舍那佛、自當存念各造廬舍那佛像也。如更有人情願持一枝草一把土、助造像者、恣聽之。國郡等司、莫因此事、侵擾百姓、强令收斂。布告遐邇、知朕意矣。

【謹譯】ゆえもろもろ知識ちしきあずかものは、ねんごろ至誠しせいこころおこして、おのおの介福おおいなるさいわいまねかんには、よろしく每日まいにちたび廬舍那佛るしゃなぶつはいし、みずかねんそんしておのおの廬舍那佛るしゃなぶつぞうつくるべし。さらひとの一くさ・一つちちても、ぞうたすつくらんと情願じょうがんするものあらば、ほしいままこれゆるせ。こくぐんとうつかさことりて、百せい侵擾しんじょうし、ひて収斂しゅうれんせしむることなかれ。遐邇か じ布告ふこくして、ちんらしめよ。

【字句謹解】◯知識に預る者 この度の寄進に關係かんけいする者 ◯至誠の心 少しも私欲をまじへず、人間の本性をそのまま出してほとけに願ふ心 ◯介福 大きな幸福こうふく ◯廬舍那佛 鑄造ちゅうぞうしようとする大佛だいぶつの意。〔註一〕參照 ◯自ら念を存し 自分からほとけいのつてふくを得ようとする氣持きもちを起す ◯一把の土 一にぎりの土 ◯情願 希望すること ◯恣に之を聽せ その人々のこころざし通りにさせよ ◯百姓を侵擾し 一般國民に無理をいつて自己の主張を通すこと。侵擾しんじょうは、その所有ををかしみだす義 ◯强ひて収斂せしむる 强制的きょうせいてき租稅そぜいを多く集める、ここでは增稅ぞうぜい斷行だんこうすること ◯遐邇に布告し 遠近に告げ知らせる。

〔註一〕造佛の費用と工事 大佛だいぶつに費した材料は、熟銅じゅくどう七三九五六〇きん白鑞はくろう一二六一斤、鍊金れんきん一〇四三六りょう、銅五八六〇〇兩、炭一六三五六こくだとしょうされてゐる。大佛だいぶつ鑄造ちゅうぞうの工事は天平てんぴょう十六年十一月に、甲賀こうがじ廬舍那佛るしゃなぶつ像體ぞうたい骨杜こっちゅうを建て、天皇おんづからなわを引きたまひ、四大寺だいじそうなどが集つて種々しゅじゅがくそうした。翌月百人をして金鐘寺きんしょうじ朱雀路すざくとに萬燈まんどうともしたことから始まる。十七年にはそう行基ぎょうき大僧正だいそうじょうに任じ、四百人の出家に布施ふ せした。同年八月には天皇難波宮なにわのみやみゆきされ、九月に天下にみことのりして三年間殺生せっしょうを禁ぜられ、二千八百人を出家せしめた。いで都を平城な らうつされ、いよいよ八月に至つて同地で大佛だいぶつ鑄造ちゅうぞうを行つた。これが一般の定說ていせつだが、『水鏡みずかがみまきちゅうでは「十五年十月十五日、近江おうみ信樂京しがらきのきょうにて東大寺とうだいじ大佛だいぶつを始めたまひき。同じき十七年八月二十三日に、東大寺大佛だいぶつの座をつきはじめたまふ。同じき十九年九月二十九日、大佛だいぶつたてまつりたまふ。同じき二十年正月に、陸奥む つよりこがね九百りょうたてまつれりき。日本國にこがねでくる事これより始まれりき。これによりて四月十八日に、年號ねんごう天平てんぴょう感寶かんぽう元年とかへられにき」とある。

【大意謹述】したがつて今度の寄進に關係かんけいを持ち又は持つことを欲する人々は、心から湧き出る私欲のない本性を發揮はっきし、各自が大なる幸福こうふくを求めようとすれば、每日まいにち三度づつ廬舍那佛るしゃなぶつはいし、自分からこのほとけいのつて幸福をるといふ念をそんするもとに、各々おのおの協力して、大佛だいぶつを完成させなければならぬ。また篤志とくしか各家かっけに一づつを造ればこれに越したことはない。し全國民が木の一えだ、土の一握りでも持ちよつて、この大佛だいぶつ鑄造ちゅうぞうを少しでも援助したいと希望する者があつたとすれば、そのこころざしまかせて決してこれをこばんではならない。こくぐんの長官などはこの事を口實こうじつとして、國民の所有と生活とをみだし、强制的きょうせいてき增稅ぞうぜいするなどは禁物である。以上大佛だいぶつ鑄造ちゅうぞうかんするちん氣持きもちを遠近に告げ知らせ、國民のすべてに徹底せしめるやうにつとめてほしい。

【備考】大佛だいぶつを作るについて、天皇が國民に迷惑をかけぬやう、各方面に注意せられた御氣持おきもちが、この詔書しょうしょに明白に現はれてゐる。所謂いわゆる慈眼じげん衆生しゅじょうる」といふ佛意ぶついをそのままここに生かされたものと拜察はいさつする。

 ほ特に一げんしなければならぬのは、當時とうじ大佛だいぶつを作るに伴ひ、神佛しんぶつ習合しゅうごう乃至ないし本地ほんち垂迹すいじゃくせつなる思想が生れたといふことである。神佛しんぶつ習合しゅうごうとは、神佛しんぶつ混淆こんこうといふことであり、また神佛しんぶつ思想の接近とも見られる。本地ほんち垂迹すいじゃくは、佛敎ぶっきょう本位に神道しんどうを見た考へとも解釋かいしゃく出來よう。例へば、釋尊しゃくそんが一切衆生しゅじょうを救ふため、そのあとを各地にれられたとし、そのために、種々しゅじゅの姿を現はされたといふのである。左樣そ うした結果、八まん大菩薩だいぼさつ本地ほんち阿彌陀あ み だ如來にょらい伊勢い せ大神宮だいじんぐう本地ほんち大日だいにち如來にょらいだとし、つまり、ほとけ伊勢い せ神宮じんぐう及び八幡宮まんぐうの上にあとれ、萬民ばんみんを救はうとされたといふのである。かうした思想が漸次ぜんじ平安時代に至つて、一そう發達はったつした。が、當時とうじ大佛だいぶつ創建時代には、まだ漠然としてゐて、神道しんどう佛敎ぶっきょうとがその接近をみつにし出したのだとつてよく、雙方そうほう、手をたずさへて、進んだとも見られる。善意に解すれば、佛敎ぶっきょうの日本化の第一歩につたものともへよう。

 今一つ、觀點かんてんからすると、奈良大佛ならのだいぶつ處在しょざいたる東大寺とうだいじ隱然いんぜんそう國分寺こくぶんじをして、全國の國分寺こくぶんじ總括そうかつする如き形にあり、佛敎ぶっきょう本位にちかい敎化きょうか政策を統一するといふ役目におのづからあたつた。各地方の國府こくふにちかいところに、國分こくぶん僧寺そうじ國分こくぶん尼寺に じがあつて、地方の敎化きょうかあたり、それらの運動をほのかに統制する存在として、東大寺が世界第一の大佛だいぶつと共に光り輝いたおもむきがある。ここに至ると、聖武しょうむ天皇がいかによく佛敎ぶっきょうを國家的に善用ぜんようされたかといふことがわかる。ときにあまりに强盛ごうじゃうの信仰を示されたこともあつたが、相應そうおうに有意義な方面に佛敎ぶっきょうを生かされたことも認識される。ただ大乘だいじょう佛敎ぶっきょう原理を一般にひろめるといふ上においては、ほ用意をかれたてんがないとはへなかつたが、これも日本國民の一般が、理性の上から佛敎ぶっきょうを信ずるといふよりも、感情上、その祈禱きとう方面に重きを置いたのであつたから、大乘だいじょう佛敎ぶっきょう原理の普及といふことは、却々なかなか、むづかしかつたにちがひない。これもまた考慮のうちに入れねばならぬ。