18 義淵法師に姓を賜ふの勅 聖武天皇(第四十五代)

義淵ぎえん法師ほうしせいたまふのみことのり(神龜四年十二月 續日本紀

僧正義淵法師、禪枝早茂、法梁惟隆。扇玄風於四方、照惠炬於三界。加以自先帝御世、迄于朕代、供奉內裏、無一咎𠎝。念斯若人、年德共隆。宜改市往氏賜岡連姓、傳其兄弟。

【謹譯】僧正そうじょう義淵ぎえん法師ほうし禪枝ぜんしはやしげり、法梁ほうりょういよいさかんなり。玄風げんぷうを四ほうあおり、惠炬えきょを三がいてらす。くわふるにもっ先帝せんてい御世み よより、ちんいたるまで、內裏だいり供奉ぐ ぶし、一の𠎝きゅうせんなし。ねんずらくはかくごとくのひと年德ねんとくともさかんならんことを。よろしく市往いちきうじあらた岡連おかのむらじかばねたまひ、兄弟きょうだいつたふべし。

【字句謹解】◯僧正 僧官そうかんの第一位で、諸そう非違ひ いただすことをつかさどる ◯義淵法師 義淵ぎえん高市郡たけちごおり市往氏いちきしの子で、百濟王くだらおうえいだとのせつがある。天智てんち天皇の宮廷に育ち、出家して智鳳ちほう唯識ゆいしきろんまなび、とうつて智周ちしゅうしたがつた。歸朝後きちょうご法相宗ほっそうしゅうを唱へ、大寶たいほう末年まつねんから僧正そうじょうに任ぜられ、門弟からは行基ぎょうき玄昉げんぼうといつた著名なそうを出した。聖武しょうむ天皇太子たいし時代から輔導ほどうした關係かんけい上、神龜しんき四年に本勅ほんちょくはいし、俗氏ぞくし岡連おかのむらじ改賜かいしされた。翌年十月にじゃくすると、天皇治部じ ぶ官人かんじんつかわして喪事そうじかんせしめ、あしぎぬ百・いと二百・綿わた三百・ぬの二百をたもうた。法相宗ほっそうしゅうさかんとなり、興福寺こうふくじ法相宗大本山)が藤原氏一門に崇拜すうはいされたのは、義淵ぎえん名望めいぼうによると言はれる ◯禪枝 義淵ぎえんの唱ふる法相宗ほっそうしゅうの一派 ◯法梁 法相宗ほっそうしゅう土臺どだいの意。法相宗ほっそうしゅうに就いては〔註一〕參照 ◯玄風を四方に扇り 義淵ぎえん法相宗ほっそうしゅう奥義おうぎを四方につたへたこと ◯惠炬を三界に照す 惠炬えきょは迷つた人々に正しい道を知らせる炬火かがりび、三がいには(イ)慾界よっかい色界しきかい無色界むしきかいのこと(ロ)この世のこと(ハ)過去・現在・未來の三世界ぜかいせつがあるが、この場合は(ハ)を意味すると考へられる ◯先帝 元正げんしょう天皇御事おんこと義淵ぎえん天智帝てんちてい以來宮中きゅうちゅうに仕へたが、一度入唐にゅうとうしたので、この語があつた ◯內裏 禁中きんちゅうのこと ◯𠎝 態度・行動についての失敗 ◯年德共に隆ならん 長壽ちょうじゅを保ち、ますます有德うとくそうとなるであらう。

〔註一〕法相宗 一切萬有ばんゆう性相せいそう說明せつめいし、三がいただ一心であるよしを主張する宗派、我が孝德こうとく天皇白雉はくち四年に入唐にゅうとうし、留學りゅうがく七年ののち歸朝きちょうした元興寺がんごうじ道昭どうしょうつたへたもの、この宗からは智達ちだつ智通ちつう智鳳ちほう智鸞ちらん義淵ぎえん玄昉げんぼうなどの名僧めいそうを出し、興福寺こうふくじ法隆寺ほうりゅうじ藥師寺やくしじ本山ほんざんは有名である。

〔注意〕當時とうじ名僧めいそうたいして朝廷から種々しゅじゅの意味で表彰した事が少くない。左にその例をげる。

(一)神叡しんえい道慈どうじ有德うとくしょうするみことのり元正天皇養老三年十一月、續日本紀)(二)沙門しゃもん法蓮ほうれん褒賞ほうしょうするの詔(養老五年六月、續日本紀)(三)沙門しゃもん行善ぎょうぜんを優遇し沙門しゃもん道藏どうぞうものほどこすの詔(養老五年六月、續日本紀)(四)義淵ぎえん法師ほうしせいたまふのみことのり聖武天皇神龜四年十二月、續日本紀)(五)唐僧とうそう道榮どうえいしょうするの勅(同天平元年八月、續日本紀)(六)禪師ぜんし法榮ほうえい優賞ゆうしょうするの勅(孝謙天皇天平勝寶八歳五月、續日本紀)(七)諸禪師ぜんし優賞ゆうしょうするの勅(同歳同月、續日本紀

【大意謹述】僧正そうじょうの地位にある義淵ぎえん法師ほうしは、佛智ぶっちがこの上もなく深くその一派は早くさかえ、法相宗ほっそうしゅうの根幹は只管ひたすら盛大となる一方だつた。義淵ぎえんはその深い知識で四方に佛法ぶっぽうひろめ、法相宗ほっそうしゅうの三がい唯心論ゆいしんろんの主張により、過去・現在・未來みらいわたつて迷つた人々に正しい道をおしへた。その上、先帝せんてい御代み よからちんの時に至るまで、常に禁中きんちゅうに仕へ、未だかつ何等なんらの失策もない。このやうな人こそ、年壽ねんじゅも長く、とくも年と共に加はつて行くのであらうと考へる。ゆえに今後は市往いちきの氏名を岡連おかのむらじと改めさせるから、このよしをその一家つたへるがよろしい。