11 佛法を奉ずべきの詔 持統天皇(第四十一代)

佛法ぶっぽうほうずべきのみことのり(五年二月 日本書紀

卿等、於天皇世、作佛殿經藏、行月六齋。天皇時時遣大舍人問訊。朕世亦如之。故當勤心奉佛法也。

【謹譯】卿等けいら天皇みかどに、佛殿ぶつでん經藏きょうぞうつくりて、つきごとに六さいおこなふ。天皇みかど時時ときどき大舍人おおとねりつかわして問訊と わせたまふ。ちんにもまたかくごとくせよ。ゆえまさこころつとめ、佛法ぶっぽうほうずべし。

【字句謹解】◯天皇 この詔書しょうしょ中に見える天皇は、すべ先皇せんこうあやまりであらうとふのが定說ていせつになつてゐる。先皇せんこうとは天武てんむ天皇御事おんこと ◯月ごとに六齋を行ふ これは天武てんむ天皇天平てんぴょう九年八月の令で定められたので、『日本紀しょくにほんぎ』には「每月まいげつ齋日さいじつ殺生せっしょう禁斷きんだん云々うんぬん」と見える。六齋日さいじつとは月に六度精進しょうじんする意で、その日は八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日であつた ◯大舍人 中務省なかつかさしょうぞくする役人のしょう禁中きんちゅう宿直しゅくちょくして雜事ざつじあたり、行幸ぎょうこうの時には供奉ぐ ぶをつとめた。

〔注意〕天武てんむ持統じとう兩朝りょうちょうには、佛敎ぶっきょうさかんになつた。今史籍しせきにあらはれた兩朝りょうちょう佛事ぶつじ條書じょうがきにすれば大體だいたい次のやうになる。

(イ)天武朝の佛敎(一)二年には小紫しょうし美濃王みののきみ小錦しょうきんげ紀臣きのおみ訶多麻呂か た ま ろを、高市たけち大寺おおでらを造る役人に任じ、そう義成ぎじょう小僧都しょうそうづに任じた。(二)四年には使つかいを四方につかはして、一切きょうもとめさせた。(三)五年にはひでりがあつたので、僧尼そうにしょうじて三ぽういのり、京に近い諸國しょこく放生會ほうじょうえを行ひ、使者を四方につかはして金光明經こんこうみょうきょう仁王經にんのうきょうとをかせた。(四)六年には飛鳥寺あすかのてら設齋せっさいして一切きょうましめ、天皇は寺の南門なんもんこうして三ぽうれいせられた。(五)八年には貧僧ひんそうを救ひ、『僧尼そうに諭さとし給へるみことのり』があつた。(六)九年には『諸寺しょじ官治かんちたるべからざるのみことのり』が下り、五月に京の二十四施物せもつあり、十月に貧僧ひんそうにぎはされた。(七)十年には皇后が誓願せいがんして大齋だいさいを行ひ、京の諸寺にきょうかしめられた。(八)十三年には宮中で設齋せっさいし、罪のある舍人とねりゆるされた。(九)十四年三月には、各家かくけ佛舍ぶっしゃを作つて、佛像ぶつぞう及びきょうを置くやうみことのりはっせられた。(十)朱鳥すちょう元年五月には天皇御病氣ごびょうきのため、川原寺かわらでら藥師經やくしきょうかしめ、天下に大赦たいしゃされた。七月には金光明經こんこうきょうみょうを宮中でませ、八月には觀音經かんのんきょうませ、十二月は天皇おんめに大官大寺おおつかさのおおでら飛鳥あすか川原かわら小墾田豐浦おはりだのとよら坂田さかたの五無遮大會むしゃだいえを設けた。

(ロ)持統朝の佛敎(一)元年四月には筑紫つくし太宰だざいが、歸化き かした新羅しらぎ僧尼そうにと百せい男女二十二人とをけんじた。七月には三百の高僧こうそう飛鳥寺あすかのてらに集め、袈裟け さを人ごとに一りょうづつほどこされた。(二)二年七月には百濟くだら沙門しゃもん道藏どうぞうに命じて雨をはせると、雨が降つた。(三)四年には、絁絲あしいと綿布めんぷを、七安居あんご沙門しゃもん三三六三人にほどこし、別に皇太子のために、三安居あんご沙門しゃもん三二九人にほどこされた。(四)五年二月には本詔ほんしょうを下された。(五)六年五月には、五畿內きない金光明經こんこうみょうきょうこうぜしめ、そう觀成かんじょう種々しゅじゅ賜物たまわりものがあつた。(六)七年九月には天武てんむ天皇のために、無遮大會むしゃだいえ內裏だいりに設けた。十月には諸國に任王經にんのうきょうこうぜしめた。(七)八年五月には金光明經こんこうみょうきょう一百部を諸國に送り、每年まいねん正月に必ずませることにした。(八)十年十二月には金光明經こんこうみょうきょうこうぜしめたもうた。每年まいねん十二月晦日みそか淨行者じょうぎょうしゃ十人をせしめることにした。(九)十一年七月、大佛だいぶつ開眼かいげん藥師寺やくしじおこなつた。

【大意謹述】卿等けいらは、先帝天武てんむ天皇御代み よに、諸方に佛殿ぶつでん又は經藏きょうぞうを作り、每月まいげつ六日間の精進日しょうじんびを決定し、天皇も時には、宮中で雜事ざつじに使用する大舍人おおとねりつかはして、その樣子ようすを監督せしめられたことを知つてゐよう。佛法ぶっぽうはいする心はちんも先帝と少しもかわらない。つてこれらの規定もまた、朕の世に於ても同じやうに實行じっこうしたいと考へる。ゆえ汝等なんじらは一心になつて佛法ぶっぽうほうじなければならない。

【備考】佛敎ぶっきょうの隆盛は、やがて佛敎ぶっきょう美術を振興しんこうし、佛敎ぶっきょうの日本化のつよめたことになるが、それには一方において、利弊りへい合せ伴つたてんもある。とするところは、大衆に慰安いあんあたへ、力をあたへて、思想上の進歩にした上にある。けれども形式の末に流れたものには弊害へいがい相當そうとうあつた。現世げんぜ悲觀ひかん退嬰たいえい精神せいしんの生じたことも、形式化からへいである。

 以上の缺點けってんがあるにかかわらず佛敎ぶっきょうが非常にいきおいよく弘通ぐつうしたについて、反對者はんたいしゃは、之にいろいろの非難を浴びせる。けれども一面からいへば、それが弘通ぐつうするだけの用意がされてゐる。例へば、佛敎ぶっきょう高僧こうそうが、その主力を社會しゃかい事業に用ひた如きは、いちじるしい佳例れいの一つだといへよう。そう行基ぎょうきの如きは、貴族階級よりもプロレタリア階級に接近して、佛法ぶっぽうき、その諸國周遊中しゅうゆうちゅう津梁しんりょうを作り、船舶を備へることを人々におしへた。これが、先驅せんくしたのは聖德太子しょうとくたいしである。

 太子たいしは、難波なにわに四天王寺てんのうじを作り、悲田院ひでんいん敬田院けいでんいんを設けて、養老ようろう救貧きゅうひん事業に力を注ぐ意向を示された。行基ぎょうき空海くうかい最澄さいちょうらが社會しゃかい事業につくしたことはあまりにも有名である。その平安時代に於ける道路改修事業の如きも、おおむ僧侶そうりょ盡力じんりょくによるところが多かつた。例へば、そう道昌どうしょうが京都大堰川おおいがわ治水ちすいにつくし、理源りげん吉野川よしのがわに橋を架け、大安寺だいあんじそうちゅう一が相模さがみ馬入川ばにゅうがわ鮎川あゆかわ相模川さがみがわ浮橋うきはしを架け、布施屋ふ せ やを設け、元興寺がんごうじそう賢和けんな魚住泊うおずみのふなつきば修造しゅうぞうに力を入れたなど、その貢獻こうけんしたところが多い。

 それから西念さいねん禪惠ぜんえの二そうが五百日、乃至ないし千日の溫室おんしつ供養くようした如き、東大寺とうだいじ奴僕ぬぼくを解放した如き、延命えんみょう崇親すうしんの二いんが、藤原氏ふじわらし一門の病者・孤獨者こどくしゃを救助した如き、何びいずれも社會しゃかい事業に寄與き よした。また佛敎ぶっきょう信者としての檀林だいりん皇后・淳和じゅんな天皇の皇后(正子)などが、宗敎しゅうきょう敎育きょういくに、あるい孤兒こ じ愛育あいいくにつくされたことも有名である。それらを收容しゅうようした濟治院さいちいんでは、める僧尼そうにの治療にもあたつた。かく佛敎家ぶっきょうかが早くから、ぶんおうじて社會しゃかい事業に努力したのにたいして、道家しんどうかは、存外ぞんがい、この方面に關心かんしんを持たなかつたやうである。

 寡聞かぶんのためか、知らぬ。が、明治以後に多少の例を見るだけである。しかもそれが、有識者ゆうしきしゃによつて作られ、となへられた神道しんどうの上に割合わりあい社會しゃかい事業の發達はったつを見ないのは、一たいどうしたことであらう。明治はかく、明治以前では、神道しんどう社會しゃかい事業との交渉がすくない。佛敎徒ぶっきょうと聖德太子しょうとくたいし以來いらい、熱心に社會しゃかい事業につくしたのにくらべると、道家しんどうかは、あまりに、社會しゃかいからかけ離れてゐた氣味き みがありはしないか。そこに神道しんどう不振の一因が確かにあるのではなからうか。いかに、本質においてすぐれてゐようとも、神道しんどうを生かして、社會しゃかい事業―救貧きゅうひん救病きゅうびょう育兒いくじ・民衆娯樂ごらくなどに力を用ひないでだ座して、神道しんどう振興しんこうを待つが如きふうがあつたのは、やがて佛敎ぶっきょう壓倒あっとうせらるる形勢をみずから作つたものとつてよからう。このてんは、おおいに反省を要する。