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8-1 僧尼に下し給へる詔 孝德天皇(第三十六代)

僧尼そうにくだたまへるみことのり(第一段)(大化元年八月 日本書紀

磯城島宮御宇天皇十三年中、百濟明王奉傳佛法於我大倭。是時群臣倶不欲傳、而蘇我稻目宿禰獨信其法。天皇乃詔稻目宿禰使奉其法。於譯語田宮御宇天皇之世、蘇我馬子宿禰、追遵考父之風、猶重能仁之敎。而餘臣不信、此典幾亡。天皇詔馬子宿禰而使奉其法。

【謹譯】磯城島宮しきしまのみや御宇あめのしたしろしめす天皇すめらみことの十三ねんころに、百濟くだら明王めいおう佛法ぶっぽう大倭みかどつたたてまつれり。とき群臣ぐんしんともつたふるをほっせず、しかして蘇我稻目宿禰そがのいなめのすくねひとほうしんじたり。天皇すめらみことすなわ稻目宿禰いなめのすくねみことのりして、ほうたてまつらしむ。譯語田宮おさだのみや御宇あめのしたしろしめす天皇すめらみことみよに、蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくね考父か ぞふうしたがひて、能仁ほとけおしえあがむ。しかして餘臣よしんしんぜず、てんほろびなんとす。天皇すめらみこと馬子宿禰うまのこすくねみことのりして、ほうたてまつらしむ。

【字句謹解】◯磯城島宮に御宇しろしめす天皇 欽明きんめい天皇御事おんこと ◯十三年の中 欽明きんめい天皇十三年冬十月に百濟くだら聖明王せいめいおう釋迦佛しゃかぶつの金銅像旛蓋はたきぬがさ若干じゃっかん經論きょうろん若干まき國書こくしょとをけんじた事。我國わがくにに於ける佛敎ぶっきょう傳來でんらいとして知られてゐる ◯百濟の明王 百濟くだら聖明王せいめいおうのこと。何故なにゆえ聖明王せいめいおうが我が朝廷へこれらをけんじたかに就いては、本篇の『鞍作鳥くらつくりのとりしょうするのみことのり』(推古天皇十四年五月、日本書紀)參照 ◯大倭 我が朝廷のこと ◯蘇我稻目 稻目いなめ石川宿禰いしかわのすくね玄孫げんそん高麗こ まの子にあたり、宣化せんか天皇元年に大臣おおおみとなつた。欽明きんめい天皇十三年に百濟くだらから佛敎ぶっきょう傳來でんらいした際、天皇御問おといに答へて之をなりをそうし、遂に佛像ぶつぞうたまはつて小墾田おはりのたみやに安置して觀修かんしゅうを事とし、向原むくはらの家を寺とごうして、向原寺こうげんじごうした。これが我國の佛寺ぶつじの最初のものとされてゐる。時に國內に疫病えきびょうが流行したので、反對者はんたいしゃの主張を天皇は許し給うて佛像ぶつぞうを難波の堀江ほりえに投じ、向原寺こうげんじかれた。同二十三年に大伴狹手彥おおとものさてひこ高麗こ まからかえり、美女及び甲刀かっとう若干じゃっかん稻目いなめに送つた。稻目いなめはそのニ女を妻とし、同三十一年にこうじた ◯譯語田宮に御宇しろしめす天皇 敏達びたつ天皇御事おんこと ◯蘇我馬子 稻目いなめの子で物部氏もののべしを亡し、崇峻すしゅん天皇しいたてまつつた大逆人だいぎゃくにん。〔註一〕參照 ◯考父 亡父ぼうふの意で稻目いねめの事 ◯能仁の敎 佛敎ぶっきょうのこと ◯餘臣信ぜず 敏達びたつ天皇十三年に鹿深臣かふかのおみなどが百濟くだらき、彌勒みろく石像せきぞう及び佛像ぶつぞう各一を持ちかえつたのを馬子うまこうやまひ、群臣ぐんしん反對はんたいにあつた ◯亡びなんとす ほとけほうずる者がないので今にもほろびさうになつた。

〔註一〕蘇我馬子 馬子うまこ稻目いなめの子で、敏達びたつ天皇元年に大臣となつた。同十三年に鹿深臣かふかのおみ彌勒みろく石像一佐伯連さえきのむらじ佛像ぶつぞうを各々百濟くだらから持參じさんして馬子うまここいにまかせて進上すると、馬子うまこ播磨國はりまのくにに居た還俗者かんぞくしゃ高麗慧便こまのえびん、更に司馬し ば達等たちとの娘などを出家させ、日本最初の齋會さいえを開いた。時に司馬し ば達等たちひと齋物いみものの上に舍利しゃりを得たので、馬子うまこ崇佛心すうぶつしんは、それと共にますます深くなつた。ところが、諸國に疫病えいびょう流行するに及び、物部守屋もののべのもりや中臣勝海なかとみのかつみ天皇の許可を得て佛像ぶつぞうき、僧尼そうに禁錮きんこした。時に用明ようめい天皇崇佛すうぶつ御心みこころ深く、二年四月やまいあつくなられると、三ぽうする御志みこころざしあつて守屋もりや勝海かつみ反對はんたいを押しきり、馬子うまこ豐國とよくに法師ほうし內裏だいりたてまつつた。

 いで天皇崩後ほうご馬子うまこ守屋もりやめっし、東漢直駒やまとのあやのあたいこまに命じて崇峻すしゅん天皇たいして大逆だいぎゃくを行はしめ、推古すいこ天皇擁立ようりつした。時に聖德太子しょうとくたいし攝政せっしょうの位にられたが、實權じっけん馬子うまこの握る所となり、新羅しらぎ征伐せいばつ隋唐ずいとうとの修交しゅうこう冠位かんいの設定・曆法れきほう施行しこう國史こくし撰錄せんろくなど、太子たいしと共に力を合せて行つた。太子の薨後こうごすではばかる人なく、非常に增長ぞうちょうして威權いけんほしいままにし、三十四年にこうじた。

【大意謹述】かえりみれば、欽明きんめい天皇の十三年にあたつて、百濟くだら聖明王せいめいおう佛敎ぶっきょうを我が朝廷につたたてまつつた。當時とうじ群臣ぐんしんの間に可否か ひ兩論りょうろんを生じ、大多數だいたすう佛敎ぶっきょう反對はんたいの旨を奏上そうじょうし、蘇我稻目宿禰そがのいなめのすくねだけが崇佛すうぶつの意を示した。そこで天皇は、稻目宿禰いなめのすくねみことのりされ、ひそかにその法をつたへることを許された。敏達びたつ天皇御代み よに、蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくね亡父ぼうふ稻目いなめこころざしぎ、ほ一そう佛敎ぶっきょうを尊敬したのである、この時もの一切のしんは信じなかつたので、我が日本から佛敎ぶっきょうほとんど亡びるばかりとなつた。天皇はこの際、特に馬子うまこみことのりして、ひそかにその法をほうずる事を許されたのであつた。

【備考】當時とうじ神道しんどうは國家のもといたる祭祀さいしつかさどり、儒敎じゅきょう社會しゃかい道德どうとくを支配し、佛敎ぶっきょう人知じんち以上の絕對者せったいしゃ思慕し ぼして、それにより安心を人々にあたへる用をなしてゐたから、奈良時代の如く僧侶そうりょの政治的進出もなく、神佛しんぶつ習合しゅうごう本地ほんち垂迹すいじゃくせつもまだ起らなかつた。だから孝德こうとく天皇が、『國司こくし諭さとすのみことのり』(大化元年八月、日本書紀)のうちで「天神てんじんさささしたまひしままに、今、初めてまさ萬國くにぐにを修めむとす」とひ、『東國とうごく國司こくしに下し給へるみことのり』(大化二年三月、日本書紀)に「ちんかみまもりこうむり、つとめて卿等けいらと共におさめむと思ほす」とおおせられ敬神けいしんの意を明らかにされた。同時に『直言ちょくげんを求むるのみことのり』(大化二年二月、日本書紀)では「ちん聞く、明哲めいてつたみおさむるは、かねみかどけて百せいうれえおくちまたに作りて路行みちゆくひとそしりをき、芻蕘すうぎょうせついえども、みずから問ひてしるべとなしたまふ」と明らかに儒敎じゅきょう主義を標榜ひょうぼうされた。ところが奈良朝に至つて佛敎ぶっきょうが政治方面に進出し、僧侶そうりょの意見が國政こくせいを左右するやうになり、一方、本地ほんち垂迹すいじゃくせつなどが神道しんどう純粹性じゅんすいせいみだすことになり、ここに佛敎ぶっきょうは我が固有の精神せいしん破壞はかいするものとし、江戸時代の儒者じゅしゃ、特に國學派こくがくは及び水戸み と學派がくはから攻擊こうげきされるやうになつた。

 公平に佛敎ぶっきょうが我國の文明にあずかつた效果こうかは大きい。それと共に鎌倉時代に日本化された佛敎ぶっきょうは我が國體こくたい論者ろんしゃからも一がいに避難さるべきものではない。又日本人は如何い かなる異國いこく思想をも日本化し、その長所だけをうけれる特殊な才能を有してゐる。江戸時代の國學者こくがくしゃは一概に佛敎ぶっきょうを非難したが、我等は佛敎ぶっきょうが日本文化にあずかつたてんに於て鎌倉時代の日本化せる佛敎ぶっきょう價値か ちを認めるので、必ずしも宣長のりなが篤胤あつたね水戸み と學派がくはの論をままには受けがたい。佛敎ぶっきょうが奈良・平安時代に政治方面をみだし、神道しんどう方面を不純ならしめたことがあつても、我が國體こくたい精華せいかと衝突しない限りみだりに非難するにはあたらぬ。

 佛敎ぶっきょうを公平な原理功究こうきゅうの上から攻擊こうげきしないで、異國敎いこっきょうだとして、又佛僧ぶっそう墮落だらくのことを理由として非難するのは穩當おんとうでない。ただし皇室以外に絕對ぜったい權威者けんいしゃ佛敎徒ぶっきょうとが認めるとの理由で排斥はいせきするのは、一おう正しいといへる。しか左樣そ うしたことは現代にはない。よつて我々は印度いんど佛敎ぶっきょうとはことなつた日本佛敎ぶっきょうの本質―僧侶そうりょまた日本精神せいしんの所有者として佛敎ぶっきょう從事じゅうじすること―を正しく認識し、不當ふとうの非難は避けたいと思ふ。