5-1 鞍作鳥を賞するの勅 推古天皇(第三十三代)

鞍作鳥くらつくりのとりしょうするのみことのり(第一段)(十四年五月 日本書紀

朕、欲興隆內典、方將建佛刹。肇求舍利時、汝祖父司馬達等便獻舍利。又於國無僧尼。於是汝父多須那、爲橘豐日天皇出家、恭敬佛法。又汝姨島女初出家、爲諸尼導者、以修行釋敎。

【謹譯】ちん內典ないでん興隆お こさむとおもひ、方將ま さ佛刹て らてむとす。はじめて舍利しゃりもとめしときなんじ祖父そ ふ司馬し ば達等たちと便すなわ舍利しゃりたてまつりき。またくに僧尼そうになし。ここいてなんじちち多須那た す な橘豐日天皇たちばなのとよひのすめらみことめに出家しゅっけし、佛法ぶっぽうつつしいやまへり。またなんじおば島女しまめはじめて出家しゅっけして、諸尼しょに導者みちびきとして、もっ釋敎ほとけのみのり修行おこなふ。

【字句謹解】◯鞍作鳥 「くらつくりのとり」は推古朝すいこちょうの有名な佛師ぶっし寺工じこうである。本勅ほんちょくにある如く祖父そ ふ司馬し ば達等たちと、父は多須那た す なで、この一家は我が國佛敎ぶっきょう史上重要な地位を占めてゐる ◯內典 儒敎じゅきょう書物外典げてんといふのにたいして佛敎ぶっきょう書物內典ないでんといつた。これが一てんして佛敎ぶっきょうそのものの意味に使用される ◯佛刹 佛寺ぶつじの意、我が國への佛敎ぶっきょう傳來でんらい經過けいかに就いては〔註一〕參照 ◯舍利 ほとけの骨のこと、佛舍利ぶっしゃりに就いては『魏書ぎしょ』の『釋老志しゃくろうし』に「ほとけの世をしゃするや、香木こうぼくにて、かばねけば、靈骨れいこつ粉碎ふんさいして、大小だいしょうりゅうごとし。てどもこわれず、けどもげず、あるい光明こうみょう神驗しんけんあり、胡言こげんにてこれ舍利しゃりといふ」とあり ◯司馬達等 支那し なから日本に歸化き かした人、我が國最初の佛敎ぶっきょう傳道者でんどうしゃとして著名である。欽明きんめい天皇の十三年にあたり、朝廷で崇佛すうぶつの可否を問題とされたが、民間に佛敎ぶっきょうの行はれたのはそれ以前にさかのぼつて考へられる。現にこの司馬し ば達等たちとなどは、『扶桑ふそう略記りゃっき』にしたがへば、繼體けいたい天皇の十六年に大和國やまとのくに高市郡たけちごおり坂田原さかたのはら草堂そうどうを結んでほとけ禮拜らいはいしたので、時の人々は大唐だいとうの神としょうしたとの意が記してあり、『法華ほっけ驗記けんき』にも同樣どうよう事實じじつを記してゐる。繼體けいたい天皇十六年は、欽明きんめい天皇十三年より約三十年以前で、とにもかくにも、すで大和やまとにまで佛敎ぶっきょうが入つてゐたことは、この文獻ぶんけんで判明しよう ◯舍利を獻りき 司馬し ば達等たちと佛舍利ぶっしゃり馬子うまこけんじ、一同がその不可思議な功驗こうけんに驚いてほとけを信ずるやうになつたことは、『敏達紀びたつき』十三年のくだりにある。〔註二〕參照 ◯多須那 司馬し ば達等たちとの子で出家して德齊とくさい法師ほうしといつた。このことは『崇峻紀すしゅんき』三年のくだりにある。〔註三〕參照 ◯橘豐日天皇 用明ようめい天皇御事おんこと ◯鳥女 司馬し ば達等たちとの娘で十一歳で出家した。『敏達紀びたつき』十三年のくだりにこのよしが記してある。〔註四〕參照。

〔註一〕佛敎渡來の事 我國わがくにに於ける佛敎ぶっきょう傳來でんらい概說がいせつするのには、當然とうぜん支那し な・朝鮮にそれが傳來でんらいした時期をづ考へなければならぬ。後漢ごかん明帝めいていが使者を印度インドつかわして佛敎ぶっきょうを求めたのは皇紀こうき七二五年で、垂仁朝すいにんちょうの頃である。支那し なではその後、三百年程は梵經ぼんぎょう漢譯かんやくにせはしく、支讖しせん(支婁迦讖の略稱)・安世高あんせいこう鳩摩羅什くまらじゅう法顯ほっけん玄弉げんじょう義淨ぎじょうなどの名僧めいそう續出ぞくしゅつして、きょうりつろん譯書やくしょが五千六百かんに及んだ。唐宋とうそう以前に、阿毘あ び達磨だるま(毘曇)・三ろん成實じょうじつりつ涅槃ねはん地論じろん淨土じょうどぜん攝論しょうろん天台てんだい法相ほっそう華嚴けごん眞言しんごんの十三しゅうあつたが、日本に傳來でんらいしたのは、三ろん法相ほっそう成實じょうじつりつ華嚴けごん天台てんだい眞言しんごん淨土じょうどぜんの九しゅうだけである。次に朝鮮へ佛敎ぶっきょう傳來でんらいしたのは、支那し な東晉とうしん時代、國史こくし仁德にんとく天皇御代み よあたり、ぜん秦王しんのう符堅ふけんそう道順どうじゅん高麗こ まつかはし、小獸林王しょうじゅうりんおう佛像ぶつぞう經論きょうろんとを おくつたのに始まる。そののち、十數年すうねんのちに、印度インドそう摩羅ま らなん支那し なから百濟くだらに渡り、越えて三十餘年よねん高麗こ まそう新羅しらぎ傳道でんどうし、三かん(朝鮮)に佛敎ぶっきょうつたはつた。これを日本につたへたのは百濟くだら聖明王せいめいおうである。

 さて、我が國では欽明きんめい天皇十三年が佛敎ぶっきょう傳來でんらいの年であるとされてゐる。が、前述した通り、それは天皇佛敎ぶっきょうの可否を群臣ぐんしんに問はれた年で、約三十年以前の繼體けいたい天皇十六年に大和やまと地方にまでその影響が及んでゐたのであり、民間にはもつと以前から信仰する者があつたことを證明しょうめいする。そののち國史こくしにあらはれたところでは、

(一)欽明きんめい天皇の六年に百濟王くだらおう天皇おんめにじょうぶつを造つた。(二)欽明きんめい天皇十三年に百濟くだら聖明王せいめいおう佛像ぶつぞう經論きょうろん等をけんじた。(三)敏達びたつ天皇六年に百濟くだらから經論きょうろん及び律師りっし禪師ぜんし佛工ぶっこう寺工じこう等をけんじた。(四)敏達びたつ天皇八年に新羅しらぎ佛像ぶつぞうけんじた。(五)敏達びたつ天皇十三年に司馬し ば達等たつとむすめなどがあまとなつた。(六)崇峻すしゅん天皇元年に百濟くだら佛舍利ぶっしゃり寺工じこう瓦工がこう畫工がこうなどをけんじた。(七)崇峻すしゅん天皇三年に司馬し ば達等たつとの子多須那た す ななどが出家した。

などの記錄きろくが見えるが、そのうちで我が思想史上注意すべきは、(二)の欽明きんめい天皇十三年の事件である。

 この年の十月、百濟くだら聖明王せいめいおうが、金銅こんどう釋迦しゃか佛像ぶつぞうはた及びきぬがさ若干じゃっかん經論きょうろんなどをけんじ、書をたてまつつて佛法ぶっぽう弘通ぐつう功德くどくを述べた。その文中には「佛法ぶっぽうは諸法中で最も入り難く、達し難いもので、支那し な聖賢せいけんしょうされる孔子こうし周公しゅうこうのやうな人物でも知らなかつた。この敎法きょうほう無量むりょう無邊むへん福德ふくとく果報かほうを生ずる。それは印度インドに起り、支那し な・朝鮮の誰一人として信敬しんきょうしない者はない。今、このとうとい法を貴國きこくつたへ、この大法たいほうが必ず東方に流傳るでんするといふ佛陀ぶっだ豫言よげん實現じつげんする次第である」との意が記してあつた。

 天皇は何分にも異敎いきょうである關係かんけい上、愼重しんちょうに考慮せられ御自身だけで問題を解決させられず、信仰の可否を群臣ぐんしんに問はれた。その際、大臣の蘇我稻目そがのいなめは「すでに諸國で信じてゐる以上、我が國のみ不可な理由はない」とそうし、大連おおむらじ物部尾輿もののべのおこし及び中臣鎌子なかとみのかまこは「我國には天地あめつちの神々がございます。それにもかかわらず、今異國いこくの神をはいせらるるならば、必ず國神くにがみの怒りにれるでせう」と申上げた。ここに可否兩樣りょうようの意見が出たが、天皇は御自身可否を決定せられず、崇佛すうぶつの意のある稻目いなめ佛像ぶつぞうたまわつた。そののち、この兩派りょうは事每ことごとに政治上・思想上の鬪爭とうそうつづけ、一蘇我氏そ が し物部もののべ一派からはげしい壓迫あっぱくを受けた。が、周圍しゅういの形勢及び廐戸皇子うまやどのおうじ崇佛說すうぶつせつさんせられるに及び、事情は一ぺんして、遂に物部氏もののべし守屋もりやの代に蘇我氏そ が しに亡ぼされ、佛敎ぶっきょうは偉大な勢力るに至つた。

〔註二〕舍利 敏達びたつ天皇十三年に、司馬し ば達等たちと佛舍利ぶっしゃり馬子うまこけんじた。馬子うまこは試みにこれを鐵槌てっついで打つても、くだくことは出來ず、水中にれれば、勝手に走つたりとまつたり浮いたり沈んだりする。目前にこの功驗こうけんを見て、馬子うまこたちま佛法ぶっぽう信者となり、石川の自宅に佛殿ぶつでんを造つた。「佛法ぶっぽうの初め、ここよりおこれり」と『敏達紀びたつき』には記してゐる。

〔註三〕多須那及び尼のこと 崇峻すしゅん天皇の三年三月に、善信尼ぜんしんに(司馬達等の娘)などが百濟くだらから還つて櫻井寺さくらいでらに住んだ。冬十月に山に入つて寺のを取つた。このとしに出家した尼は、大伴狹手彥連おおとものさてひこのむらじむすめ善德ぜんとく新羅しらぎのひめ善妙ぜんみょう百濟媛くだらのひめ妙光みょうこう及び漢人かんじん善聰ぜんそう善通ぜんつう妙德みょうとく法定照ほうじょうしょうなどである。司馬し ば達等たちとの子多須那た す まも同時に出家して德齊とくさい法師ほうしといつた。(崇峻紀)

〔註四〕善信尼 この年(敏達天皇十三年)に我國最初の尼僧にそうが三人出來た。一は司馬し ば達等たちとの娘島女しまめで、十一歳のとき出家して善信尼ぜんしんに(或は、ぜんしんのあま)といひ、他はその弟子で、漢人かんじん夜菩や ぼの娘豐女とよめ及び錦織壺にしごりのつぶの娘石女いしめで、各々おのおの禪藏尼ぜんぞうのあま惠善尼えぜんのあましょうした。

【大意謹述】ちんは今、佛敎ぶっきょうを盛大にして佛寺ぶつじを多く建立こんりゅうしたいと考へてゐる。最初佛骨ぶっこつを求めた際、なんじ祖父そ ふ司馬し ば達等たちとただちにそれを獻上けんじょうした。又、當時とうじ我國わがくにほとけつかへる僧尼そうにが少しも存在しなかつた頃、なんじの父の多須那た す な用明ようめい天皇おんめに出家して、ほとけの法を堅く守り、常に態度をつつしんで崇佛すうぶつの意をあらはし、更になんじの伯母の島女しまめは我が國最初の尼僧にそうとして、多くの尼を導いて佛敎ぶっきょう宣傳せんでんした。なんじ一家ほとけとはじつ因緣いんねんが深いといはなければならない。

【備考】我國わがくにに於ける佛敎ぶっきょう傳來でんらいに就いて、(一)聖德太子しょうとくたいし何故な ぜ佛敎ぶっきょうを保護されたか、(二)百濟くだら聖明王せいめいおう何故な ぜ日本に佛敎ぶっきょうつたへたか、(三)當初とうしょあれ程壓迫あっぱくされた佛敎ぶっきょう何故なにゆえひろく信仰されるに至つたか、の三問題は當然とうぜん考へられる。ここでは(二)及び(三)について簡單かんたんに記さう。

 すでに『軍事外交篇』で一おう說明せつめいしたやうに、當時とうじ朝鮮では、百濟くだら新羅しらぎとが久しい間、衝突して、我が繼體けいたい天皇の初期には大連おおむらじ大伴金村おおとものかなむら百濟くだら左袒さたんし、近江毛野おうみのけぬみことのりほうじて新羅しらぎを討つたことがある。欽明きんめい天皇六年には、百濟くだら聖明王せいめいおうは日本の任那みまな官府かんぷ大臣おおおみ任那みまな興復こうふく新羅しらぎ征討せいとうとをはかり、いでじょう佛像ぶつぞうを造つて福祉ふくしいのつた。したがつて佛像ぶつぞう鑄造ちゅうぞうは外交上の原因、すなわち日本の好意を得て、新羅しらぎこうする時の後援を求めたことが一因となつてゐるらしい。ただ欽明きんめい天皇十三年紀に見える百濟くだら國書こくしょに「大法だいほうは必ず東方へ流傳るでんすると佛陀ぶっだ豫言よげんした旨を實現じつげんする次第云々うんぬん」との意があるてんから、「我が法は東方に流傳れでんしよう」との佛說ぶっせつを信ずることからも出たともかいせられる。要するに主として外交上、じゅうとして信仰上の原因から、聖明王せいめいおう佛敎ぶっきょうを日本につたへたと見ればよいであらう。

 佛敎ぶっきょうが一時の壓迫あっぱくを越えて國敎こっきょうと思はれるほどの盛大さとなつた原因には、政治上、蘇我氏そ が しの勝利、聖德太子しょうとくたいし佛敎ぶっきょう加護か ごなどが當然とうぜん考へられるが、一般的には時代の新機運に合致したためでもあつた。在來ざいらい日本の原始神道しんどうは、支那し な文學ぶんがく洗禮せんれいを受け、智的ちてきに進歩した上流貴族や、朝廷に仕へる支那し な・朝鮮出身の學問がくもんある有司ゆうしに十分な滿足まんぞくあたない有樣ありさで、當時とうじ傳來でんらいした儒敎じゅきょうあまりに現生げんせい的であるのにして、支那し な・朝鮮を風靡ふうびした佛敎ぶっきょう未來みらい幸福こうふくき、前世からの因緣いんねんおしへ、崇拜すうはいの目標である佛敎ぶっきょう藝術げいじゅつ的表現の上に於いて、强い美しい印象を人々の上にあたへた。したがつて新奇しんきを好む人心じんしんを動かす效果こうかは大きかつた。結局佛敎ぶっきょうは時代の新機運にじょうじて起り、政治上の有力者の保護によつて宣敎せんきょうの基礎を確立したといへよう。