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3 神祇を祭祀するの詔 垂仁天皇(第十一代)

神祇しんぎ祭祀さいしするのみことのり(二十五年二月 日本書紀

我先皇御間城入彥五十瓊殖天皇、惟叡作聖。欽明聰達、深執謙損、志懷沖退。綢繆機衡、禮祭神祇。剋己勤躬、日愼一日。是以人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀神祇、豈得有怠乎。

【謹譯】先皇せんこう御間城入彥みまきいりひこ五十瓊殖天皇いにえのすめらみことさかしくひじりします。欽明きんめい聰達そうたつふか謙損けんそんりて、こころざし沖退ちゅうたいいだく。機衡きこう綢繆すべおさめたまひて、神祇しんぎ禮祭らいさいし、おのれつとめて、に一にちつつしむ。ここもっ人民じんみんりて、天下てんか太平たいへいなり。いまちんあたりて、神祇しんぎ祭祀さいしすること、あにおこたることるをむや。

【字句謹解】◯先皇 前代の天皇の意、ここでは崇神すじん天皇を指したてまつる ◯御間城入彥五十瓊殖天皇 崇神すじん天皇御事おんこと ◯叡しく この上もなく神聖しんせいなこと ◯聖に作します 天皇としてこの上求められない程理想的であらせられた ◯欽明 きんは身をつつしむ、めいは道理に明らかなこと ◯聰達 御聰明ごそうめい萬事ばんじに通じられる意 ◯謙損 謙遜けんそんして、何事に就いても差し出がましいことを行はない ◯沖退 他人を先にし、自分のことは後𢌞あとまわしにして、しやばらない ◯機衡 ヨロヅノマツリゴトと一般にはくんじてゐる。各方面の政治の意 ◯綢繆 統轄とうかつされる意 ◯神祇を禮祭し 天地の神々を祭ること。〔註一〕參照 ◯己を剋め躬を勤めて 平生へいぜい御自身の云爲うんいを反省され、みずから神々をうやまつて敬神けいしんの念に厚いこと ◯日に一日を愼む 毎日御身おんみつつしみ、輕擧けいきょ妄動もうどうを避けること ◯富み足りて 萬民ばんみん經濟けいざい的にゆたかとなつて、日用にちように不足を感じなくなる意。〔註二〕參照。

〔註一〕神祇を禮祭 崇神すじん天皇敬神けいしんの念にまれたことは、今日こんにち御諡おんおくりな崇神すじんと申し上げる事からも判斷はんだんが出來る。『崇神紀すじんき』には特に「神祇しんぎ崇重あ がめたまふ」とあり、六年には天照大御神あまてらすおおみかみみたま笠縫邑かさぬいのむらに祭り、前詔ぜんしょうにある如く、七年には大物主神おおものぬしのかみを祭り、九年には盾と矛とを墨坂すみさか・大阪の二しんたてまつつて之を祭られたことからも考へられる。

〔註二〕富み足る 政治の根本は國民のすべてを經濟けいざい的によくならしめるにある。天下太平とは、たんに皇室に反抗する人物を根絕こんぜつするのみでなく、その時代の國民が全部日々の生活を樂々らくらくと立ててくことが出來ることを意味する。本詔ほんしょうの「人民富み足りて、天下太平なり」とあるのは、この見地からあじわつてよい御詞おことばである。

〔注意〕本詔ほんしょうは二十五年春二月八日、阿倍臣あべのおみ遠祖えんそ武渟川別たけぬかわわけ和珥臣わにのおみの遠祖彥國葺ひこくにふく中臣連なかとみのむらじの遠祖大鹿島おおかしま物部連もののべのむらじの遠祖十千根とちちね及び大伴連おおとものむらじの遠祖武日たけひの五大夫だいふに下されたものである。この詔勅しょうちょくによつて今まで豐耜入姬命とよすきいりひめのみことが奉仕してゐた天照大御神あまてらすおおみかみ御靈みたま倭姬命やまとひめのみことに託せらるるやうになつた。倭姬命やまとひめのみこと垂仁すいにん天皇皇女こうじょである。かのじょ大御神おおみかみ鎭座ちんざの地を求めて、諸方を巡り、遂に大御神おおみかみ御敎みおしえり、伊勢の五十鈴い す ず川上かわかみ齋宮いつきのみやおこし、大御神おおみかみに奉仕した。現在の伊勢い せ內宮ないぐうがそれである。

 なほ、本詔ほんしょうに就いては(一)卜災ぼくさいみことのり(崇神天皇七年二月、日本書紀)が參考さんこうとなり、同類の詔勅しょうちょくとしては(二)神祇しんぎを祭るのみことのり推古天皇十五年二月、日本書紀)がある。それらはいずれも本篇中に謹述きんじゅつしてある。

【大意謹述】先帝にまします崇神すじん天皇は、この上もなく聖明せいめいで、理想的な君主であられた。常に御身おんみをつつしまれ、道理に明るく、御聰明ごそうめい萬事ばんじ通達つうだつされ、御謙遜ごけんそんの念が深く、何事につけても控へ目であられた。その上、天下の政治を統轄とうかつして、うやうやしく天地の神々を祭り、政治上、常に自己を反省して、みずか祭事さいじに勉め、日毎ひごとに身をつつしみ、輕擧けいきょ妄動もうどうを避けられた。ゆえに先帝の御代み よは國民が生活に少しも不足せず、天下太平だつたのである。現在、そのあといだちんの世になつて、し神々につかたてまつることを怠つたならば、先帝の御志おこころざしそむくばかりでなく、國家の安穩あんのんがたい。ゆえ汝等なんじら大夫だいふは朕と心を合せ、決して敬神けいしんのことを怠つてはならない。

【備考】當時とうじ天照大御神あまてらすおおみかみ倭姬命やまとひめのみことつたへられた神託しんたくについて、『日本にほん書紀しょき』には、「これ神風かみかぜの伊勢の國は、すなわ常世とこよなみ重浪しきなみよする國なり。傍國かたくに可怜國うましくになり、この國にらむとおもふ」とある。けだし伊勢は大海たいかいに臨む國だから、常世國とこよのくに支那し なの南部又は新羅しらぎなどといふせつがある―すなわち遠い海外の國からも、重ね重ねなみうちよせてくる國だといふ意味がそこに見える。傍國かたくには海に片寄つた國とも、堅固けんごの國とも、解釋かいしゃくされるが、この場合、海に片よつた國と見る方が正しい。可怜國うましくには、よい國だといふ意味で、伊勢國いせのくにをほめられたものと思ふ。

 この際、神を祭る文學ぶんがくについて一げんする。古來こらい神道しんどう說明せつめいしたいろいろの書がある。ところが、それは、あるい儒意じゅいを加へ、或は佛意ぶついを加へ、或はかた固陋ころう偏狭へんきょう淺薄せんばくで、どうも、純正な意味をつたへないものが、大部分を占めてゐる。中で國學こくがく一派によつてかれたところの復古ふっこ神道しんどうが、一番によいと思はれるけれども、これまた神道しんどうを組織的・系統的にき得てゐるとはがたい。

 そこで、わたくしらは、神を祭る文學ぶんがくとしての『祝詞のりと』を直接にむことが、純粹じゅんすい神道しんどうを知る上に、最も有效ゆうこうだと信ずる。かつ山鹿やまが素行そこう伊藤いとう仁齋じんさいらは、宋代そうだいの有力な哲學てつがく者、朱子しゅし程子ていしらがいた孔孟こうもう滿足まんぞくしないで、純粹じゅんすい孔子こうし孟子もうし精神せいしんを知るためにすぐに、その著書に直面し、その眞意しんいを知る事につとめた。その旨は、古學こがく派の主張として有名であるが、てん神道しんどうの上でも、かわりはない。

 神道しんどう主要點しゅようてんは、『祝詞のりと』にはつきり出てゐる。その內容の雄大・莊嚴そうごんてん單純たんじゅんで力强い表現がなされてゐるてんで、神を祭る文學ぶんがくとしての第一位にある。聖書バイブルもよからう、佛典ぶってんもよからう、四しょまたよからうが、日本精神せいしん觀點かんてんに起つと、そのいずれもが、ぴたりとわたくしらの頭へ來ない。それは、聖書バイブル猶太ユダヤじんの宗敎的經典きょうてんであり佛典ぶってん印度インドじん精神せいしんよって支持され、四しょまた支那し なじん精神せいしんよって裏付けられてゐるからである。

 勿論もちろん祝詞のりとは、聖書バイブルの如く、多方面のことにわたつてはをらぬ。また佛典ぶってんの如く、理論上の複雜ふくざつ精深せいしんさを持たぬ。それから四しょの如く、簡明かんめいな理論で、深い哲學てつがくを表現したところもない。けれども、忠孝ちゅうこうぽんの思想、祭政さいせい精神せいしんが、はつきりと現はれ、道德どうとく的にも、政治的にも、宗敎的にもある深い眞理しんりに到達してゐる。

 そこには、餘程よほど現實げんじつ的な考へが多い。日本國民は、過古か こ未來みらいについて考へないわけではなく、佛敎ぶっきょうの三因果いんがぐ理解した。けれどもいずれかといへば、現實げんじつに生きる國民である。したがつて、『祝詞のりと』にも、現實味げんじつみが多く、ほがらかに明るい思想が流れ出てゐる。それが天神てんしん地祇ち ぎを祭るにあたつては、恭敬きょうけいをつくすところから、おのづから、その思想が雄大となり、莊嚴そうごんとなる。大祓おおはらい祝詞のりとの如きは、その代表的な一つである。

 その修辭しゅうじは、單純たんじゅんであるが、調子は莊重そうちょうで、神々こうごうしい。いくら繰返してんでも、くことなく、敬神けいしんの念がおのづから湧き出してくる。そこに何ともいへぬ、力强さがこもつてゐて、獨特どくとくの地位を保つてゐる。それゆえに、神道しんどう心持こころもちに徹し、それを泌々しみじみあじわふには、どうしても、『祝詞のりと』に直面しなくてはならぬ。理論や講說こうせつはいらぬ。ぐに『祝詞のりと』につけばよいのである。

 その補助として、『古事記こ じ き』『日本にほん書紀しょき』『萬葉集まんようしゅう』などをもむ必要はあらう。けれども『祝詞のりと』が、その中心である。『祝詞のりと全體ぜんたいを十分にめば、神道しんどうの原理がわかり、神道しんどうの魂もわかる。そこから受ける感銘かんめいは、純粹じゅんすいこころよい。この偉大な文學ぶんがくによつて、日本國民の宗敎たる神道しんどうを知ることは、最大の喜びであらねばならぬ。

 世上せじょう、理論家のうちには、以上の純粹性じゅんすいせいを意識しないで、あるい佛敎ぶっきょうせつをこれに加へ、或は儒敎じゅきょう的な思想を加味か みし、或は西洋哲學てつがくの考へ方を混入するが如きことをして、神道しんどうの本質を破り、もしくは神道しんどうの重要性を混濁こんだくならしめたものも少くない。左樣そ うしたせつによつてゐては、純正じゅんせい神道しんどう觀念かんねんを正確に把持は じすることが出來ない。したがつてどの場合、どの事情から考へても、ぐ『祝詞のりと』に直面して、日本神道しんどうの偉大を知ることが肝要かんようである。