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大日本詔勅謹解4 神祇佛敎篇 序言

序言

 日本の宗敎史は、固有の神道しんどうと外來の佛敎ぶっきょうとの交錯史である。大體だいたいにおいて、神道しんどうよりも、佛敎ぶっきょうの方がさかんであつた。唯明治初期の排佛はいぶつ毀釋きしゃく運動が起つた時だけ、一佛敎ぶっきょうが衰へて、神道しんどうひとり、國內を風靡ふうびするの有樣ありさを示した。それは道家しんどうかの奮起にもよつたが、いずれかといふと、政府の復古ふっこ方針に基づく保護・奬勵しょうれいによるところが多かつた氣味き みがある。

 本來、國民性の觀點かんてんからすれば、神道しんどう國敎こっきょうとして、もつと隆盛を極めねばならぬ理勢りせいにある。ところが、外來の佛敎ぶっきょうが、始終、神道しんどうしのいで、時としては、國敎こっきょうの如き有樣ありさを示したのは、つまり、諸高僧こうそうの涙ぐましい迄にした努力・精進しょうじんによるところが多い。彼等は、個人成佛じょうぶつを主眼とする佛敎ぶっきょうを日本化して、國家成佛じょうぶつせつを唱へ、いろいろの方面から日本民族神髄しんずいれることに全力を傾けた。そのために、印度いんど支那し な佛敎ぶっきょうは、すつかり日本の佛敎ぶっきょうとなり、國民生活と密接な交渉を保つたのである。

 今日こんにち佛敎ぶっきょうの各宗・各派が昔の如く、ぼ保存せられてゐるのは日本だけだ。印度いんど支那し なにおいては、佛敎ぶっきょう衰微すいび眼立め だつてゐるにかかわらず、日本では、左程さほどの衰へを見せず、相當そうとうきゅう勢力を支持してゐる。このてんにおいて、日本は佛敎ぶっきょう思想の一大貯水池でもある。

 神道しんどうは、我國わがくにの國民性に根ざして、おのづから發達はったつした固有の宗敎で、日本國民のぴたりと一致すべき可能性を多く備へてゐる。ただそれは、佛敎ぶっきょうの如く、整然と組織されないで今日こんにちに及んだ。ここ神道しんどうの展開を十分、し得なかつた一因がそんする。それに、その發達はったつの途中において、あるいはこれを佛敎ぶっきょうに結び付け、あるいはこれを儒敎じゅきょう附會ふかいするものが出來ために、はなはだしく、神道しんどう純粹性じゅんすいせいをこはした氣味き みもあつた。

 かうして、神道しんどうは、當然とうぜん、十分に發達はったつすべく、また國敎こっきょうとして、極度に伸展しんてんすべき本來の性質をしたにかかわらず、それにともなだけ實績じっせきおさめ得なかつた。けれども日本精神せいしん勃興ぼっこういちじるしい今日こんにち神道しんどうの伸びてゆくべき望みは、今後加速度的とならう。ただこれを哲學てつがく的に基礎付け、化學かがく的に整頓して、現代人にアツピイルするだけの用意をすことが、刻下こっかの急務であらうと思ふ。勿論もちろん、その神道しんどうの內容は古代の純粹性じゅんすいせい飽迄あくまで、保持してゆくことを以て、第一義とせねばならぬ。要するに、神道しんどう發展はってんは、今後にある。

 かのマルクシズムのは、「宗敎しゅうきょう阿片あへんだ、魔醉藥ますいやくだ」として、これをしりぞけるけれども、宗敎は人間內部の深いところからはっした自然の要求で、精神せいしん生活を豐富ほうふにし、つ一つのつよく、正しい信念に生きてゆくについては、くことの出來ないものだ。この意味において、古代から今日こんにちに至る迄の宗敎方面にたいする詔勅しょうちょくはいすると、感銘かんめいあらたにするてんが多い。

 昭和九年三月    高須芳次郞 謹識