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70 關東軍ニ賜リシ勅語 今上陛下(第百二十四代)

關東軍かんとうぐんたまわリシ勅語ちょくご(昭和七年一月八日)

【謹譯】さき満洲まんしゅうイテ事變じへん勃發ぼっぱつスルヤ、自衞じえい必要上ひつようじょう關東軍かんとうぐん將兵しょうへいハ、果斷かだん神速しんそくしゅうせいシ、すみやかこれ芟討さんとうセリ。爾來じらい艱苦かんくしの祁寒きかんヘ、各地かくち蜂起ほうきセル匪賊ひぞく掃蕩そうとうシ、警備けいびにんまっとウシ、あるい嫩江のんこう齊々哈爾ち ち は る地方ちほうニ、あるい遼西りょうせい錦州きんしゅう地方ちほう氷雪ひょうせつキ、勇戰ゆうせん力鬪りきとうもっ禍根かこんキテ、皇軍こうぐん威武い ぶ中外ちゅうがい宣揚せんようセリ。ちんふか忠烈ちゅうれつよみス。なんじ將兵しょうへい益々ますます堅忍けんにん自重じちょうもっ東洋とうよう平和へいわ基礎き そ確立かくりつシ、ちん信倚しんいこたヘムコトヲセヨ。

【字句謹解】◯満洲ニ於イテ事變ノ勃發スルヤ 所謂いわゆる満洲まんしゅう事變じへんが突然に惹き起されるやいなやとふ意。満洲まんしゅう事變じへん近因きんいんは、昭和六年九月十八日に、奉天省ほうてんしょう北大營ほくたいえいで、支那し なの正規兵のために滿鐵まんてつ沿線の王官屯おうかんとん柳條溝りゅうじょうこうの線路を爆破され、つづいて我が守備兵が攻擊こうげきを受けたことに初まる。我軍はただちに支那し な兵を擊退げきたいし、各所に於いて我が満洲みなみまんしゅう利權りけんを妨害する支那兵とたたかひつつ、昭和七年一月三日には錦州きんしゅうり、やがて満洲まんしゅうこく建國けんこくとなり、更に國際こくさい聯盟れんめい脫退だったい聲明せいめいとなつたので、本勅ほんちょくは一月八日、宮中表謁見所おもてえっけんじで、參謀さんぼう總長そうちょう閑院宮かんいんのみやに下し給うたのであつた ◯自衞 正當せいとう防衞ぼうえいのこと、理由なくして相手が襲擊しゅうげきするにたいして、自分の生命をまもるためむを得ずその相手をらしめる意。〔註一〕參照 ◯果斷神速 勇氣ゆうきがあり、かみのやうな速さで斷然だんぜん目的を達する ◯寡克ク衆ヲ制シ 少數しょうすうでよく大兵たいへいを制御する。〔註二〕參照 ◯芟討 草をるやうに容易たやすく敵を討ちほろぼす事 ◯爾來 その後 ◯祁寒ニ堪ヘ 非常な寒さを堪へ忍ぶこと ◯蜂起 諸方にむらがり起る ◯匪賊 皇軍こうぐんに反する賊 ◯掃蕩 一掃する。全部を討ち亡ぼすこと ◯警備ノ任 治安を保持する責任 ◯氷雪ヲ衝キ 雪や氷の中を物ともせずに進んでくこと ◯禍根ヲ拔キテ 災害の根本をきよめはらふ意 ◯皇軍 我が天皇直屬ちょくぞくの軍隊、すなわち日本軍のこと ◯中外ニ宣揚セリ 諸地方に揚げひろめた ◯堅忍自重 こころざしを堅く持ち何物をも堪へしのんで事を行ひ、愼重しんちょうな態度でまん一にも失敗のないやうにする ◯信倚ニ對ヘムコト 信賴しんらいを裏切らないやうに努力すること。

〔註一〕自衞 當時とうじ支那し な兵は、日本軍の戰意せんい挑撥ちょうはつすべく、猛然もうぜん、進軍しきたつたので、日本の巡察じゅんさつ兵は、この事を虎石臺こせきだい駐屯ちゅうとんしてゐる獨立どくりつ守備歩兵隊に告げた。それと知ると、川島かわしま隊長は、夜間演習をやめ、全隊を率ゐて、支那し な兵に立ち向ひ、急射擊きゅうしゃげきをした。そのめ、支那し な兵は狼狽ろうばいし、先をあらそつて、北大營ほくたいえい西南側から兵營へいえいに逃げ込んだ、日本軍は應援隊おうえんたいきたるに及び、いきおい更に加はり、完全に北大營ほくたいえいの敵を追ひのけて、十九日未明之を占領したのである。これより先、支那し な側は、事毎ことごとに日本に向つて惡意あくいを表し、アグレマン問題では小幡おばた酉吉とりきち氏の駐支ちゅうし公使こうしたるを拒み、また萬寳山まんぽうざん附近ふきん長春の北方六里の地)に住む二百朝鮮人を虐待し、その上、昭和六年六月、日本の中村大尉たいい蒙古もうこ旅行中、支那し な兵のため虐殺された事などが起つたのである。

〔註二〕寡克ク衆ヲ制シ 事變じへん當時とうじ、日本の駐滿ちゅうまん部隊は、駐剳ちゅうさつ師團しだん約五千四百人、獨立どくりつ守備大隊だいたい、六大隊だいたい約五千人、合せて一まん四百人に過ぎなかつた。これだけの軍勢で、千百キロ(東京から下關に至るまでの長い間)の防備にあたつたのであつて、これを以て、二十二まんもある張學良ちょうがくりょうの兵を向ふにまわして、たたかひを始めたのであつた。しかを以て、多數たすうの敵を制し、連勝した。今、これを表にすると左の如くなる。

九月十九日 奉天ほうてん占據せんきょ/同二十日 寬城子かんじょうし占據/同二十一日 吉林きちりん進出/十一月四・五・六日 嫩江戰のんこうせん/同十八日 大興戰たいこうせん/十一月十九日 チチハルせん/一月一日(昭和七年) 溝帮子こうばんつせん/同三日 錦州きんしゅう入城にゅうじょう/同五日 ハルピン入城にゅうじょう

 以上のうち、日本軍が、チチハル入城にゅうじょうした時、北滿ほくまんの軍事行動は大體だいたい、一段落を告げたのである。當時とうじ關東軍かんとうぐん司令官は陸軍中將ちゅうじょう本庄ほんしょうしげる氏だつた。

【大意謹述】先般せんぱん滿洲まんしゅうに於いて突然、事變じへんが持ちあがつた時、我軍の地位を守る上からむなく、必要につれてつた關東軍かんとうぐん將校しょうこう及び兵卒へいそつは、斷乎だんこたる決意のもとかみの如き迅速じんそくさを以て、少數しょうすうの味方でよく多數たすうの敵を制御し、短時間にそれらを容易に討ち亡ぼしたのは感賞かんしょうすべきである。その後なんじらはあらゆる艱難かんなん辛苦しんくを物ともせず、非常な寒氣かんきを堪へ忍んで、各地にむらがり起つた匪賊ひぞくを一掃し、治安保持の大任たいにんまっとうした上、る時は嫩江のんこう齊々哈爾ち ち は るといつた地方に、又は遼西りょうせい錦州きんしゅう方面に、雪や氷の眞只中まっただなかを進軍していさましく力のあらん限りたたかひ、かくして、災害のもととなる敵をはらきよめ、我が軍の武名ぶめいを內外に揚げることが出來た。ちん關東軍かんとうぐん將校しょうこう兵卒へいそつ忠義ちゅうぎに厚く、勇敢な行動に就いて深く滿足まんぞくする。汝等なんじら將校しょうこう及び兵卒へいそつは、今後一層意志を堅くし、何物にも恐れず十分愼重しんちょうな態度で事にあたり、東洋平和の基礎を申し分のない程度に立て、朕の信賴しんらいむくいるやう覺悟かくごしなければならない。

【備考】満洲まんしゅう事變じへんは、比較的、最近の事にぞくし、人々の印象にまだ新しいと思ふ。満洲まんしゅうが日本の生命線であることは、日淸にっしん日露にちろかんする詔勅ごしょうちょく及び國際こくさい聯盟れんめい脫退だったい詔書ごしょうしょ謹述きんじゅつしたところで、ぼ述べて置いた。それにより満洲まんしゅう問題の認識を深めらるる事と思ふ。要するに、國防上こくぼうじょうからも、經濟けいざい存立上そんりつじょうからも、滿洲まんしゅうは日本の生命線で、そこから退却することは日本の滅亡を意味する。ところが、大正十一年春のワシントン會議かいぎでは、當時とうじ全權ぜんけん幣原しではらだんが、滿蒙まんもうに於ける日本の優先けん、特殊地位を外交上の主義の上から抛棄ほうきする旨を聲明せいめいして、物議ぶつぎを起した事さへあつた。これが缺陥けっかんを補つたのは、昭和三年五月に於ける田中內閣の聲明せいめいだつた。

  抑々そもそも満洲まんしゅうの治安維持は帝國ていこくの重視する所にして、いやしくも同地方の治安をみだし、もしくは之をみだすの原因をなすが如き事態の發生はっせいは、帝國政府の極力阻止せむとする所なるがゆえに、戰亂せんらん京津けいしん地方に進展し、禍亂からん滿洲まんしゅうに及ばむとする場合には、帝國政府としては、滿洲まんしゅう治安維持のため適當てきとうにしてかつ有效ゆうこうなる措置を執らざるを得ざることあるべし。(下略)

 ここに至つて、日本は、積極的態度を満洲まんしゅう問題の上に明かにしたのである。ところが、支那し な側は、日本が満洲まんしゅう繁榮はんえい實現じつげんするについて、また文化施設の上において、最大の功勞こうろうあるにかかわらず、之を無視せんとし、度々、敵對てきたい意思を示した上、到頭とうとう滿鐵まんてつ沿線の爆破を企てた。それは、關東軍かんとうぐん默過もっかし得ぬ所であつため、むなく、兵火へいかの上で相見あいまみゆるに至つたのである。思ふに以上の事變じへんは、久しく弛緩しかんした日本精神せいしん興起こうきせしめ、日本精神せいしんの目ざめによる自主外交の確立を促した。更に満洲まんしゅう帝制ていせいいた今日、日本との友好關係かんけいが深められ、日本の世界的雄飛ゆうひについての自覺じかくが一段、加はりきたるべきはふをたぬ。