63-5 韓國併合ニ付キ下シ給ヘル詔書 明治天皇(第百二十二代)

韓國かんこく併合へいごうくだたまヘル詔書しょうしょ(第五段)(明治四十三年八月二十九日 官報

【謹譯】ちんとく朝鮮ちょうせん總督そうとくキ、これヲシテちんめいケテ陸海軍りくかいぐん統率とうそつシ、諸般しょはん政治せいじ總轄そうかつセシム。百官びかん有司ゆうしちんたいシテことしたがヒ、施設しせつ緩急かんきゅうよろシキヲもっテ、衆庶しゅうしょヲシテなが治平ちへいけいラシムルコトヲセヨ。

【字句謹解】◯朝鮮總督 朝鮮に在任する最高政務官しょう、その職權しょっけん詔書ほんしょうしょに明らかである、その最初の總督そうとく寺內てらうち正毅まさたけであつた。〔註一〕參照 ◯統率 軍を支配する意 ◯總轄 各方面を取締る ◯施設 政治上の諸設備の意 ◯緩急其ノ宜シキヲ得 急に致す必要あるものと徐々にしても差支ないものとの區別くべつをよく研究して行ひ、誤りのないやうにすること ◯衆庶 一般國民の意 ◯治平ノ慶 太平の恩澤おんたく

〔註一〕朝鮮總督 寺內てらうち正毅まさたけは山口藩士はんしで、嘉永かえい五年の出生しゅっしょうである。明治四年、陸軍少尉しょういとなり、西南せいなんえき出征しゅっせいして、右手に負傷し、不自由となつたが、その天資てんしゆたかなところから、退役せず、爾來じらい累進るいしんして、明治三十九年、陸軍大將たいしょうとなつた。これより先、三十五年、かつら內閣ないかくの時に、陸相りくしょうとなり、爾後じ ご、十年間、その職にゐた。四十年、子爵ししゃくを授けられ、次いで朝鮮總督そうとくに就任、日韓にっかん合邦ごうほうこうにより、伯爵はくしゃくのぼつた。大正五年、元帥げんすいに列し、同年十月、寺內內閣を組織、七年九月總辭職そうじしょくし、翌八年卒去そっきょとし六十八。

【大意謹述】ちんは特に今囘こんかい朝鮮總督そうとくを置いて、朕の命令下に陸海軍を支配し、一般の政治にかんする事務を取締らせることにした。朝鮮に於ける各文武官ぶんぶかんは、この際十分に朕の意を了解して統治にしたがひ、政治上の諸設備中、急を要するものといなとの區別くべつを誤らず、朝鮮の一般民衆に永久に平和の恩澤おんたくあたへるやうに望まなければならない。

【備考】寺內てらうち總督そうとくの就任後、間もなく德富とくとみ蘇峰そほう氏は、朝鮮に遊び、『朝鮮統治の要義』と題する一論文をおおやけにした。それにおいて、「朝鮮の統治は振古しんこ未曾有み ぞ う盛事せいじなりしかして未曾有み ぞ う新試驗しんしけんなり。我が日本國民たるものは、の問題にたいし、最も眞面目ま じ めに、最も忠實ちゅうじつに、かつ最も精嚴せいげん周到しゅうとう商量しょうりょうするを要す。何となれば、帝國ていこくの世界に於ける威信いしんかかつてここそんすればなり。帝國の極東きょくとうに於ける勢力消長しょうちょうかかりてここそんすればなりしかして我が大和やまと民族みんぞくはたして膨脹ぼうちょうし、整調せいちょうし、あらたに新領土をまもるのみならず、これ善化ぜんかするの能力の有無を實地じっち證明しょうめいするは、もっぱここそんすればなり」といひ、更に「いやしくも統治の目的を達せんと欲せば、(第一)朝鮮人をして、統治のむべからざるを觀念かんねんせしむるにあり。(第二)統治を以て、自己に利益りえきありと思惟し いせしむるにあり。(第三)統治に滿足まんぞくし統治に悦服えっぷくし、統治をたのしましむるにあり」と述べた。要するに、公明こうめい中正ちゅうせいの日本精神せいしんを基本として、一切を日本化することが、統治の根本となるべきである。明治天皇思召おぼしめしはいするものは、一方にへんしない日本精神せいしんを以て、朝鮮人のすべてを包容ほうようし、彼等をして、日本精神せいしんの偉大さに同化せしむることを要する。