59 日本海海戰大捷ニ付キ東郷平八郞ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

日本海にほんかい海戰かいせん大捷たいしょう東郷とうごう平八郞へいはちろうくだたまヘル勅語ちょくご(明治三十八年五月三十日 詔勅及令旨集)

【謹譯】聯合れんごう艦隊かんたい敵艦隊てきかんたい朝鮮ちょうせん海峡かいきょう邀撃ようげきシ、奮戰ふんせん數日すうじつついこれ殲滅せんめつシテ空前くうぜん偉功いこうそうシタリ。ちん汝等なんじら忠烈ちゅうれつリ、祖宗そそう神靈しんれいこたフルヲルヲよろこフ。おもフニ前途ぜんとなお遼遠りょうえんナリ。汝等なんじらいよい奮勵ふんれいシテもっ戰果せんかまっとウセヨ。

【字句謹解】◯聯合艦隊 日本海海戰かいせん當時とうじに於ける我が聯合れんごう艦隊かんたい偉容いように就いては〔註一〕參照 ◯敵艦隊 所謂いわゆるバルチツク艦隊のこと。〔註二〕參照 ◯邀撃 敵を待ち受けて攻擊こうげきする ◯奮戰數日 明治三十八年五月二十七八の兩日りょうじつ大海戰だいかいせんの意 ◯殲滅 全部をめっす。〔註三〕參照 ◯空前ノ偉功 未だ前例のない程の偉大な功績 ◯祖宗ノ神靈ニ對フルヲ得ル 祖宗そそう御代々ごだいだい天皇を指したてまつる、神靈しんれいはその御靈みたま護國ごこくのために現在各所に鎭座ちんざましますこと。つまり御代々ごだいだい天皇御靈みたまたいたてまつつてはずかしくないことをしみじみとよろこばれる意 ◯懌フ しみじみと心に感じてうれしく思ふこと ◯前途ハ尙遼遠ナリ 未だ結末に至るまでには遠い道を歩き、種々しゅじゅの困難に出逢はなければならない意、遼遠りょうえんははるかに遠いこと。〔註四〕參照 ◯戰果ヲ全ウセヨ 戰爭せんそうの結果を我が目的と一致させなければいけないとのことで、東洋の平和その我が主張が貫徹される形勢を生み出すまで、ロシヤをこらすやうにとの御意ぎょい

〔註一〕聯合艦隊 日本海海戰かいせん當時とうじの我が海軍の編制は次の如くであつた。

第一艦隊 司令長官 東郷とうごう平八郞へいはちろう/第一戰隊 司令官 三須み す宗太郞そうたろう/戰艦三笠みかさ敷島しきしま富士ふ じ朝日あさひ装甲巡洋艦春日かすが日進にっしん通報艦龍田たつた 第三戰隊/司令官 出羽で わ重遠しげとお巡洋艦笠置かさぎ千歳ちとせ新高にいたか音羽おとわ ◎第二艦隊 司令長官 上村かみむら彥之丞ひこのじょう/第二戰隊 司令官 島村しまむら速雄はやお/裝甲巡洋艦出雲いづも吾妻あづま淺間あさま八雲やぐも常磐ときわ磐手いわて通報艦千早ちはや 第四戰隊/司令官 瓜生うりゅう外吉そときち巡洋艦浪速なにわ高千穗たかちほ對馬つしま明石あかし ◎第三艦隊 司令長官 片岡かたおか七郞しちろう/第五戰隊 司令官 武富たけとみ邦鼎くにのぶ巡洋艦嚴島いつくしま松島まつしま橋立はしだて、裝甲海防艦鎭遠ちんえん通報艦八重山やえやま/第六戰隊 司令官 東郷とうごう正路まさみち巡洋艦須磨す ま和泉いづみ千代田ち よ だ秋津洲あきつしま/第七戰隊 司令官 山田やまだ彥八ひこはち/裝甲海防艦扶桑ふそう、砲艦高雄たかお筑紫つくし鳥海ちょうかい摩耶ま や宇治う じ/その他第一・第二・第三・第四・第五驅逐隊くちくたいの二十一隻、第一・第九・第十・第十一・第十四・第十五・第十六・第十八・第十九・第二十艇隊ていたいぞくする水雷艇すいらいてい四十一隻及び特務艦とくむかん八隻であつた。

〔註二〕敵艦隊 日本海海戰かいせん當時とうじロシヤのバルチツク艦隊の編制は左の如くであつた。

第一戰艦隊 司令長官 ロジエストウエンスキイ/戰艦「クニヤアジ・スウオウロフ」・「イムベラアトル・アレクサンドル三世」・「ボロヂノ」・「アリヨオル」◎第二戰艦隊 司令官 フエリケルザム/戰艦「オスラアビヤ」・「シソイ・ウエリイキイ」・「ナワリン」、裝甲巡洋艦「アドミラル・ナヒイモフ」◎第三戰艦隊 司令官 ネボカトフ/戰艦「イムベラアトル・ニコライ」、裝甲海防艦「ゲネラル・アドミラル・アブラクシン」・「アドミラル・セニヤアウヰン」・「アドミラル・ウシヤアコフ」◎第一巡洋艦 巡洋艦「オレエグ」・「アウロオラ」、裝甲巡洋艦「ドミトリイ・ドンスコイ」・「ウラジミイル・モノマアフ」◎第二巡洋艦 巡洋艦「スウエトラアナ」・「アルマアズ」・「ジエムチウグ」・「イズムルウド」/その他第一・第二驅逐隊くちくたい合計九隻、特務とくむ艦船かんせんが九隻だつた。

〔註三〕殲滅 日本海海戰かいせんの結果、ロシアのバルチツク艦隊は左の如き狀態じょうたいていした。

◯我が艦隊に撃沈げきちんさせられたもの、戰艦「クニヤアジ・スウオウロフ」・「イムベラアトル・アレクサンドル三世」・「ボロヂノ」・「オスラアビヤ」「シソイ・ウエリイキイ」・「ナワリン」、裝甲巡洋艦「アドミラル・ナヒイモフ」・「ウラジミイル・モノマアフ」、裝甲海防艦「アドミラル・ウシヤアコフ」、巡洋艦「スウエトラアナ」、驅逐艦「ブイスツルイ」・「グロオムキイ」・「ベヅウブリヨオチヌイ」、特務艦「ウラアル」・「ルス」・「カムチヤアツカ」 ◯我が艦隊に撃破げきはされて自沈じちんしたもの、巡洋艦「ドミトリイ・ドンスコイ」、驅逐艦「ブレスチヤアシチイ」・「ブイヌイ」、特務艦「イルツイシ」 ◯坐礁ざしょう自沈じちんしたもの、巡洋艦「イズムルウド」 ◯我が艦隊に捕獲されたもの、戰艦「イムベラアトル・ニコライ一世」・「アリヨオル」、裝甲海防艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」「アドミラル・セニヤアウヰン」、驅逐艦「ベドウイ」、病院船「アリヨオル」 ◯中立國の港灣こうわん逃入とうにゅうし、抑留よくりゅう處分しょぶんを受けたもの、巡洋艦「オレエグ」・「アウロオラ」・「ジエムチウグ」、驅逐艦「ボオドルイ」、特務船「コレエヤ」・「スウヰイリ」 ◯自國港灣こうわん到著とうちゃく又は歸航きこうしたもの、巡洋艦「アルマアズ」、驅逐艦「ブラアウイ」・「グロウズヌイ」、特務艦「アナヅイリ」、病院船「カストロオマ」

〔註四〕前途ハ尙遼遠ナリ さき旅順りょじゅん開城かいじょうあり、三月十日に陸軍の奉天ほうてん大勝あり、今又日本海海戰かいせん大勝の結果、彼我ひ がの形勢は全く明らかなものがあつた。それにもかかわらず、ここに「前途ぜんとなお遼遠りょうえん」のみことのりがある。まさ戰勝せんしょうの報にふ國民及び軍人への頂門ちょうもんの一しんとして拜察はいさつするだに恐れ多い。

〔注意〕本勅ほんちょくたいして東郷とうごう聯合れんごう艦隊かんたい司令長官のたてまつつた奉答文ほうとうぶんは左の如くであつた。

日本海戰捷せんしょうたいし、特に優渥ゆうあくなる勅語ちょくごたまはり、臣等しんら感謝の至りに堪えず。海戰かいせん豫期よ き以上の成果を見るに至りたるは、一に陛下御稜威み い づの普及及び歷代れきだい神靈しんれい加護か ごるものにして、もとより人爲じんいくすべき所にあらず。臣等しんら益々ますます奮勵ふんれいして犬馬けんばろうつくし、以て皇謨こうぼ翼成よくせいせんことをす」

なほ、日露にちろ戰役せんえき中に下し給うた海軍にかんする詔勅しょうちょくを左に列擧れっきょする。

(一)第二艦隊司令瓜生うりゅう外吉そときちニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年二月十日、官報)(二)聯合艦隊司令長官東郷とうごう平八郞へいはちろうニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年二月十二日、詔勅及令旨集)(三)第四驅逐隊司令長井ながい群吉ぐんきちニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年二月二十日、官報)(四)東郷平八郞ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年二月二十八日、官報)(五)東郷平八郞ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年三月十三日、官報)(六)東郷平八郞ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年三月二十九日、官報)(七)東郷平八郞ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年四月十七日)(八)東郷平八郞ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年五月七日、官報)(九)東郷平八郞ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年六月二十六日、官報)(十)東郷平八郞ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年八月十二日)(十一)第二艦隊司令長官上村かみむら彥之丞ひこのじょうニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年八月十五日、官報)(十二)第二艦隊司令長官上村彥之丞ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年八月二十二日、官報)(十三)東郷平八郞ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年十二月二十三日、官報)(十四)帝國海軍ニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年五月三十日、詔勅及令旨集)(十五)日本海海戰大捷たいしょうニ付キ東郷平八郞ニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年五月三十日、詔勅及令旨集)(十六)北遣ほっけん隊司令長官片岡かたおか七郞しちろうニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年七月二十九日、官報

【大意謹述】ちん聯合れんごう艦隊かんたいは、敵のバルチツク艦隊を朝鮮海峡むかち、數日間すうじつかん奮戰ふんせんした結果、遂にそれを全滅させ、未だかつて例を見ない程の大勝を得た。朕は汝等なんじら忠義ちゅうぎに厚く勇敢な行動につて、御代々ごだいだい天皇の我が國を守護され給ふ御靈みたまかおけが出來ることをしみじみとよろこんでゐる。ただ戰爭せんそうは未だしずまらず、今後解決までには多くの時を費さなければなるまい。汝等は一層勇氣をふるつてたたかひ、戰爭せんそうの結果を完全なものにしてほしい。

【備考】日本海大海戰だいかいせん今日こんにち、これを追想ついそうしてつ、熱血の沸騰するをおぼえる。敵の海軍に於て勇强ゆうきょう第一といはれたバルチツク艦隊は、五月二十七日(明治三十八年)對馬つしま海峡に現はれ、ひた押しに押しよせて來たのである。戰艦せんかん八隻・巡洋艦じゅんようかん九隻・海防艦かいぼうかん三隻・驅逐艦くちくかん九隻・假裝かそう巡洋艦じゅんようかん一隻・特務艦とくむかん六隻・病院船二隻べて三十八隻がウラジオストツクに入らうとして大波を蹴りながら堂々と航進をつづけた。これに勝つかいなかは、じつに日本の存亡そんぼうを決すべき重大事で、呼吸い きづまるやうな舞臺ぶたいが展開されたのである。時に二十七日午前五時、敵の艦影かんえいを認めて出動した我が聯合れんごう艦隊かんたいは、東郷とうごう司令長官に率ゐられ、同日午後二時おきしま附近ふきんで、敵艦の左翼さよくれつ先頭にぶつかり、ここに空前の大海戰だいかいせんが開かれた。

皇國こうこく興廢こうはい、この一せんにあり。各員かくいん一層奮勵ふんれい努力どりょくせよ!」

 それは、この際、沈毅ちんき、物に動じない司令長官が全艦へ表示した信號しんごうである。かうして、わが艦隊の將卒しょうそつは、東洋平和をおびやかす敵をこな微塵みじんにしなければやまぬといふ決心のもと火蓋ひぶたを切つた。それ以來いらい翌二十八日の午後に至る迄、猛鬪もうとうつづけ、ほとんどバルチツク艦隊を全滅せしめたのである。のみならず、敵の司令長官ロジエストウエンスキイをはじめ、捕虜ほりょ六千に上つた。しか聯合れんごう艦隊が受けた損害は、比較的に輕微けいびで、ただ水雷艇すいらいてい三隻を失ひ、戰死せんし百十めい、負傷五百三十めいにすぎなかつた。この大勝報だいしょうほうに接した日本國民はロシヤの横暴おうぼういきどおつてゐるだけに、はじめて三溜飮りゅういんを下げた痛快さをあじわつたのである。ここに至つて、日本は、ロシヤの羽翼うよくをもぎ取つたと同樣どうよう好果こうかを得た。最早もはや、日本では、「ロシヤおそるるに足らず」といふ見極めがいたのだ。當時とうじ東郷とうごうが、イギリスのネルソンよりも遙かに偉大だといはれたのは、當然とうぜんである。この際、明治天皇が勝利をみせらるると同時に「勝つてかぶとをしめよ」といふ御敎訓ごきょうくんをなされたのは、自彊じきょうまない日本精神せいしんを更に高揚こうようせよとはげまされたものと拜察はいさつする。

 ここに一げんつけくわへたい佳話か わがある。それは、明治天皇絕對ぜったい東郷とうごう司令長官を信任しんにんせられたことで、東郷とうごう旅順りょじゅんで優勝したとき、新來しんらいのバルチツク艦隊を邀撃ようげきする準備のため、三十七年十二月、一おう歸朝きちょう大本營だいほんえい伺候しこうして、戰況せんきょう奏上そうじょうに及んだ。その際、東郷とうごうは、優渥ゆうあく御諚ごじょうに接し、御陪食ごばいしょく光榮こうえいになつたが、席上バルチツク艦隊のことが話題にのぼると、誰かうちの一人が、「東郷とうごう大將たいしょうは、もう旅順りょじゅん大功たいこうてたから、この次ぎの新來しんらいの敵にたいしては別な人物をしてあたらせたがよからう」といひ、これに賛成したものもあつた。ところが、この事が叡聞えいぶんに達すると、陛下は「東郷とうごうへてはあいらん」とおおせられ、饗宴きょうえんんでからも、山本海相かいしょうして、再び東郷とうごうをしてバルチツク艦隊を邀撃ようげきせしめよとの御諚ごじょうが下つた。

 それから間もなく、東郷とうごう御暇乞おいとまごい伺候しこうすると、戰略上せんりゃくじょうつき御下問ごかもんがあつたので、東郷とうごうつつしんで「恐れながら必ずバルチツク艦隊を全滅させる決心でをりますれば、何卒なにとぞ御心みこころにかけさせられぬやう」と決然たる面持おももちをして奉答ほうとうした。その時、龍顏りゅうがんうるわしく輝いた。その後、日本海海戰かいせんの大勝が陛下のもとに奏上そうじょうされると、陛下はほがらかに微笑せられ、「さうか、東郷とうごうが申してゐた通りによくいつたのう」と御詞おことばたまわつたとつたへられる。當時とうじ陛下は御製ぎょせい凱旋がいせん觀艦式かんかんしきに臨みて」と題せられて、かうませられてゐる。

   いさましくかちときあけておきなみ

       かへりしふねるそうれしき