58 奉天占領ノ時大山巖ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

奉天ほうてん占領せんりょうとき大山おおやまいわおくだたまヘル勅語ちょくご(明治三十八年三月十三日 官報

【謹譯】奉天ほうてん客秋かくしゅう以來いらい敵軍てきぐんここ鞏固きょうこナル防禦ぼうぎょ工事こうじもうケ、優勢ゆうせいへいそな必勝ひっしょうシ、こうあらそハントセシところナリ。滿洲軍まんしゅうぐん機先きせんせいシ、驀然ばくぜん功進こうしん冱寒ごかん氷雪ひょうせつちゅう力戰りきせん健鬪けんとう晝夜ちゅうやつらネ、つい頑强がんきょう死守ししゅてき撃破げきはシ、數萬すうまん將卒しょうそつとりこニシ、多大ただい損害そんがいあたヘ、これ鐵嶺てつれい方向ほうこう驅逐くちくシ、嚝古こうこ大捷たいしょうはくシ、帝國ていこく威武い ぶ中外ちゅうがい發揚はつようセリ。ちんふかなんじ將卒しょうそつ堅忍けんにん持久じきゅう絕大ぜつだい勳功くんこうそうシタルヲよみス。益々ますます奮勵ふんれいセヨ。

【字句謹解】◯客秋 昨年の秋、すなわち明治三十七年の秋のこと ◯鞏固 非常に强く固い意 ◯防禦工事 日本軍をひ止めるための各種の設備 ◯必勝ヲ期シ 必ず打ち負さなければならないと決心する ◯衡ヲ爭フ かちあらそふ、こうは物の輕重けいちょうをはかるもので、いずれが重いかを決定すること ◯機先ヲ制シ 敵の想像外に早く事をはこぶ意 ◯驀然 非常に早い形容 ◯功進 突撃とつげきして進む ◯冱寒 大寒たいかん滿洲まんしゅうの三月初旬は未だ氣溫きおんすこぶる低く、我が軍の活動は二月中旬から始つてゐたから一層兵卒へいそつには苦しかつたわけである ◯力戰 力の限りをつくしてたたかふ ◯健鬪 よく身の元氣げんきをつくしてたたかふ ◯十餘晝夜ヲ連ネ 奉天ほうてんの占領は三月十日であるから二月十九日に最初に奉天ほうてんを目的として活動した時から約二十日をてゐる ◯頑强死守ノ敵 强情ごうじょうで死を以て奉天ほうてんを守る敵軍 ◯多大ノ損害ヲ與ヘ この時のロシヤの損害は大砲たいほう約一百もん、死者二まん六千だとつたへられてゐる ◯驅逐シ 追ひはらふ。〔註一〕參照 ◯嚝古ノ大捷 歷史れきし始まつて以來の大勝利 ◯堅忍持久 長い間の苦しさをたへしのぶこと ◯絕大ノ勳功 これ以上はない大手柄おおてがら。〔註二〕參照

〔註一〕驅逐シ 當時とうじ日本軍に少くとも今一師團しだんだけの兵力があれば、敵を鐵嶺てつれい方面ににがすことはなかつたといはれてゐる。

〔註二〕絕大ノ勳功 軍神ぐんしん乃木の ぎの名を輝かした旅順りょじゅん開城かいじょう後は、我が陸軍の目的は奉天ほうてんの一大決戰けっせんにあつた。附近ふきんの敵をほふりながら著々ちゃくちゃく計畫けいかくを進め、野津の づ大將たいしょうの率ゐる第四軍を中央に、おく大將たいしょうの率ゐる第二軍を左翼に、黑木くろき大將たいしょうの率ゐる第一軍を右翼に、川村かわむら大將たいしょう鴨綠江軍おうりょくこうぐん乃木の ぎ大將たいしょうの第三軍をさい左右さ うよくとして、ここに我が全陸軍及び聯合れんごう軍隊が元帥げんすい大山おおやまいわおの指揮のもとに、あるいは二月十九日から、又は二月二十六日から進撃しんげきを開始し、遂に三月十日に至つて完全な我が軍の勝利のもとに幕を閉ぢた。

〔注意〕日露にちろ戰後せんご論功ろんこうかんするみことのりには次の各種がある。

(一)旅順口りょじゅんこう司令長官柴山しばやま矢八やはちニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年十月十九日、官報)(二)聯合れんごう艦隊かんたい凱旋がいせんノ際東郷とうごう平八郞へいはちろうニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年十月二十二日、官報)(三)滿洲軍まんしゅうぐんそう司令官大山おおやまいわおニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年十一月八日、官報)(四)滿洲軍まんしゅうぐん凱旋がいせんノ際大山巖ニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年十二月七日、官報)(五)第一軍凱旋ノ際黑木くろき爲楨ためもとニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年十二月九日、官報)(六)大本營だいほんえい解散ノ際山縣やまがた有朋ありとも山本やまもと權兵衞ごんべえ寺內てらうち正毅まさたけ伊東いとう祐亨ゆうこうニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年十二月二十日、官報)(七)第二軍凱旋ノ際奥保鞏おくやすかたニ下シ給ヘル勅語(明治三十九年一月十二日、官報)(八)第三軍凱旋ノ際乃木の ぎ希典まれすけニ下シ給ヘル勅語(明治三十九年一月十二日、官報)(九)第四軍凱旋ノ際野津の づ道貫みちつらニ下シ給ヘル勅語(明治三十九年一月十七日、官報)(十)鴨綠江軍おうりょくこうぐん凱旋ノ際川村かわむら景明かげあきニ下シ給ヘル勅語(明治三十九年一月二十日、官報)(十一)日本赤十字社ニ下シ給ヘル勅語(明治三十九年二月十六日、官報)(十二)凱旋軍がいせんぐん觀兵式かんぺいしきニ下シ給ヘル勅語(明治三十九年四月三十日)(十三)帝國軍人援護會えんごかいニ下シ給ヘル勅語(明治三十九年六月七日、官報)(十四)大谷おおたに光瑞こうずいニ下シ給ヘル勅語(明治四十年五月十三日、官報

【大意謹述】奉天ほうてんは昨年の秋以來、敵軍がかたく確かな用意によつて諸設備をなし、勇敢な兵を集め、必ず日本軍に勝つて見せると覺悟かくごして、我が軍と最後の一せんにおいて雌雄しゆうを決しようとしたところである。この際、滿洲まんしゅうに於ける皇軍こうぐんは全力をここに集中し、敵の未だ想像もしない間に非常に速かに進軍して攻擊こうげきを始め、極寒ごっかん氣候中きこうちゅうで、氷雪ひょうせつの間に十數日すうにち力の限り奮鬪ふんとうし、遂に頑張る敵軍を見事ち破つた。つ敵方の將校しょうこう兵卒へいそつ數萬すうまん捕虜ほりょにして、すこぶる多くの損害をあたへ、敵を鐵嶺てつれい方面に追ひしりぞけたのである。それは歷史上れきしじょう未だかつて例のない大勝利で、我が帝國の光榮こうえい武勇ぶゆうとをひろく世界にあげることが出來た。

 ちん爾等なんじら將校しょうこう兵卒へいそつ言語げんごぜっした苦勞くろうをよく忍び、長い間それに打ちつて、この上もない大功たいこうをあげたのを深く滿足まんぞくに思ふ。この上、一層勇氣ゆうきを出し、職務に忠實ちゅうじつならんことを望む。

【備考】奉天ほうてんせんは、史上れに見るところの大戰たいせんで、日露にちろ兩國りょうこくの兵を合すると、八十五まんに達し、戰線せんせんの延長、四十に及んだと言はれる。時は、まさ満洲まんしゅうに於て、寒さの身にみる頃だつたから、敵のほかに氷雪ひょうせつたたかひ、烈風れっぷうともたたかはねばならなかつた。つ敵は總帥そうすいクロパトキンに率ゐられて、はげしく抵抗したから、皇軍こうぐん奮鬪ふんとう力戰りきせんを要するはいふ迄もなく、われ猛獅子もうししのやうないきおいで敵にぶつかつた。その結果は、連戰れんせん連勝れんしょうである。ロシヤ軍事當局とうきょくは、その陸軍の强味つよみを確信し、「ロシヤは海軍において日本のために破られたが、陸軍では、必ず勝つて見せる」とつてゐたけれども、その豪語ごうごも、皇軍こうぐんの前では全く無效むこうとなつた。そしてそう司令官クロパトキンをして辭職じしょくむなきに至らしめたのである。それは、皇軍こうぐんに於ける全將卒しょうそつ健鬪けんとう猛鬪もうとうにもよるが、これを統督とうとく、指揮した大山おおやま將軍しょうぐんに負ふところが最も多い。