57 第三軍司令官乃木希典及聯合艦隊司令長官東郷平八郞ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

だいぐん司令官しれいかん乃木の ぎ希典まれすけおよび聯合れんごう艦隊かんたい司令長官しれいちょうかん東郷とうごう平八郞へいはちろうくだたまヘル勅語ちょくご(明治三十八年一月六日 官報

【謹譯】旅順りょじゅん極東きょくとうケル水陸すいりく重鎭じゅうちんナリ。だいぐんおよ聯合れんごう艦隊かんたいハ、協同きょうどう戮力りくりょくひさシク寒暑かんしょおか苦難くなんしのキ、勇戰ゆうせん奮鬪ふんとう鐵壘てつるい奪取だっしゅ堅艦けんかん殲滅せんめつシ、てきヲシテついしろひらこうフニいたラシム。ちんふかなんじ將卒しょうそつ重任じゅうにんまっとウシ、偉大いだい功績こうせきそうシタルヲよみス。

【字句謹解】◯重鎭 重要な根據地こんきょちちん鎭臺ちんだい鎭守府ちんじゅふちんで兵の多くとんする場所をいふ ◯第三軍 所謂いわゆる乃木の ぎ軍として旅順りょじゅん攻擊こうげき不朽ふきゅうの名をのこした軍。〔註一〕參照 ◯聯合艦隊 我が海軍の第四戰隊せんたい全部の綜合そうごうされた名稱めいしょう。これも所謂いわゆる日本海海戰かいせん皇國こうこく興廢こうはいを賭けて大勝たいしょう、一躍全世界に勇名ゆうめいとどろかしたものである。〔註二〕參照 ◯協同戮力 同じ目的のもとに力を合せて努力する意 ◯寒暑ヲ冒シ 極寒ごっかん極暑ごくしょを何とも思はないでたたかふ ◯苦難ヲ凌キ あらゆる苦勞くろう艱難かんなんをおし切つて目的を達する意 ◯鐵壘ヲ奪取シ 鐵壘てつるいはクロパトキンの死守してゐた旅順りょじゅん要塞ようさいのこと、守備がすこぶ堅固けんご鐵條網てつじょうもうを張つた。るい小城しょうじょうの意 ◯堅艦ヲ殲滅シ 堅艦けんかんとはロシヤの東洋艦隊のこと。我が海軍はそれ以前に幾多の犠牲者を出して敵艦の大部分を旅順りょじゅん港內こうない閉塞へいそくしたが、この時陸軍とあいおうじてそれを全滅せしめ、ウラジオストツク支隊を除くロシヤの東洋艦隊はここに亡びた。殲滅せんめつは全部をめっすこと ◯城ヲ開キ 明治三十八年一月二日の旅順りょじゅん開城かいじょうの意 ◯重任ヲ全ウシ 重大な責任を完全にはたすこと。〔註三〕參照。

〔註一〕第三軍 當時とうじ陸軍は大體だいたい四軍に編制され、第一軍に於いては黑木くろき爲楨ためもと、第二軍ではおく保鞏やすかた、第三軍は乃木の ぎ希典まれすけ、第四軍は野津の づ道貫みちつらが各司令官となつた。そう司令官しれいかん元帥げんすい大山おおやまいわお總參謀長そうさんぼうちょう兒玉こだま源太郞げんたろうであつた。

〔註二〕聯合艦隊 日露にちろ宣戰せんせん布告ふこく直前の我が海軍の編次へんじは、第一艦隊は東郷とうごう平八郞へいはちろう、第二艦隊は上村かみむら彥之丞ひこのじょうが司令長官となり、第一艦隊は東郷とうごう中將ちゅうじょう直率ちょくそつの第一戰隊せんたい(三笠・朝日・初瀨・敷島・富士・八島)と出羽で わ少將しょうしょうの率ゐる第三戰隊せんたい(千歳・高砂・笠置・吉野)とに分かれ、第二艦隊は上村かみむら中將ちゅうじょう直率ちょくそつの第二戰隊せんたい(出雲・磐手・八雲・吾妻・淺間・常磐)と、瓜生うりゅう少將しょうしょうの率ゐる第四戰隊せんたい(浪速・高千穂・新高・對馬)とに分かれてゐた。

〔註三〕重任ヲ全ウシ 日露にちろ戰爭せんそうの重任にあたつた乃木の ぎ東郷とうごうのほかにづ陸軍總帥そうすい大山おおやまいわお閱歷えつれきから略叙りゃくじょし、諸將しょしょうに及びたい。大山は西郷さいごう南洲なんしゅう従弟いとこで、天保てんぽう十三年の出生しゅっしょうである。戊辰ぼしんえき從軍じゅうぐんして、こうて、後、歐洲おうしゅう留學りゅうがく歸朝後きちょうご、陸軍少將となつた。神風連じんぷうれんらん西南せいなんえき勇名ゆうめいを揚げ、明治十一年、陸軍中將に昇進、參謀さんぼう本部次長、陸軍卿りくぐんきょう等をて、明治十七年、伯爵はくしゃくを授かり、陸相りくしょう海相かいしょうを兼ねたこともある。二十二年陸軍大將たいしょうとなり、次いで樞密すうみつ顧問官こもんかんに任ぜられた。日淸にっしん戰爭せんそうが開かれると、第二軍司令官として出征しゅっせい役後えきご勳功くんこうにより、侯爵こうしゃくを授けられ、三十一年元帥げんすいとなつた。それから日露にちろ戰爭せんそう勃發ぼっぱつすると、滿洲軍まんしゅうぐん總司令官そうしれいかんとして、全軍を統督とうとくし、戰後せんご功勞こうろうによつて、こう一級、侯爵こうしゃくを授けられ、大正三年、內大臣ないだいじんに就任、同五年、七十五歳で歿ぼっした。その際、國葬こくそう光榮こうえいを得たのである。

 次ぎに總參謀長そうさんぼうちょうとして出征しゅっせいした兒玉こだま源太郞げんたろうは、きゅう德山とくやま藩士はんしで、西南せいなん戰爭せんそう及び日淸にっしんえきこうて、次第に昇進して、第三師團長しだんちょう臺灣たいわん總督そうとく陸軍大臣歷任れきにんした。れは一面、政治家としても立派な手腕を有し、未來みらいの首相を以てせられたほどである。明治三十九年、參謀總長さんぼうそうちょうに就任、同年七月卒去そっきょした。とし五十五。れは生前、子爵ししゃくであつたが、歿後ぼつご、その勳功くんこうにより嗣子し し秀雄ひでお伯爵はくしゃくを授けられた。

 第三軍司令官として出征しゅっせいした乃木の ぎ希典まれすけは山口けん長府ちょうふ藩士きゅうはんしで、とし十八の時、高杉たかすぎ晋作しんさく麾下き かぞくし、維新いしん後、陸軍に入つて少佐しょうさとなつた。西南せいなん戰爭せんそうの時には、小倉こくら聯隊長れんたいちょうとして奮戰ふんせん勇名ゆうめいせた。後、日淸にっしん戰役せんえきあたり、第一旅團長りょだんちょうとして出征しゅっせいし、こうを以て、陸軍中將ちゅうじょうに進み、男爵だんしゃくを授かつた。日露にちろ戰爭せんそうが起ると、第三軍司令官として目ざましい働きをしたのは人の知る所である。つて勳功くんこうにより、伯爵はくしゃくじょせられ、次いで學習院長がくしゅういんちょうとなつた。やがて明治天皇崩御ほうぎょの時、これにじゅんじ、夫人と共に自刄じじんして卒去そっきょとし六十四。

 第一艦隊司令長官として出征しゅっせいした東郷とうごう平八郞へいはちろうは、薩州さっしゅう出身で、明治初年、イギリスに留學りゅうがくして、海軍敎訓きょうくんを受け、爾來じらい、艦上生活に習熟、日淸にっしん戰爭せんそうの時、浪速なにわ艦長として、高陞號こうしょうごう撃沈げきちんした一きょにより、その將器しょうきの非凡なることを知られた。大勇たいゆうにして、物に動ぜざるの沈著ちんちゃく戰機せんきいつせずして、よく敵に打勝つの大手腕は、れの長所である。日露にちろ戰爭せんそうに於て、大功たいこうてたことは、一般の周知するところ、現在、元帥げんすい伯爵はくしゃくとして、最も海軍に重きをすの人である。

 以上にたいし、ロシヤ側の陸軍そう司令官クロパトキンその他を略叙りゃくじょする。クロパトキンは露土ろ ど戰爭せんそう從軍じゅうぐんしてスコペレフ將軍しょうぐんのもとに參謀長さんぼうちょうとして働き、一八九八年、陸相りくしょうとなり、ロシヤ陸軍に於て最も重きをす一人である。

 旅順りょじゅんに於ける敵將てきしょうステツセルは、一八四八年、ペテルスブルグに生れた。露土ろ ど戰爭せんそう從軍じゅうぐんして後、陸軍少將しょうしょうとなり、一九〇〇年、北淸ほくしん事變じへんの際に活躍、中將ちゅうじょうのぼつた。日露にちろ戰爭せんそうには、旅順りょじゅん要塞ようさい司令官としてよくたたかひ、明治三十八年一月、いきおいきて降服した。後、歸國きこくしてから、軍法ぐんぽう會議かいぎせられ、禁錮きんこされた。明治四十二年釋放しゃくほうされたが、卒去そっきょ年月ねんげつは不明。

 敵艦隊司令マカロフは、戰術せんじゅつ理論家として名高い。れは一八四八年の出生しゅっしょうで、十五歳の時、海軍にり、露土ろ ど戰爭せんそうの際、水雷すいらい操縱そうじゅうして、おおいに敵をなやました。その後、累進るいしんして、中將ちゅうじょうとなり、地中海艦隊司令長官に就任、日淸にっしん戰爭せんそうの際は同艦隊を率ゐて、渤海ぼっかいわん出沒しゅつぼつし、佛獨ふつどくと提携して、日本を威嚇いかくしたのである。次いで、バルチツク艦隊司令長官となり、やがて、スタルク中將ちゅうじょうに代つて、旅順口りょじゅんこう防禦ぼうぎょの重任をになつたが、日本艦隊とたたかつて敗れ、海底に沈んで戰死せんししてしまつた。

 日露にちろ戰役せんえきは十年前の日淸にっしん戰役せんえき連續れんぞくとも言へ、規模に於いては比較にならない程だいであり、國民の祖國愛そこくあいは頂上に達した。當時とうじ多くの詔勅しょうちょく發布はっぷされたが、ここでは主として陸軍關係かんけいのもの、しか戰時せんじぞくする主要なものを列擧れっきょする。

(一)第一軍司令官黑木くろき爲楨ためもと・第三艦隊司令長官細谷ほそや資氏すけうじニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年五月二日)(二)第二軍司令官奥保鞏おくやすかたニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年五月二十九日、官報)(三)第二軍司令官奥保鞏ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年六月十七日、官報)(四)第十師團長川村かわむら景明かげあきニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年六月三十日、官報)(五)第二師團長西寛二郞にしかんじろうニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年七月十九日、官報)(六)第十二師團長井上いのうえひかるニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年七月二十三日)(七)奥保鞏ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年七月三十日、官報)(八)黑木爲楨ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年八月六日)(九)滿洲軍總司令官大山おおやまいわおニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年九月一日、官報)(十)遼陽りょうよう占領ノ際滿洲まんしゅう軍總司令官ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年九月六日、官報)(十一)大山巖ニ下シ給ヘル勅語(明治三十七年十月十六日、官報)(十二)第三軍司令官乃木の ぎ希典まれすけ及ヒ聯合れんごう隊司令長官東郷とうごう平八郞へいはちろうニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年一月六日)(十三)大山巖ニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年一月三十日、官報)(十四)奉天ほうてん包圍ほういノ時大山巖ニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年三月八日、官報)(十五)奉天ほうてん占領ノ時大山巖ニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年三月十三日、官報)(十六)川村景明ニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年三月十三日、官報)(十七)原口はらぐち兼濟けんさいニ下シ給ヘル勅語(明治三十八年八月一日、官報

 更に三十七年十一月三十日に於ける二〇三高地こうち戰勝せんしょう・占領が古今ここん未曾有み ぞ う肉彈戰にくだんせんであつたことは、乃木の ぎ將軍の有名な一ぜつ

   爾靈山にれいさんけんあにかたからんや、

   男子だんし功名こうみょうかたきたんことをす、

   鐵血てっけつやまおおうて山形さんけいあらたまり、

   萬人ばんじんひとしくあお爾靈山にれいさん

が、決して文學的ぶんがくてきの形容でないと言はれるのでも判明し、同時に海軍にとつても旅順りょじゅん作戰上さくせんじょう重要であり、陷落かんらくつて一歩計畫けいかくを進めることが出來たのは、次にげる東郷とうごう司令長官の凱旋がいせん奉告ほうとう中の一節で察することが出來る。

おもふに作戰さくせんは、戰勢せんせいの自然に伴ひて漸次ぜんじ微功びこうを積み、攻戰こうせん箇月かげつわたり我が將卒しょうそつ心力しんりょく傾注けいちゅう智勇ちゆう發揮はっきしたること、ほん戰役せんえき中に冠絕かんぜつし、忠死ちゅうし殉難じゅんなんかんまたすくなからざりしといえども、戰局せんきょく大勢たいせいここに始めてさだまり、爾後じ ご日本海に於ける決勝の機運も、かん萌芽ほうがしたるをおぼゆ」云々うんぬん

【大意謹述】旅順りょじゅん極東きょくとう方面に於いて、ロシヤが最も手賴た よりにする陸海軍兩方りょうほうの重要な根據地こんきょちである。我が第三軍及び聯合れんごう艦隊はこれを占領する同じ目的のもとに力を合せ、長い間の極寒ごっかん極暑ごくしょを物ともせず、言語にぜっした苦勞くろう艱難かんなんとをて、いさましくたたかひ、陸軍は、その鐵壁てっぺきを誇る要塞ようさい二〇三高地を奪ひ取り、海軍は敵の東洋艦隊の威力をめっし、遂に敵は城を開いて降服するのむなきに至つた。ちん爾等なんじら將校しょうこう兵卒へいそつが申し分なく重大な責任を果し、偉大な戰功せんこうを立てたことを滿足まんぞくに感ずる。

【備考】旅順りょじゅんに於ける要塞ようさい堅固けんごなことは世界第一だとはれた。これを攻め落すことは、却々なかなか、容易でない。が、剛勇ごうゆう無雙むそう性來せいらい氣短きみじかな乃木の ぎ將軍は、全力をあげて、三日間ほどで陷落かんらくさせたいと思ひ込んだのである。それゆえはじめは、部下に命じて、突撃とつげき强襲きょうしゅうを行つた。けれどもその位では、手答へがない。そこで戰術せんじゅつへ、今度は正攻法によつた。それは、坑道こうどうを掘つて、次第に敵壘てきるい肉迫にくはくし、爆烈藥ばくれつやくでそれを破りそのあとから歩兵を進めて、これを乘取のっとる仕組である。が、一呵成かせい的なキビキビしさを喜ぶれとして、それだけやすんじてをられぬ。そこで拔刀隊ばっとうたい白襷隊しらだすきたいなどを用ひて、成るべく早く陷落かんらくさせようと計つた。したがつてその犠牲もまた非常に大きかつたのである。きに南山なんざんたたかいれは、長男を失つた。又二百三高地こうちでは、次男を失つた。ある人が弔詞ちょうじを述べると、乃木の ぎいわく、「二は國家のために生命を捧げたのだから、かえって喜ばしい、自分はよくやつてくれたと思つてゐる」と。悲壯ひそう、これにまさつたことはない。しんに武士道の典型である。難攻なんこう不落ふらくといはれた旅順りょじゅん要塞ようさい到頭とうとうおちいつたのは、かうした將軍の力による、それにしても半歳はんさいの間、これを支持した敵將てきしょうステツセルもまた非凡の將軍たるを失はない。それだけに、乃木の ぎえらさは、一段加はるわけだつた。

 次ぎに乃木の ぎの陸上に於ける努力にたいして東郷とうごう將軍が海の上で、努力したこともまた目ざましかつた。前後三かいわたつた旅順りょじゅん港口こうこう閉塞へいそく事業は、悲壯ひそう痛烈つうれつ鬼神きじんを泣かしむるものがあつた。武裝ぶそうしない廢船はいせんつて、はげしい砲火ほうかをくぐり、港口こうこうに突進して、みずから爆沈した廣瀨ひろせ中佐!れの死は當時とうじ悲壯劇ひそうげき雄辯ゆうべんに物語る。次いで東郷とうごうは港內の敵艦を誘ひ出して、これにたたかひをいどみ、旗艦きかんペトロ・バウロスクを撃沈げきちんして、敵將マカロフたおした。その後も、わが聯合れんごう艦隊は東郷の指揮のもとに、到頭とうとう旅順口りょじゅんこうに於ける敵艦を全滅させた。沈勇ちんゆうの人、剛毅ごうき果斷かだんの人、東郷の面目めんもくここ發揮はっきされたのである。