56-2 露國ニ對スル宣戰ノ詔勅 明治天皇(第百二十二代)

露國ろこくたいスル宣戰せんせん詔勅しょうちょく(第二段)(明治三十七年二月十日 官報

【謹譯】おもフニ文明ぶんめい平和へいわもとメ、列國れっこく友誼ゆうぎあつクシテ、もっ東洋とうよう治安ちあん永遠えいえん維持い じシ、各國かっこく權利けんり利益りえき損傷そんしょうセスシテ、なが帝國ていこく安全あんぜん將來しょうらい保障ほしょうスヘキ事態じたい確立かくりつスルハ、ちんつともっ國交こっこう要義ようぎシ、旦暮たんぼあえたがハサラムコトヲス。ちん有司ゆうしまたちんたいシテことしたがヒ、列國れっこくトノ關係かんけいとしフテ益々ますます親厚しんこうおもむクヲル。いま不幸ふこうニシテ露國ろこく釁端きんたんひらクニいたル、あにちんこころざしナラムヤ。

【字句謹解】◯文明ヲ平和ニ求メ 平和の間に文化の進歩・發展はってんをはかる意 ◯友誼ヲ厚クシテ 國際間の友情を厚くすること ◯永遠ニ維持シ 永久に平和な狀態じょうたいを保つ意 ◯保障 障害物から安全に保つ ◯事態 狀態じょうたい ◯夙ニ 早くから ◯國交ノ要義 外交上の中心てんのこと、要義ようぎはその最も肝要かんような內容をいふ ◯旦暮 朝早くから日が暮れるまで、常にの意味 ◯親厚ニ赴クヲ見ル 友邦ゆうほうとの交際が年毎としごとに親しくなつてくのを知る意。〔註一〕參照 ◯釁端ヲ開ク 不和となる、すなわ戰端せんたんを開くこと。

〔註一〕親厚ニ赴クヲ見ル 日淸にっしん以後日露にちろ戰役せんえきに至るまでの外國との和親わしんは、主として條約じょうやく改訂にかんするものと、日英にちえい同盟どうめいかんするものとの二大別される。前者は『改訂かいてい條約じょうやく實施じっしニ付キ下シ給ヘル詔勅しょうちょく』(明治三十二年六月三十日、官報)中に略述したから、ここでは後者の概要がいようすことにする。

 日英にちえい同盟どうめいは明治三十五年一月三十日に成立した。當時とうじはロシヤの東方經略けいりゃくが日々に露骨ろこつとなり、我が有識者ゆうしきしゃの間には結局一戰を避け得ざるものと考へる者が多く、それには少くともイギリスを嚴正げんせい中立ちゅうりつの立場に置きあるいわれに援助させなければならないとした、イギリスの方でも當時とうじ南亞なんあ戰爭せんそうその他で東洋方面にまで注意がきわたらず、東洋に於けるロシヤの勢力打破するものはひとり日本であるとの見通しのもとに、ついに三百年間の光榮こうえいある孤立政策をてて、日本と握手したのである。これにつて東洋方面の英領えいりょうは二十年間絕對ぜったいに安全だつた。この同盟が行はれなければイギリスのがんといはれた印度いんど地方などは餘程よほど現狀げんじょうことなつてゐるであらうと一般から言はれてゐる。

 しかるに西紀一九一七年のロシヤ革命・世界大戰に於いてヨオロツパの事情は一ぺんし、今やイギリスの注意は全然アメリカに移り、その嫌疑けんぎを恐れて、大正十年(一九二一年)十一月一日から開催されたワシントン會議かいぎに於いてこの日英にちえい攻守こうしゅ同盟は簡單かんたんに破棄せられた。見方によつては日本はイギリスの東洋に於ける忠實ちゅうじつな番犬でしかなかつたともはれるが、一左樣そ うともへぬ。

【大意謹述】かえりみれば日本は平和の間に文化の發展はってんを求め、諸外國との交際をより親しくして、それを通して東洋全體ぜんたいの平和を永久に保たうとつとめて來た。したがつて各國の東洋に持つ權利けんり利益りえきを少しも損じないで、永く我が帝國の地位の安全を今後に保證ほしょうすべき基礎を十分打立てることを、ちんつとに外交上の重要てんとし、明け暮れそれにそむくまいとしたのである。朕のもとに居る官吏かんりまた朕とこころざしを同じうし、朕の氣持きもちをよく了解して事にしたがひ、その結果、諸外國との關係かんけい年毎としごとに親しくなつていつた。しかるに今囘こんかい、不幸にもロシヤとむを得ず衝突して、宣戰せんせん布告ふこくをしなくてはならなくなつたのは決して朕が平生へいぜいから望んでゐた所でない。

【備考】日英にちえい同盟どうめい以後、日露にちろ間の交渉を見ると、年表の上に現はれたところでは、明治三十五年四月、露淸ろしん兩國りょうこく間に滿洲まんしゅう還附かんぷ條約じょうやくが成り、次いで同年、ロシヤのウラジミロウイチ大公、キイル大公の來朝らいちょうがあつた。翌三十六年六月、ロシヤ陸相りくしょうクロパトキンが日本へきたり、同月、日本政府は、御前ごぜん會議かいぎを開いて對露たいろ方針を決定したのである。同年八月、小村こむら外相がいしょう日露にちろ交渉の基礎となるべき六箇條かじょう案文あんぶん栗野くりの駐露ちゅうろ公使に訓電くんでんした。翌月、ロシヤ駐日公使ロオゼンは旅順りょじゅんにゐる關東かんとう總督そうとくアレキシイフをひ、對日たいにち交渉を協議、十月、東京に歸來きらいして、露帝ろてい允許いんきょ對案たいあんを小村外相に交附こうふした。この頃、ロシヤは露骨ろこつな行動にで、滿洲まんしゅう撤兵てっぺい履行りこうしないのみならず、續々ぞくぞく增兵ぞうへいを行ひ、戰意せんいをほのめかした。それゆえ、小村外相とロオゼン公使との間に於ける交渉も、前後十かい會見かいけんを重ねても、一こう見込みこみ立たず、到頭とうとう、十二月二十一日(明治三十六年)ロシヤ政府に向つて、最後の考慮を求めたのである。けれどもロシヤは、誠實せいじつに考へず、日本に向つてたたかいを挑む態度を執つたので、三十七年二月六日、ロシヤへ最後通牒さいごつうちょうを送り、二月十日、宣戰せんせんとなつた。

 以上は經過けいかごく大要たいようである。これより先、日英同盟成立後、支那し なようやくロシヤの横暴おうぼうに向つて强硬きょうこうな態度を示すに及び、ロシヤは四月八日(明治三十五年)にわかに滿洲まんしゅう撤兵てっぺいかんする條約じょうやくを結び、向ふ六箇月かげつ以內に盛京省せいきょうしょうから撤兵し、次ぎの六箇月かげつない吉林省きちりんしょうから撤兵し、更に最後の六箇月內に、黑龍江省こくりゅうこうしょうから兵を退けることを確約した。けれどもこの三囘共かいとも、撤兵をせず、ただ駐兵ちゅうへいの移動をおこなつただけで、いろいろの口實こうじつのもとに、全滿洲ぜんまんしゅうをロシヤの保護のもとに置かうと計つた。そこで、第一にアメリカがロシヤの態度を不快として、抗議し、次いでアメリカ・イギリス・日本の三國が、ロシヤの野心について支那し なに警告した。その際、ロシヤ外相ラムスドルフは、「滿洲まんしゅうでロシヤは利益りえき獨占どくせんする意志を少しも持たぬ」とアメリカに答へたにかかわらず、事實じじつは一層、以前にばいする重壓じゅうあつ淸國しんこくに加へつつあつた。その銳鋒えいほうは、旅順りょじゅんに於けるクロパトキンの行動に現はれ、ロシヤの軍隊は滿洲まんしゅうの各地に示威じ い運動をし、七月下旬に及び、哈爾賓ハルピン吉林きちりん遼陽りょうよう等の駐兵ちゅうへいを南下させ、東淸とうしん鐵道てつどうで、兵員・馬匹ばひつ・軍器・彈藥だんやくの輸送をしたのである。その上、朝鮮では、鴨綠江おうりょくこう下流對岸たいがんたいを占領し、それから龍巖浦りゅうがんぽ租借そしゃく條約じょうやくを朝鮮と結んだ。同時に、アレキセエフを東亞とうあ大守たいしゅに任じ、すべて極東きょくとう方面のことを統轄とうかつせしめた。

 以上の如きロシヤの態度にすこぶあきたらず、大きい不滿ふまんいだいた日本政府は、御前ごぜん會議かいぎの結果、在野黨ざいやとうたる政友會せいゆうかい總裁そうさい伊藤いとう博文ひろぶみ樞密院すうみついん議長に迎へ、山縣やまがた有朋ありとも松方まつかた正義まさよしをもまた樞密院すうみついんらしめ、一致して、かつら內閣ないかくを援助すると共に、對露たいろ問題を解決しようと計つた。かうして愈々いよいよ小村外相の手に成る日露にちろ協商案きょうしょうあんをロシヤに向ひ、提示したが、その要點ようてんは、(一)淸國しんこく及び朝鮮の領土保全(二)朝鮮に於ける日本の優越な利益りえき・地位を確認すること、(三)日露にちろ兩國りょうこくは、朝鮮に於ける日本及び滿洲まんしゅうに於けるロシヤの商工上の活動をたがいに妨害せぬこと、(四)必要上、日本が朝鮮に、ロシヤが滿洲まんしゅうに軍隊を派遣するときは、必要以上の員數いんすうを越えぬこと、(五)朝鮮に於ける行政整理のため、日本が忠告しあるいは援助することをロシヤで承認すること、及び今後日本が朝鮮の鐵道てつどう滿洲まんしゅうに延長する事があつても、ロシヤで妨害せぬことなどである。それにたいし、ロシヤは大體だいたい、承認の意を示したが、滿洲まんしゅうについては、全く日本の權益けんえきを無視する口吻こうふんもらした。のみならず、しきりに戰爭せんそう準備につとめた。そして日本が、相當そうとうに考慮を加へて再三、讓歩じょうほしたにかかわらず、ロシヤは、少しも妥協の意思表示をしない。當時とうじの事情は、ウイツテの『自敍傳じじょでん』中に記されてゐるが、それにおいて、れは「日本の要求は、ロシヤでも、しん正當せいとうだと考へたのだが、故意こ い談判だんぱんを延ばし、日本をして、武力によるのほか、解決の道なきに至らしめた」とつてゐる。要するに、日本の平和愛好の精神せいしん謙譲けんじょう穩健おんけんの態度を無視して、日本を戰爭せんそう渦中かちゅうに引込んだのは、ロシヤの豫期よ きした計畫けいかくだつた。日本の朝野ちょうや激昂げきこうしたのは當然とうぜんである。