55 北淸事變戡靖ノ績ヲ嘉ミシ陸海軍ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

北淸ほくしん事變じへん戡靖かんせいせきミシ陸海軍りくかいぐんくだたまヘル勅語ちょくご(明治三十四年七月十三日 官報

【謹譯】客歳かくさい淸國しんこく變亂へんらんアルニあたリ、汝等なんじら戮力りくりょく勵精れいせいおうシテうごキ、もっ任務にんむつくシ、かつ戒飭かいちょくセシむねしたがヒ、軍紀ぐんきおもん風紀ふうきおごそかニシ、歐米おうべい列國れっこくぐん協同きょうどうシテ戡靖かんせいせきケ、帝國ていこく陸海軍りくかいぐん光輝こうき發揚はつようセリ。ちんふかこれよみス。なんじ將校しょうこう以下い か將來しょうらい益々ますます忠勤ちゅうきんいたサムコトヲのぞム。

【字句謹解】◯北淸事變 明治二十三年に山東さんとうしょう勃發ぼっぱつした義和團ぎわだん事件のこと、詳しくは〔註一〕參照 ◯戡靖 敵に勝ちらんをしづめること ◯客歳 去年の意 ◯淸國ノ變亂 北淸ほくしん事變じへんのこと ◯戮力勵精 力を合はせて同一目的のもとに努力する ◯機ニ應シテ動キ 時機を失しないで敏速な活動をしたこと。〔註二〕參照 ◯任務ヲ盡シ 命ぜられた職責しょくせきを申し分なく果たす ◯嘗テ戒飭セシ旨 戒飭かいちょく嚴格げんかくいましめる。明治十五年の勅諭ちょくゆおおせられた軍人精神せいしん箇條かじょうを意味する。〔註三〕參照 ◯軍紀 軍隊としての規定 ◯風紀 風俗にかんする規定 ◯歐米列國ノ軍 ヨオロツパ・アメリカにある各國の軍隊。〔註四〕參照 ◯忠勤ヲ效ス 怠らずに忠義ちゅうぎつくす。

〔註一〕北淸事變 三ごく干渉かんしょうの結果、我が國は涙を呑んで遼東りょうとう半島を淸國しんこく還附かんぷし、その代償金として三千まんテール(約四千五百萬圓)を要求した。それと我が軍費ぐんぴ賠償二億テール(約三億圓)の巨額は淸國しんこくにとつてはらひ得られるものではない。自國の利益りえきから東洋に進出をこころざしたふつどくごくは、ここでその本性を露骨に現はし、イギリスが一枚加つた四こくでその金額を淸國しんこくに貸し付け、淸國しんこくはこれらの借款しゃっかんにはいづれも稅關ぜいかん收入しゅうにゅう擔保たんぽとした。つづいて三國は干渉かんしょう及びその結果にたいする報酬運動を起し、ドイツは膠州灣こうしゅうわん租借そしゃく(明治三十一年三月)し、ロシヤは旅順口りょじゅんこう(三十二年三月)を、フランスは廣州灣こうしゅうわん(三十一年四月)を租借そしゃくし、イギリスも負けてはゐずに威海衞いかいえい租借そしゃく(三十一年七月)した。更に各國が鐵道てつどう敷設權ふせつけんべき事を競爭きょうそうするに及んで、日淸にっしん戰爭せんそう後、列國の好餌こうじとされた支那し な全土は、今や各强國きょうこく毒牙どくがにかかつたかんがある。しかも內治ないちは全く整理されず、諸方面に大饑饉だいききん・大水害が起つて民衆の生活は刻々こくこく破壞はかいされる。これを支那し な一流の思想から他國人たこくじんの侵入にした一部の民衆は、ここに一切の外國人排斥はいせきの運動を起すことになつた。義和團ぎわだん事件、北淸ほくしん事變じへんしょうせられるのはこの自國擁護ようご運動にほかならない。

 明治三十三年四月に山東さんとうしょうの一角から右の運動が始められ、各地の宣敎師せんきょうし放逐ほうちくに口火を切つて次第に勢力增大ぞうだいし、之に無賴ぶらいが加はつて直隷省ちょくれいしょうり、北京ペキンあやうくなつた。北京ペキンの各國公使館では軍艦から呼び寄せた少數しょうすう陸戰隊りくせんたいではこうなく、地理上の關係かんけいから氣が進まなくも我が日本に手賴た よらなければならなくなつた。われは六月十五日に歩兵二大隊だいたいを派遣したが、義和團ぎわだん勢力益々ますます强く、ドイツ公使ハイキング、帝國公使館書記の杉山すぎやまあきらは殺され、列國の聯合れんごう軍隊もまた進行し得ず、わずかに我が軍の到著とうちゃくを待つてようや天津てんしんおとしいれ、七月中旬には我が五師團しだん出征しゅっせいして聯合軍れんごうぐんの主力となり、八月十四日、北京ペキン重圍じゅういの中から救濟きゅうさいした。列國の軍隊も歩調を共にしたが、その際、事實上じじつじょう限りない勇氣と整然たる規律を示した我が軍は、この一きょつて、各國の稱讃しょうさんはくしたのである。

〔註二〕機ニ應シテ動キ 聯合軍れんごうぐんの主力として我が軍が常に最も困難な場所に向つたこと、及び整然たる規定のもとに一同が常に隊伍たいご堂々としてゐたことなどは、じつ列國れっこくの驚異であつた。日本を幾分か輕視けいしした列國も次第に日本に共鳴し、歐米おうべいの新聞紙は口を極めて皇軍わがこうぐん稱讃しょうさんした。この行動が列國を親日しんにちてきに導き、イギリスとの同盟に一歩を進めたことは疑ひない。ゆえ本勅ほんちょくにも「軍紀ぐんきおもん風紀ふうきおごそかニシ」とおおせられてゐる。

〔註三〕嘗テ戒飭セシ旨 明治十五年一月四日に下賜か しされた『陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭ちょくゆ』を指された。

〔註四〕歐米列國ノ軍 北淸ほくしん事變じへんに於いて兵を動かした國は多々あるが、次にその主要な國名と兵數へいすうとをげる。日本(一〇、〇〇〇人)・ロシヤ(四、〇〇〇人)・イギリス(三、〇〇〇人)・アメリカ(二、〇〇〇人)・フランス(八〇〇人)・ドイツ(二〇〇人)など。

〔注意〕この事變じへんかんする詔勅しょうちょくは、事變じへん當時とうじに『常備じょうび艦隊かんたい司令官出羽で わ重遠しげとおニ下シ給ヘル勅語ちょくご』(明治三十三年八月二十九日、詔勅及令旨集)がある。

【大意謹述】去年淸國しんこくに於いて北淸ほくしん事變じへん勃發ぼっぱつした際、汝等なんじら陸海軍人は一致協力して、時機を失はず、よく活動をつづけた。汝等なんじらは軍人としての本分ほんぶんつくす一方、かつちんが軍人精神せいしんとしておしいましめた要點ようてんを守り、軍隊の規律を重んじ、その風俗を嚴肅げんしゅくにして、歐米おうべい諸國の軍隊と力をあわせ、暴徒ぼうとほろぼし得た。かくして變亂へんらんしずめる上に大きな功績をて、我が陸海軍の光輝こうきを世界に示した事をとする。朕はそれに就いて深く滿足まんぞくした。汝等なんじら陸海軍の將校しょうこう以下の軍人は、今後も益々ますます忠義ちゅうぎに厚く國のために奮鬪ふんとうするやう朕はここに切望する。

【備考】皇軍こうぐんの態度の立派であつたことは、當時とうじ北淸ほくしん方面を視察した田口たぐち卯吉うきち(法學博士)の談話によつても、その一ぱんを想像することが出來る。その中で、「支那人しなじんが―の國の軍隊のため酷い目につてつて、そして日本軍の御蔭おかげで生命財產ざいさんを保つたので、日本軍に向つて、助けをうた願書もあり、それから御禮おれいの手紙もあり、又(外國)の軍隊の亂暴らんぼう狼藉ろうぜきのことをひ現はした手紙もある。・・天津てんしんから通州つうしゅうまいる間に於て、日本の軍人は亂暴らんぼうしたことがない。ほかの國の軍人が亂暴らんぼうして、家をき、財產ざいさんかすめ、もしくは婦女をはずかしめた場合において、日本の軍人は、支那人しなじんを助け、さうして御禮おれいに鳥を貰つたり、あるいは野菜を貰つたり、その他いろいろの物を貰つたといふ。(中略)北京ペキン模樣もようかつて私よりも述べた如く、日本軍が占領して居る所へ、支那人しなじんが皆寄つてまいつて、そこでいちしてゐることは非常に盛んなもので、・・日本軍は萬壽山まんじゅざんを占領しても、其中そのなかにある品物は其儘そのまま保護して、品物は支那し な皇帝に差出したといふ」(『田口卯吉全集』所載)と述べてゐる。皇軍こうぐん威容いよう、その禮儀れいぎに厚く、人道じんどう忠實ちゅうじつ有樣ありさ任侠にんきょうにして弱者をよく助ける意氣い きが、以上の談話によつてわかる。かくして、彼等は明治天皇御嘉賞ごかしょうはいするの光榮こうえいを得た。