54-1 改訂條約實施ニ付キ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

改訂かいてい條約じょうやく實施じっしくだたまヘル勅語ちょくご(第一段)(明治三十二年六月三十日 官報

【謹譯】ちん祖宗そそう遺烈いれつリ、紀綱きこうふる治化ちかキ、うち國運こくうん隆昌りゅうしょういたシ、そと列國れっこく交誼こうぎあつクスルコトヲタリ。しかシテちん年來ねんらい宿望しゅくぼうタル條約じょうやく改訂かいていハ、規畫きかくつく交渉こうしょうかさネテ、つい締盟ていめい各國かっこく妥協だきょうクルニいたル。ここ實施じっしおよヒテ、帝國ていこく責任せきにんおもキヲくわフルトとも列國れっこく和親わしん愈々いよいよ基礎き そかたクシタルハ、ちん中心ちゅうしん欣榮きんえいトスルところナリ。

【字句謹解】◯遺烈 皇祖こうそ皇宗こうそうが後世にのこされたいさをし ◯紀綱ヲ振ヒ 國家を治める政治の根本を紀綱きこうといふ。それをおおいに活動させること ◯治化ヲ施キ 申し分のない政治で國民を善導ぜんどうする ◯隆昌 盛大の意 ◯交誼ヲ敦クスル 交際をこまやかにする ◯宿望 以前からいだいた願望 ◯條約ノ改訂 條約じょうやくとは有名な安政あんせい條約じょうやくのこと、安政あんせい五年六月十九日に締結ていけつされた。アメリカの全權ぜんけんはハルリス、幕府の方は井上いのうえ信濃しなのかみ岩瀨いわせ肥後守ひごのかみとであつた。この第六條に治外ちがい法權ほうけんを定めたために明治政府はその改訂に苦心し、明治二十八年に至つて始めて新條約が完成されたのである。〔註一〕參照 ◯規畫ヲ悉シ いろいろ計畫けいかく審議しんぎを重ねる ◯締盟各國 我國と條約じょうやくを結んだ各國 ◯實施ノ期 實行じっこうの時 ◯欣榮 大きな喜び。

〔註一〕條約ノ改訂 安政あんせいの江戸條約じょうやくに於いて治外ちがい法權ほうけんを認めた幕府の外交政策は明治になつても引きがれ、明治二年にオオストリア・ハンガリイ國と約定やくじょうした通商つうしょう條約に於いては更に日本に取つて條件じょうけんわるかつた、治外ちがい法權ほうけん領事りょうじ專制せんせい制度のもとに苦しんだ國民は、それからだっしようと幾度か試みて一時、失敗に終つた。

(一)づ明治五年には岩倉いわくら具視ともみ全權ぜんけんに、木戸大久保伊藤山口の四人を副使として歐米おうべい各國を歷訪れきほうせしめたが、用意の上に不備のてんがあつてアメリカにてれられず、空しく歸國きこくした。

(二)明治二十年には伊藤・井上が力を合せて歐化おうか主義を執り、條約改訂の一じょとしたが、例の鹿鳴館ろくめいかん舞踊會ぶようかいかつ安房あ わ建白書けんぱくしょたに干城たてき歐化おうかを難じた意見書其他そのたにより失敗した。

(三)明治二十二年には大隈おおくま外相の努力につてぼ調印の段まで漕ぎつけたが、大審院だいしんいんに外人判事を任用するとふ條件があつて、それが憲法第十九條に牴觸ていしょくするとふので、輿論よろんさかんに起り、そのため大隈おおくま隻脚せっきゃくを失つて、又も失敗に終つた。

(四)次に靑木あおき外相が就任し、同じくこの方面に努力したが、明治二十四年五月十一日の大津おおつ事件の責任を負うて職を退き、ここに四度目の失敗を見た。

(五)以上の如く困難に困難を重ねた事業も日淸にっしん戰爭せんそうの勝利により、最初から頑張りつづけたイギリスが率先、明治二十七年七月、條約改正を承諾した。そこで駐英ちゅうえい公使靑木あおき周藏しゅうぞうがイギリスと新條約を結び、アメリカ・ドイツ・フランス・イタリイを始め十六ヶ國もまたつづいて、イギリスにならひ、條約改正の交換をした。之が實施じっしは五年後とふ事に規定されたのである。かうして、右の大問題もようやく局を結ぶに至つた。

〔注意〕本問題にかんする勅語ちょくごは、本勅ほんちょくの他に次の勅語ちょくごがある。

(一)各國公使および樞密すうみつ顧問官こもんかん・各大臣ニ下シ給ヘル勅語ちょくご(明治三十二年十月二十八日、官報

【大意謹述】ちん皇祖こうそ皇宗こうそうのこされた御功烈ごこうれつ手賴た よ王政おうせい復古ふっこじつげ、政治の根本を固め、善政ぜんせいき、敎化きょうかにつとめて國民の善導ぜんどうにつくして來た。その結果として、うち國運こくうん發展はってんさせ、そとは諸外國との交際を圓滿えんまんにすることが出來た。しかも朕が長年の强い希望であつた安政あんせい條約じょうやくの改正は、それに代る案をいろいろ作り、度々交渉を重ねて、遂に前に條約を結んだ各國と意見の一致を見るに至つた。今囘こんかいいよいよその實行じっこう年月ねんげつに及んで、我が帝國の責任が益々ますます重大になると同時に、友邦ゆうほうとの交際の基礎が一層固くなつた事は、朕として心から非常によろこばしい次第である。

【備考】條約じょうやく改正の實現じつげんは、日淸にっしん戰爭せんそうの勝利から來た結果の一つだつた。本來ほんらい、日本は、幕末に於ても文化の上に獨自どくじの特色を有し、歐米おうべいと同等の文化を持つたのである。ところが歐米おうべいでは、日本の皮相ひそうしかもその百分の一ぐらゐしか理解せぬ有樣ありさで、はるかに日本を眼下に見おろしてゐた。最初、諸外國との條約をすについて、その原案を一任されたのは、アメリカ公使で、法權ほうけん稅權ぜいけんの上で、日本國家の面目めんもくを損ずるところがあるのを、はじめから承知で進めた。それには外交上の事に暗かつた幕府の役人の手落ちもあつた。それが、いつ迄も日本を苦しめたのだ。したがつて歷代れきだいの外相が、その改正をくわだてて失敗したのは、彼等の手腕・力量が乏しいといふ意味ではなく、日本の實力じつりょくが、まだ歐米おうべいに理解されてをらなかつた結果にほかならない。外相としての井上・大隈おおくまは、第一流の人物で、役不足のあらう筈はなかつた。けれども改正をすべき根本問題、すなわち日本の實力じつりょくが正しく認められない限り、どんなに工夫しても、イギリス一國さへ、動かすことが出來なかつたのだ。ところが、日淸にっしん戰爭せんそうの勝利で、日本の實力じつりょくが始めて證明しょうめいせられたところから、づイギリスを動かし、の諸國をも動かし得た。何事も機會きかいが熟しないと、實現じつげん困難なことはこの問題の一ぱんを見てもわかる。