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51 全權辨理大臣伊藤博文及陸奥宗光ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

大日本詔勅謹解3 軍事外交篇

全權ぜんけん辨理べんり大臣だいじん伊藤いとう博文ひろぶみおよび陸奥む つ宗光むねみつくだたまヘル勅語ちょくご(明治二十八年四月十八日 官報

【謹譯】淸國しんこくさき全權ぜんけん大臣だいじん簡派かんぱシ、われハシム。ちん切實せつじつナルヲみとメ、すなわ卿等けいらさずクルニ全權ぜんけんもっテシ、めいシテ淸使しんし會商かいしょうセシム。卿等けいら尊俎そんそ折衝せっしょう數日すうじつついやシ、つい妥協だきょうタリ。いま卿等けいらそうスルところ梗概こうがいちんむねかなフ、まこと帝國ていこく光榮こうえい顯揚けんようスルニル。ちん卿等けいらこうトシ、ふかこれ嘉尙かしょうス。

【字句謹解】◯簡派 派遣すること。これは前詔ぜんしょうにもある通り、李鴻章りこうしょう全權ぜんけんとして下關しものせききたり、所謂いわゆる馬關ばかん條約じょうやく締結ていけつしたこと ◯切實ナルヲ認メ 淸國しんこくが心から前非ぜんぴを悔い、眞面目ま じ めに和を請うてゐるのを認める ◯尊俎折衝 尊俎そんそ酒器しゅきと犠牲をのせる器の意で酒宴しゅえんのこと。折衝せっしょう種々しゅじゅ談判だんぱん屈曲くっきょくのある意。酒宴の間に談判を進めるのが文字の意味であるが、この場合は支那し な成語せいごを使用したまでで、談判の進行に種々骨折ること ◯數日ヲ費シ 兩全權りょうぜんけん最初の會合かいごうは三十八年三月二十日で、講和こうわ條約じょうやくが締結され、皇上こうじょう批准ひじゅんたのが四月二十日であるから、一ヶ月を費したことになる。この間に狙撃そげき事件が勃發ぼっぱつし、三月二十七日の夜半に休戰きゅうせん勅許ちょっきょが降つた ◯妥協ヲ得タリ 雙方そうほうで折れ合つて條約じょうやくをまとめ上げた ◯奏スル所ノ梗概 聖上せいじょうにまで申上げた講和こうわ條件じょうけん大體だいたい要點ようけん。〔註一〕參照 ◯朕カ旨ニ副フ ちんの意志と同一である ◯顯揚 世の中にひろげ知らせる。

〔註一〕奏スル所ノ梗概 日淸にっしん講和こうわ條件じょうけんに就ては、『道德どうとく敎育きょういく篇』(第五十九詔參照)中に大體だいたい說明せつめいしたから、ここでは略する。ただ最初から我が國に於ては讓歩じょうほ出來ない三大條件じょうけんを有してゐた。それは二十八年一月二十七日、廣島ひろしま御前ごぜん會議かいぎに際して陸奥む つ外相から說明されたもので、

(一)今囘こんかい戰爭せんそうの原因となつた朝鮮の獨立どくりつを確認させること。(二)我が戰勝せんしょうの結果として淸國しんこく割地かっち償金しょうきんとを承諾させること。(三)淸國しんこくたいする我が權利けんり歐米おうべい列國れっこくと等しくさせ、更に通商航海にかんする諸權利けんりを規定すること。

となつてゐる。我が全權ぜんけんはこの三條件を中心として論談したが、當時とうじ伊藤總理そうり當然とうぜん上述の三條件が滿足まんぞくされる時には、三ごく干渉かんしょうがあらうから、只今からその覺悟かくごが必要であるといてゐるのは、我が外交上すこぶる注意を要する。果してこの先見は遺憾いかんながら、見事適中したのである。

【大意謹述】先般せんぱん淸國しんこく我國わがくに全權ぜんけん大臣李鴻章りこうしょうを派遣して切にはしめた。ちん淸國しんこくが心から前非ぜんぴを悔い、眞實しんじつ講和を願つてゐるものと認め、卿等けいら兩人りょうにん全權ぜんけんに任じ、淸國しんこく全權ぜんけん講和こうわ談判だんぱんを開始させたのである。卿等けいらは各種の勞苦ろうくを重ねた結果、數日すうじつを費して、相互一致すべき讓歩じょうほてんを見出すに至つた。朕は今、奏上そうじょうされた條件じょうけんの要領を見るに、朕の意にうてゐる。この條件じょうけんは我が帝國ていこく名譽めいよ光輝こうきを世界に知らせるに十分なものと思ふ。よってここに卿等けいら兩人りょうにんの大きい功勞こうろうを認め、すこぶ滿足まんぞくする。

【備考】以上の勅書ちょくしょに於て、慰勞いろう御言葉おことばたまわつた伊藤・陸奥が、春帆樓しゅんぱんろう上、どういふ談判の徑路けいろ辿たどつたかについて略記する。當時とうじ李鴻章りこうしょうは七十三歳、伊藤いとう博文ひろぶみは五十五歳であつた。は、第一かい會見かいけんの時、講和こうわ談判だんぱん開始に先立つて休戰きゅうせんを要求した。が、その日、伊藤は何とも答へなかつたのである。第二かい會見かいけんで、伊藤は、休戰きゅうせん條約じょうやくに就ての覺書おぼえがきを提出し「太沽たあくう天津てんしん山海さんかいかん鐵道てつろを日本軍務官ぐんむかんの手に委ね、休戰中の日本軍費ぐんぴことごと淸國しんこく負擔ふたんとしたい」と要求した。それを支那しなぶんあらわして示すと、は驚きの色を浮べ、「苛酷かこく々々」とつぶやいた。そしてれは伊藤に向ひ、「今囘こんかい戰爭せんそうは、朝鮮獨立どくりつのためでござらぬか。しかるに現在は遼東りょうとう迄日本に占領されてゐる。太沽たあくう天津てんしん山海關さんかいかん北京ペキン咽喉いんこうぢや。その上、自分は、直隷ちょくれい總督そうとくの任にあるから、どうも御要求におうじかねる。何分なにぶんもつと手柔てやわらかに・・」と哀訴あいそした。ところが、伊藤は「何分なにぶん擔保たんぽであるから辛抱しんぼう願ひたい」と答へ、雙方そうほうゆずらない。よっ話頭わとうを一てんして、「では講和こうわ條約案じょうやくあんうけたまわりたい」とひ、伊藤は、「休戰きゅうせんの請求を撤囘てっかいされないと御話おはなし出來かねる」とはね付けた。それから三日つて、第三かい會見かいけんで、は休戰問題を撤囘てっかいし、改めて講和談判の序幕に入りかけた折柄おりから遭難そうなんがあつたのである。この凶報きょうほうに接した伊藤は、「何故なにゆえ淸國しんこく全權ぜんけんを苦めようとするのか。講和の責任は自分の一身にかかつてゐる。むしろ自分を狙撃そげきしてくれればよかつたのに・・」と嘆息たんそくしたとつたへられる。その際、伊藤は、の負傷に同情し、勅許ちょっきょて、無條件むじょうけん休戰きゅうせんを承諾したのであつた。

 それからの負傷が石黑いしぐろ忠悳ちゅうとく佐藤さとうすすむらの手術により全癒ぜんゆに近付くと、講和談判の案を示し交渉をはじめた。その際、伊藤は、「哀訴あいそ嘆願たんがん時日じじつむなしく費すことをせず、成るべく早く精確せいかく決答けっとううけたまわりたい」と一本釘をさした。その第四かい會見かいけんで、伊藤はと一うち論戰ろんせんつづけ、强硬きょうこうに出たのである。これを輔佐ほ さして、功勞こうろうがあつたのは、陸奥む つ外相がいしょうだつた。要するに、伊藤・陸奥功勞こうろう相應そうおうに認められてよいが、遼東りょうとう半島還附かんぷの一件でいささか人望を失つたかんがある。