50-1 淸國講和使警衞ノ詔 明治天皇(第百二十二代)

淸國しんこく講和使こうわし警衞けいえいみことのり(第一段)(明治二十八年三月二十五日 官報

【謹譯】ちんおもフニ淸國しんこくわれげん交戰中こうせんちゅうニアリ。しかレトモすで使臣ししん簡派かんぱシ、れいそなヘ、しきリ、もっセシメ、ちんまた全權ぜんけん辨理べんり大臣だいじんめいシ、これしもせき會同かいどう商議しょうぎセシム。

【字句謹解】◯使臣 頭等とうどう全權ぜんけん大臣だいじん內閣ないかく大學士だいがくし李鴻章りこうしょうこうのこと。〔註一〕參照 ◯簡派 派遣と同じ ◯禮ヲ具ヘ式ニ依リ 正式に全權ぜんけんとしての條件じょうけん具備ぐ びして來た意 ◯全權辨理大臣 我國では伊藤いとう内閣ないかく總理そうり大臣・陸奥む つ外務大臣兩人りょうにんをこれに任じた ◯下ノ關 下關しものせき春帆樓しゅんぱんろう兩國りょうこく全權ぜんけんは明治二十八年三月二十日に最初の會合かいごうをした ◯會同商議 同室にかいして講和こうわ條約じょうやくする意。

〔註一〕使臣 最初淸國しんこく政府は尙書銜しょうしょかん總理そうり衙門がもん大臣だいじん戸部こ ぶ左侍郞さじろうちょう蔭桓いんかん及び頭品とうひん頂戴ちょうだい兵部ひょうぶ右侍郞署うじろうしょ湖南こなん巡撫じゅんぶしょう友濂ゆうれん兩人りょうにん全權ぜんけんに任命した。しかしこの兩人は國書こくしょ及び勅諭ちょくゆしょうする一書のほか何等なんらの身分證明しょうめいも持つてゐず、全權ぜんけんとして事を決裁すべき權力けんりょくを全くあたへられてゐないことが判明した。よって我が國では、この兩人りょうにん全權ぜんけんとして認めることに反對はんたいし、やがて李鴻章りこうしょう來朝らいちょうしたのである。本勅ほんちょくに「れいそなしきリ」とあるのはこのてんにほかならぬと拜察はいさつする。

【大意謹述】現在淸國しんこく我國わがくにと各地に於いて、交戰こうせんの最中である。しか淸國しんこくの方から講和こうわ全權ぜんけんを派遣して、その必要條件じょうけん禮義れいぎとを備へて來た以上は、ちんまたこれにおうぜざるを得ない。ゆえに日本側も同樣どうよう全權ぜんけん辨理べんり大臣を任命し、淸國しんこくの使者と共に下關しものせき會合かいごうして、講和こうわさしめることに決した。

【備考】支那し な側は、旅順りょじゅん陷落かんらく後、到底とうてい日本軍に敵し得ぬことを自覺じかくし、北京ペキン陷落かんらくの恐怖を夢みるやうになつた。そこで歐米おうべい列强れっきょう哀願あいがんして、しきりに仲裁ちゅうさいを求めたが、これとて、本來、誠意を以てしてゐない。それがため、容易に打開の一を開くことが出來なかつた。かつ李鴻章りこうしょうは、「一せんして大勝たいしょうはくし、日本人を屈服せしめるのは易々い いたるものだ」と豪語ごうごしたが、今やそれも空虛くうきょ放言ほうげん以上に出ない。のみならず、れは陸海軍そう指揮の地位を奪はれてしまふといふ悲慘ひさん有樣ありさだつた。けれども何とつても、彼れは淸國しんこく第一流の人物で、二十八年二月には、再起を促されて、頭等とうどう全權ぜんけん大臣となり、外交顧問フオスタア(前米國々務省長官)及び經芳けいほうら一行百三十めいを率ゐて、講和のため來朝らいちょうしたのである。

 以前、れは、當時とうじの日本全權ぜんけん首席しゅせき伊藤いとう博文ひろぶみでも、眼下がんかに見るといふやうないきおいを示したことがあつた。その官歷かんれきを見ると、北洋ほくよう通商つうしょう大臣・直隷ちょくれい總督そうとく・一等肅毅しゅっきはく太子たいし太傅たいふ文華院ぶんかいん大學士だいがくしなどをてをり、身長六しゃく風貌ふうぼう堂々どうどうとして、眼光がんこうするどく、言語また明晰めいせき、ウヰツトにもちょうじ、その音聲おんせいは老人に似ず、ほがらかだ。短軀たんく伊藤いとう博文ひろぶみ痩骨きゅうこつの目立つ陸奥む つなどは、風采ふうさいの上で、到底とうてい李鴻章りこうしょうに及ばぬうらみがあつた。けれども內容上、伊藤・陸奥は、李鴻章りこうしょう好敵手こうてきしゅにちがひない。春帆樓しゅんぱんろう上、日支にっし傑物けつぶつが、ひ、これ論ずるといふ風で、一だい偉觀いかんであつたらうと思はれる。ただ伊藤の得意にたいし、李鴻章りこうしょうの方は失意の境地にゐたから、感慨かんがい無量むりょうであつたらう。