49 伊東祐亨ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

伊東いとう祐亨ゆうこうくだたまヘル勅語ちょくご(明治二十八年三月八日 詔勅及ビ令旨集)

【謹譯】けい祐亨ゆうこう昨年さくねん以來いらい聯合れんごう艦隊かんたい統率とうそつシ、籌策ちゅうさく指揮し きことごとよろしきつい優勢ゆうせいナル北洋ほくよう艦隊かんたい奄滅えんめつシ、まった黄渤こうぼつ兩海上りょうかいじょうけん占有せんゆうス。ちんふかこれよみス。いままたさら南洋なんよう作戰さくせんセシメントスけい益々ますます勉勵べんれいセヨ。

【字句謹解】◯聯合艦隊 我が海軍の勢力全部を打つて一だんとした艦隊かんたいの意 ◯籌策指揮 籌策ちゅうさくは根本となる計畫けいかく指揮し き實際じっさいたいしての策戰さくせん ◯咸ク其ノ宜ヲ得 全部がのこらず效果こうかを見せたこと ◯優勢 いきおいつよい意 ◯北洋艦隊ヲ奄滅シ 北洋ほくよう艦隊かんたいに就ては〔註一〕及び〔註二〕參照。奄滅えんめつは全部をめっすること ◯黄渤兩海上ノ權ヲ占有ス 黄海こうかい渤海ぼっかいに於ける海上權かいじょうけんを我が手に獨占どくせんした。黄海こうかい海戰かいせんは〔註一〕を、渤海ぼっかいは〔註二〕をそれぞれ參照のこと ◯南洋 この場合は南洋方面の制海權せいかいけんを得て臺灣たいわん方面に雄視ゆうしせんとすること ◯作戰セシメントス さくは行ふ意、たたかいを行はしめようとすること。

〔註一〕北洋艦隊ヲ奄滅シ云々 明治二十七年八月六日に行はれた。日淸にっしん海戰かいせんに於てわが聯合れんごう艦隊かんたい淸國しんこく海軍の主力たる北洋ほくよう艦隊かんたい水師すいし提督ていとくてい汝昌じょしょう統率とうそつ)と戰つた。その結果、定遠ていえん鎭遠ちんえん威遠いえん來遠らいえん致遠ちえん廣甲こうこう靖遠せいえん揚威ようい超勇ちょうゆう濟遠さいえん廣丙こうへいの十二隻及び水雷艇すいらいてい六隻から成る北洋艦隊は大損害をこうむり、敵は致遠ちえん經遠けいえん廣甲こうこう揚威ようい超勇ちょうゆうの五隻を失ひ、われ松島まつしま赤城あかぎ比叡ひえい西京丸さいきょうまるに多少の損害を負うた。かうして、黄海こうかい制海權せいかいけんは全くわれした。

〔註二〕北洋艦隊ヲ奄滅シ云々 明治二十八年一月に我が陸軍は旅順りょじゅんを落したいきおい威海衞いかいえい攻擊こうげきした。海軍はそれに多大の援助をあたへ、二月上旬に至つて日淸にっしん戰爭せんそう最後の大海戰だいかいせんした。敵は戰艦定遠ていえん鎭遠ちんえん巡洋艦來遠らいえん平遠へいえん靖遠せいえん濟遠さいえん康遠こうえん廣丙こうへい、砲艦鎭南ちんなん鎭北ちんほく鎭西ちんさい鎭東ちんとう鎭邊ちんへん鎭中ちんちゅうの十五隻に、水雷艇十三隻を有してゐたので、黄海こうかい敗戰後の北洋艦隊の主力であり。我が聯合艦隊松島まつしま嚴島いつくしま橋立はしだて扶桑ふそう千代田ちよだ吉野よしの浪速なにわ高千穗たかちほ秋津洲あきつしま高雄たかお筑紫つくし金剛こんごう比叡ひえい天龍てんりゅう葛城かつらぎ大和やまと武藏むさし海門かいもん磐城いわき大島おおしま摩耶ま や愛宕あたご鳥海ちょうかい赤城あかぎ八重山やえやまの二十五隻、それに十六隻の水雷艇を有した。二月五日午前三時にいさましい日本艦隊が劉公島りょうこうとう日島にっとうおとしいれた。その際淸國しんこく水師すいし提督ていとくてい汝昌じょしょうは、我が軍に降書こうしょを送り、部下の生命の犠牲となつて毒を仰いで自殺した。かくて海軍は完全にこうぼつ二海に於ける海權かいけん掌握しょうあくしたのである。

〔注意〕日淸にっしん日露にちろに於ける戰況せんきょう經過けいかは誰でも知つてゐるので、極めて簡單かんたんしるすことにした。日淸にっしん戰役せんえき中に各司令長官その他にたまはつた詔勅しょうちょく及び戰後せんご褒賞ほうしょうの意味で各方面に下しおかれた詔勅しょうちょくは少くない。今それを年代順に列擧れっきょする。

(一)大本營だいほんえい御前ごぜん會議かいぎノ際下シ給ヘル勅語ちょくご(明治二十七年九月十七日、官報)(二)聯合れんごう艦隊かんたい司令長官伊東いとう祐亨ゆうこうニ下シ給ヘル勅語(明治二十七年九月二十日、官報)(三)第一軍司令官山縣やまがた有朋ありともニ下シ給ヘル勅語(明治二十七年十一月十日)(四)伊東いとう祐亨ゆうこうニ下シ給ヘル勅語(明治二十七年十一月二十六日、詔勅及ビ令旨集)(五)第二軍司令官大山おおやまいわおニ下シ給ヘル勅語(明治二十七年十一月二十八日)(六)第一軍司令官野津の づ道貫みちつらニ下シ給ヘル勅語(明治二十七年十二月三十一日)(七)伊東祐亨ニ下シ給ヘル勅語(明治二十八年二月十七日、詔勅及ビ令旨集)(八)大山巖ニ下シ給ヘル勅語(明治二十八年二月十八日)(九)伊東祐亨ニ下シ給ヘル勅語(明治二十八年三月八日、詔勅及ビ令旨集)(十)大山巖ニ下シ給ヘル勅語(明治二十八年三月十三日)(十一)野津道貫ニ下シ給ヘル勅語(明治二十八年三月十五日)(十二)彰仁あきひと親王しんのう征淸せいしん大總督だいそうとくニ任スルノ勅語(明治二十八年三月十六日、官報)(十三)彰仁あきひと親王しんのう凱旋がいせん嘉尙かしょうスルノ勅語(明治二十八年五月二十二日、詔勅及ビ令旨集)(十四)臺灣たいわん總督そうとく樺山かばやま資紀すけのりニ下シ給ヘル勅語(明治二十八年八月三十日、官報)(十五)日本赤十字社ニ下シ給ヘル勅語(明治二十八年十月二十九日、官報

などが主要なものである。

【大意謹述】なんじ祐亨ゆうこうなんじさく二十七年に日淸にっしん交戰こうせんに及んで以來、わが聯合れんごう艦隊かんたいそう指揮官として、作戰の根本方針を定め、また時にあたつての戰略せんりゃく・行動共によろしきを得て、遂に淸國しんこく無比む ひを誇つた北洋ほくよう艦隊かんたいを全滅させ、黄海こうかい渤海ぼっかい海上に於ける我が海權かいけんを確立した。ちんは深くなんじこうよみする。朕は今やなんじに命じて、更に南洋方面の制海權せいかいけんべく、作戰のしょうあてらしめようとしてゐる。なんじはこの命にしたがつて、今迄以上に奮鬪ふんとうせよ。

【備考】黄海こうかいに、威海衞いかいえい殊勳しゅくんを建てた伊東いとう祐亨ゆうこうは、鹿兒島かごしま出身で、天保てんぽう十四年、同藩士正助しょうすけの子として生れた。つとに海軍にこころざし、最初、神戸こうべにある幕府の海軍操練所そうれんじょに入つて學修がくしゅうし、後、勤王きんのうのため、江戸に出て奔走ほんそうした。明治維新後、富士ふ じかんの一等士官しかんとなり、次第に昇進して、明治二十五年、海軍中將ちゅうじょうとなつた。日淸にっしん戰爭せんそうの時、聯合れんごう艦隊かんたい司令長官として出征しゅっせいし、勅語ちょくごおおせられてゐるやうに大功たいこうそうした、そのこうによつて、子爵ししゃくを授けられ、三十一年、海軍大將たいしょうに昇進、日露にちろ戰爭せんそうの際は海軍々令部長として活躍した。明治三十九年、元帥げんすいとなり、翌四十年、伯爵はくしゃくを授けられ、大正三年一月、七十二歳で卒去そっきょしたのである。

 れは、天成てんせいの海軍々人であり、また薩摩さつま武士の典型でもあつた。れとてい汝昌じょしょうとの間に一つの美談がある。黄海こうかい海戰かいせんに大敗した淸國しんこく水師すいし提督ていとくてい汝昌じょしょうは何といつても、支那し な第一流の名將めいしょうで、皇軍こうぐん威海衞いかいえいおとしいれようとしたときも、頑强がんきょうに抵抗し、相互の砲戰ほうせん數日すうにちに及んだのである。かくして支那し な側は次第にいきおいき、どうにもならぬ窮境きゅうきょうおちいつたがそれでも、てい汝昌じょしょうのみは、最後の華々はなばなしい一戰をしようと考へた。けれども部下が聞入れぬので、到頭とうとう、二月十二日(明治二十八年)朝、伊東いとう司令長官のもとに降服を申込んだ。この時、伊東いとう祐亨ゆうこうは深くてい汝昌じょしょうに同情して、快く降服條件を許し、酒菓しゅか(葡萄酒・シヤンペン各一ダアス及び廣島產の串柿)を贈つて、そのろうなぐさめた。ところが、間もなく、てい汝昌じょしょうは自殺して、その悲壯ひそうな最後の幕を閉ぢたのである。これを聞いた伊東は、その意氣い きたっとび、儀式以外の奏樂そうがくを一時やめ、分捕ぶんどり軍艦の中から康濟こうさい一隻を敵にあたてい汝昌じょしょう遺骸いがいをのせて、芝罘チイフウに向はせた。勿論もちろん、この處置しょちは、彼れ一個の意見から出たのであるが、誰もこれに反對はんたいするものなく、天晴あっぱれ、日本武士の美點びてん發揮はっきしたものとして、賞揚しょうようせられた。かうした將軍しょうぐんに率ゐられた日本の海軍が大勝たいしょうはくしたのは、偶然でなく、必然のことである。