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47-3 淸國ニ對スル宣戰ノ詔勅 明治天皇(第百二十二代)

淸國しんこくたいスル宣戰せんせん詔勅しょうちょく(第三段)(明治二十七年八月二日 官報

【謹譯】おもフニちん卽位そくい以來いらいここニ二十ゆう餘年よねん文明ぶんめい平和へいわもとメ、こと外國がいこくかまフルノきわメテ不可ふ かナルヲしんシ、有司ゆうしヲシテつね友邦ゆうほうあつクスルニ努力どりょくセシメ、さいわい列國れっこく交際こうさいとしフテ親密しんみつくわフ。なんはかラム淸國しんこく朝鮮ちょうせん事件じけんケル、われたいシテ著著ちゃくちゃく鄰交りんこうもどリ、信義しんぎしっスルノきょテムトハ。

【字句謹解】◯二十有餘年 この詔勅しょうちょくは明治二十七年八月二日の官報かんぽうに告示されたから、二十餘年よねんおおせられた ◯文明ノ化 文化の恩澤おんたくに人々がよくすること ◯平和ノ治ニ求メ 平和を旨とする間に進歩を求める ◯事ヲ外國ニ構フル ことかまふはうらみを含み、仲がわるくなる意、外國と干戈かんかまじへることをいふ ◯極メテ不可 おこなつて最もわるい事 ◯友邦ノ誼 國と國との友誼上ゆうぎじょうの交際、友人が親しく交はるやうに、國家と國家とが友情を厚くすること ◯年ヲ逐フテ 年と共に益々ますますの意、これは主として明治三十年十二月五日にきょくを結んだ改正條約じょうやく締結ていけつ事業が、當時とうじ著々ちゃくちゃくと進行してゐたことを指す ◯朝鮮事件ニ於ケル 朝鮮に起つた內亂ないらんで、日淸にっしん兩國りょうこく關係かんけいした諸事件、〔註一〕參照 ◯著著 一歩々々とを進めて目的に進むこと ◯鄰交ニ戻リ 鄰國間りんごくかん友誼的ゆうぎてき交際に反する行爲こういがあること ◯信義ヲ失スルノ擧 しん言行げんこうは義理にしたがふこと。信義しんぎを破る行動の意。具體的ぐたいてきな一々の例は次項以下にれてある。

〔註一〕朝鮮事件ニ於ケル 前に謹述きんじゅつした『朝鮮ちょうせん辨理べんり公使こうし花房はなぶさ義質よしただくだたまヘル勅語ちょくご』(明治十五年九月二十八日)にて拜讀はいどくするやうに、この事變じへんの結果、日淸にっしん兩國りょうこくが同時に朝鮮に駐兵ちゅうへいすることになつて、感情のひ違ひが少くなかつた。

 次に明治十七年には甲申こうしんらんしょうせられるものが勃發ぼっぱつした。十五年以後の朝鮮政界は閔氏びんしを中心として支那し なの支持をあおいだ事大黨じだいとうと、きん玉均ぎょっきんなどを中心として日本に後援をたのみ、朝鮮の獨立どくりつまっとうしようとした獨立黨どくりつとうとが事毎ことごとあらそつてゐた。獨立黨どくりつとうは自身の力では國政こくせいの改革が出來ないのを知り、我が公使竹添たけぞえ進一郞しんいちろうを背景とし、明治十七年十二月四日の京城けいじょう郵政局の開院式が擧行きょこうされる當日とうじつに至り、ただちに王城おうじょうに入つて國王をようし、內閣を更迭こうてつせしめて獨立黨どくりつとうの天下を實現じつげんさせた。時に日本は朝鮮の內政ないせい改革の意志はあつたが、決して直接に獨立黨どくりつとうを援助はしてゐない。しかるに閔氏びんしはこれを支那し なに報告し、我が軍隊が國王擁護ようごの任にあたつたことを誇大こだいに告げたため、淸國しんこく政府及び公使の袁世凱えんせいがいは、朝鮮に於けるしん勢力恢復かいふくの目的で、二千の兵を率ゐて王宮をかこんだので、我がわずか一中隊ちゅうたい衆寡しゅうかてきせず、日本公使館は包圍ほうい破壞はかいされ、武官ぶかんたおれ、四十餘名よめい居留民きょりゅうみん慘殺ざんさつされた。ここで淸國しんこくの野心は一時成功し、獨立黨どくりつとうは地位を失ひ、きん玉均ぎょっきんなどは我國に亡命ぼうめいした。

 つて日本政府はただちに井上いのうえかおる特派とくは大使たいしに任じ、歩兵ほへい大隊だいたいして京城けいじょうに急行せしめ、朝鮮と幾多いくた談判だんぱんの結果、明治十八年一月九日を以て京城けいじょう條約じょうやくは成立し、朝鮮は日本に謝罪・償金しょうきん十三萬圓まんえん支拂しはらい亂徒らんと處罰しょばつを約束した。だが事大黨じだいとうの背後に淸國しんこくがゐる以上、この際に淸國しんこくと何等かの約束を結ばないと、のちに同種の事件が再出する心配がある。そこで伊藤いとう博文ひろぶみ西郷さいごう從道つぐみちらが淸國しんこくに赴き、李鴻章りこうしょう折衝せっしょうの結果、十八年四月十八日に所謂いわゆる天津てんしん條約じょうやくが成立して調印された。(一)日支にっし兩國りょうこく共に朝鮮半島から撤兵てっぺいすること。(二)韓兵かんぺいの訓練は日支にっし兩國人りょうこくじんいずれも之を行はないこと。(三)將來しょうらい日支にっしいずれか一方が朝鮮に出兵する場合には、必ず文書で知照ちしょうすることがこの時のおも約條やくじょうである。この第三じょうの原文は「將來しょうらい朝鮮國變亂へんらん重大じゅうだいの事件ありて、日支にっし兩國りょうこくあるいは一こくが兵をするを要するときは、まさたがい行文こうぶん知照ちしょうすべし」とあり。すでに十五年に於けると同樣どうような內容を規定したので、これが日淸にっしん戰役せんえきの原因を作つた外交上の重要な條目じょうもくとなつた。

 この條約じょうやく以後は從來じゅうらい淸國しんこくが朝鮮に占めてゐた優先けんは解消し、日本と全く同じ立場となつた。が、事實じじつに於いて淸國しんこく矢張や はり內部的に種々しゅじゅ策動さくどうし、我が不利をはかつたので、明治二十二年九月には豐年ほうねんであるにもかかわらず凶年きょうねんしょうして日本への榖物こくもつ輸出を禁じたため、我が商人に損害は大きかつた。日本はそれが淸國しんこく指金さしがねであることを知りながら胸をさすつて種々しゅじゅ交渉し、三年目の二十六年に朝鮮から賠償金ばいしょうきん十一萬圓まんえんを得た。

 淸國しんこくが朝鮮の政治を指導してゐる間は、日本の希望する朝鮮獨立どくりつ行政改革は出來る筈はない。明治二十七年三月二十八日に上海シャンハイに於いてきん玉均ぎょっきんが暗殺されたこと、及び朝鮮に東學黨とうがくとうらんが起るに及び、遂に兩國りょうこく戰場せんじょう相見あいまみえるやうになつた。東學黨とうがくとう事變じへん當時とうじ我國わがくにの執つた態度は、本勅中ほんちょくちゅう說明せつめいされてあるので、その場合は一々事實じじつについて補足することにする。

【大意謹述】かえりみるにちん卽位そくい以來いらい今日こんにちに至るまで、じつに二十ゆう餘年よねんほとんど三十年に近い年月ねんげつた。このあいだ、朕は常に平和政策を執り國民が日新にっしん文明ぶんめい恩澤おんたくよくせんことを希望して來た。したがつて外國と戰端せんたんを開くやうな事は出來るだけ避け、その方面の役人に命じて平生へいぜいから各國と友情を厚くし交際上、圓滿えんまんを期したのである。その結果さいわ列國れっこくとの交情こうじょうは年々こまやかになつた。ところが、淸國しんこくは朝鮮に起つた數度すうど內亂ないらんじょうじ、一歩々々、鄰國りんごくたいする情誼じょうぎそむき、信義しんぎを裏切る行動に出て、我國わがくにを不利な立場におとさうとするに至つた。それはどうしても想像出來ぬ事柄ことがらで、朕は夢にもそれを考へたことがない。今、この突發事とっぱつじを知つて、じつに意外な感に打たれるのである。

【備考】當時とうじ支那し なに向つて、開戰かいせんするにあたり、首相伊藤いとう博文ひろぶみが一番、心配したのは、支那し なが、イギリスと何らか密約みつやくを結ばないであらうかとふ事だつた。が、それは、事實上じじつじょう、全くないといふことを確め、伊藤はようや安堵あんどしたのである。また日本が韓國へ出兵するとき、川上かわかみ操六そうろく(參謀次長)は、表面ひょうめんこともなげに「ただ旅團りょだんの兵をするぐらいのものです」とひ、じつ混成こんせい旅團りょだんしたのである。けだ自重じちょう主義の伊藤に、はじめから、混成こんせい旅團りょだんすべきことを告げると、必ず難色を浮べるにちがひないと思はれたからだ。要するに、それは、必ずしも伊藤の弱氣よわきめばかりでなく、有力な北洋ほくよう艦隊かんたいなどが當時とうじ支那し なにある事を知り、輕々かるがるしく開戰かいせんすることは出來ぬとしためでもある。

 さて明治初年から二十七年頃に至る迄の日本の外交は、大體だいたいに於て、讓歩じょうほ主義であつた。日本の當局とうきょくは、歐米おうべいに向つて讓歩じょうほするは勿論もちろん支那し なたいしてさへ讓歩じょうほした。すなわ恐露病きょうろびょうの如きも、またその中から生れた一現象である。かの明治二十四年に於ける湖南こなん事件の際、ロシヤにたいする心痛しんつうから、ロシヤ皇太子をきずつけた津田つ だ三藏さんぞうを死刑にしょしようとしたが、司法官がげんに正義を守り、これにしたがはなかつたので、外務當局とうきょくは一策を案出あんしゅつした。それは當時とうじ外相がいしょうが、ロシヤ公使に向ひ、「貴下き かから津田の死刑を要求されたい」と申込んだことだつた。この一を以てするも、日本外交當局とうきょくが、いかに自屈的じくつてきであつたかが分明わ かる、老獪ろうかい李鴻章りこうしょう袁世凱えんせいがいの如きは、これを知つて、日本をあなどり、日本の公使を翻弄ほんろうして、みずから得たりとした。が、流石さすが自屈的じくつてき外交に終始しゅうしした日本も、東洋全體ぜんたいの平和のため蹶然けつぜん起ち上り、陸海軍の支持、外相がいしょう陸奥む つ北京ペキン駐剳ちゅうさつ代理だいり公使こうし小村こむら壽太郞じゅたろうらの活躍により、ここ英明えいめい明治天皇御裁許ごさいかあおぎ、支那し な宣戰せんせんするに至つたのである。