44-13 陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭 明治天皇(第百二十二代)

陸海軍りくかいぐん軍人ぐんじんくだたまヘル勅諭ちょくゆ(第十三段)(明治十五年一月四日 法規分類大全)

【謹譯】みぎノ五箇條かじょう軍人ぐんじんタラムモノしばらくゆるがせニスヘカラス。サテこれおこなハンニハ、一ノ誠心まごころコソ大切たいせつナレ。そもそノ五箇條かじょう軍人ぐんじん精神せいしんニシテ、一ノ誠心まごころまた箇條かじょう精神せいしんナリ。こころまことナラサレハ如何い かナル嘉言かげん善行ぜんこうみなウハヘノ裝飾そうしょくニテなんようニカハツヘキ。こころタニまことアレハ何事なにごとルモノソカシ。シテヤノ五箇條かじょう天地てんち公道こうどう人倫じんりん常經じょうけいナリ。おこなやすまもやすシ。汝等なんじら軍人ぐんじんちんおしえしたがヒテみちまもおこなヒ、くにむくユルノつとめつくサハ、日本國にほんこく蒼生そうせいこぞリテこれよろこヒナン。ちんにんよろこびノミナランヤ。

【字句謹解】◯右ノ五箇條 さきかかげられた忠節ちゅうせつ禮義れいぎ武勇ぶゆう信義しんぎ質素しっそを指す ◯誠心 眞心まごころの意で、いつはりのない精神せいしんこれを我が皇國こうこくの基本精神せいしんの一にかぞへる。『中庸ちゅうよう』に「まことは天の道なり。これまことにする者は人の道なり」とあるのもこの場合の參考とならう ◯精神 しんの魂の意 ◯嘉言 聖人・賢人などの言說げんせつ ◯善行 知識ありとくに達した人の善美ぜんび行爲こういをいふ ◯ウハヘノ裝飾 表面上の體裁ていさいを飾ること、この場合は內容に何もないことが前提となる ◯心タニ誠アレハ 自分の心がまことであれば出來ないことはないとの意。〔註一〕參照 ◯天地ノ公道 天地間を通じて絕對ぜったい眞理しんりだとされる公明こうめい正大せいだいな道 ◯人倫の常經 人類が常にはんとする道義どうぎで、一定不變ふへんの道 ◯行ヒ易ク守リ易シ 實行じっこうするのも守るのも容易なので、決して人間に守り得ない難事なんじひるのではない ◯之ヲ悦ヒナン 中心からよろこびたのしむであらう ◯朕一人ノ懌 天皇御自身だけの御懌およろこびに終るものではない。よろこびは心にしつとりとしみこむやうによろこぶこと。

〔註一〕心タニ誠アレハ 例の「いのらずとてもかみや守らん」又は「精神せいしんとう何事か成らざらん」と同意である。

【大意謹述】さきに示した忠節ちゅうせつ禮義れいぎ武勇ぶゆう信義しんぎ質素しっその五箇條かじょうは、身を軍籍ぐんせきに置くものとして、かみ將校しょうこうからしも兵卒へいそつに至るまで、少しの間でも輕視けいししてはならない。次にこの五箇條かじょうを行ふにあたつて根本となる大切な一がある。それはほかでもない、人間のいつはりのない、眞心まごころからほとばしり出たまことといふことである。

 一たい、この五箇條かじょうは軍人の精神せいしん、言ひ換へれば心の持ち方の中心で、その根本となる誠心せいしんは五箇條かじょう全部の精神せいしんだといふことが出來る。心にまことがなければ、どんな言說げんせつも、立派な行動も、ことごとくがたんに表面を飾つて人目をつくろふものに過ぎなくなる。そんなものは何の用にも立たない。それとは反對はんたいに心にまことがあり、えずみずから努力すれば結果に於いてどんな困難な仕事でも必ず成就じょうじゅする。してちんげたこの五箇條かじょうは、天地間何處ど こでも行はれてゐる公明こうめい正大せいだいな道で、人類が平常行はなくてはならない大道だいどうだ。決して實行じっこうにも遵守じゅんしゅにも難事なんじとすべきではない。まことの心からは別段の努力を要せず、自然に行ひ、つ守りる。汝等なんじら軍人が十分に朕の敎訓きょうくんを守つて、これらの道にしたがひ、國恩こくおんほうずるのつとめをつくすならば、それは決して朕一人のみのよろこびに終らず、我が日本全土の國民がすべて非常に喜ばしく賴母たのもしく考へるであらう。

【備考】右の勅語ちょくごにおいて、忠節ちゅうせつ禮義れいぎ武勇ぶゆう信義しんぎ質素しっその五とくも、するところ、「一せい」にあるとおおせられたのは道義どうぎの根本精神せいしんあきらかに敎訓きょうくんなされたのである。德目とくもくは、いろいろある。が、そのいずれもが、「一の誠心まごころ」を根とし、みなもととしてゐる。「一の誠心まごころ」から、忠節ちゅうせつ禮義れいぎも、武勇ぶゆう信義しんぎも、また質素も流れで生れづる。すなわち「一の誠心まごころ」さへあれば、期せずして、一切のとくを生み出す根源となる。それを土臺どだいにして、忠節ちゅうせつこころざせば、しん忠節ちゅうせつとなる。それを根本として、禮義れいぎこころざせば、うわすべりをしない禮義れいぎとなる。ひかへると、勅語ちょくごに示された五の德目とくもくは、すべて一せいによつて、裏付けられねばならない。また一せいによつて、統制してゆかねばならない。鬼將軍といはれた加藤かとう淸正きよまさは、誠實せいじつそのものの如き人格者だつた。德川とくがわ家康いえやすが、關ヶ原合戰せきがはらのかっせん石田いしだ三成かずしげに勝つて、その威權いけん、天下をおおうたとき、秀吉ひでよし舊臣きゅうしんことごと家康いえやすびた。ひとり、淸正きよまさは、舊主きゅうしゅの恩を忘れないで、依然いぜん、秀吉の遺子い し秀賴ひでより誠實せいじつをつくし、江戸にゆく途中、必ず大阪に立寄つて、秀賴ひでよりに挨拶した。そのめに諸侯しょこうが、大阪のやしき引拂ひきはらつたにかかわらず、淸正きよまさのみは、やはり、大阪にやしきを置いてゐた。また秀賴ひでより家康いえやす會見かいけんしたときも、秀賴の母淀君よどぎみがひどく心配するので、れは淺井あさい幸長ゆきながと共に、秀賴ひでより身邊しんぺんを守り、事なく會見かいけんを終らしめた。かうした誠實せいじつこそ、軍隊、將卒しょうそつの根本精神せいしんであらねばならない。

 附言ふげんすべきは、軍人勅諭ちょくゆ發布はっぷ後、『陸海軍擴張かくちょう詔勅しょうちょく』(明治十五年十一月二十四日)がくだり、新たに歩兵十二旅團りょだん騎兵きへい砲兵ほうへい各六聯隊れんたい工兵こうへい輜重兵しちょうへい各六大隊だいたい計畫けいかくが立てられたことである。この計畫けいかくは明治十七年に著手ちゃくしゅ、二十七年迄に完成の豫定よていとされた。そして明治二十一年には、各種の兵が相當そうとう充實じゅうじつし、大陸的作戰さくせんだけの用意が出來たのである。それから海軍は、明治十五年には、總艦數そうかんすう二十五せき總噸數そうとんすうまん七千五百四十三とん水雷艇すいらいてい一隻を有しただけだつたが、擴張かくちょう詔書しょうしょと共に、大艦だいかん三隻、中艦ちゅうかん五隻、小艦しょうかん三隻、水雷艇すいらいてい一隻を建造した。更に明治十九年に至ると、新造しんぞう計畫けいかくを立て二十隻の建造に著手ちゃくしゅ、次第に勢力を加へ、明治二十六年、天皇大詔たいしょうにより海軍擴張案かくちょうあん議會ぎかいを通過したのである。それが、日淸にっしん戰爭せんそうたいし、どの位、大きい好果こうかあたへたかは人々の周知することである。