44-5 陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭 明治天皇(第百二十二代)

陸海軍りくかいぐん軍人ぐんじんくだたまヘル勅諭ちょくゆ(第五段)(明治十五年一月四日 法規分類大全)

【謹譯】サレハときイテ兵制へいせいあらたメ、くにひかりかがやカサントおもヒ、ノ十五ねんほど陸海軍りくかいぐんせいヲハいまようさだメヌ。兵馬へいば大權たいけんちんフルところナレハ、司々つかさつかさヲコソ臣下しんかニハまかスナレ。大綱たいこうちんみずかこれリ、あえ臣下しんかゆだヌヘキモノニアラス、子々し し孫々そんそんいたルマテあつむねつたヘ、天子てんし文武ぶんぶ大權たいけん掌握しょうあくスルノそんシテ、ふたた中世ちゅうせい以降いこうごと失體しったいナカラムコトヲのぞムナリ。

【字句謹解】◯我カ國ノ光ヲ輝カサン 我が日本帝國の光輝こうきを海外にまで明らかにしようとの意 ◯此ノ十五年カ程 この勅諭ちょくゆは明治十五年一月四日に下したまうたので、この御言葉おことばがある ◯朕カ統フル所 朕が統一するてん ◯其ノ司々 軍務を取扱ふ各種の役所と、それに所屬しょぞくする職員など ◯大綱 根本となる重要なてん ◯朕自ラ之ヲ攬リ 天皇御自身でその根本を統括とうかつせられる ◯子々孫々 たん臣民しんみんの子孫のみを指さず、皇子おうじ皇孫こうそんをも含められた御言葉おことば拜察はいさつする ◯掌握 手の中に握る意で、天子がおん親ら大權たいけんを左右されること ◯中世以降ノ如キ失體 兵農へいのうが平安朝の末に二に分れ、その結果、武士が大權たいけんを得たやうな、國家としての根本精神せいしんを失つた事情。

【大意謹述】それであるから、王政おうせい復古ふっこの時に及んで、早速軍隊の制度を革新し、我が國の光輝こうきを遠く海外諸國にまで明らかにしようと思ひ、この十五年間に陸海軍の制度を現在見られるまでに改良した。一たい、軍の統率權とうそつけんちんに在るのであるから、直接軍務に從事じゅうじする各役人などは臣下しんかの中から之を任命することがあつても、の根本は必ず朕が統括とうかつして、決して臣下しんかまかすべき性質のものではない。ゆえに朕は皇子おうじ皇孫こうそん及び一般國民の子孫に至るまで十分この意味を了解させ、天皇文武ぶんぶ兩方面りょうほうめんの最高けんを取扱ふ事實じじつを永久につづけ、平安朝末期以後にあつたやうな國體こくたい精神せいしんと一致しない現象は、今後繰り返すことなからんことを希望する次第である。

【備考】明治初年以來、陸海軍制は漸次ぜんじ整頓し、軍人勅諭ちょくゆが出た頃は、恰度ちょうど、一段落ついた時代であつた。けだしそれは、當局とうきょくの勤勉・努力によるところが少くないことは、堀內ほりうち陸軍中將編纂へんさんの『陸軍省沿革史』(明治三十八年刊行)を見てもくわかるが、一つは、明治天皇天成てんせい大元帥だいげんすいであらせられ、軍事方面について、特に大御心おおみこころを注がれたのみならず、深き理解と興味とを有せられ始終しじゅう奬勵しょうれいされた事にも因由いんゆうする所が多い。拜聞はいぶんすれば、陛下は、德川とくがわ慶喜よしのぶ追討ついとうのため有栖川宮ありすかわのみや熾仁たるひと親王しんのう東征とうせいに就かしめられた當時とうじみずか大纛だいとうを大阪に進められ、政務御多端ごたたん折柄おりからにも、度々、諸藩の陸海軍を親閱しんえつあり、時には、兵書へいしょ進講しんこうきこされたのである。就中なかんずく、『孫子そんし』は最も愛讀あいどくせられ、座右ざ うから離されないほどであつた。

 また天皇文敎ぶんきょう奬勵しょうれいつくされた事は、『道德どうとく敎育きょういくへん』で謹述きんじゅつした通りである。すなわ文武ぶんぶ大權たいけんを御一身で、統御とうぎょせらるるについては、天資てんし英邁えいまい・理想的な御方おかたであらせられた。明治時代の陸海軍が有史ゆうし以來、空前の飛躍をし、學術がくじゅつ文藝ぶんげいも目ざましい發展はってんしたのは、ことごとくこれ明治天皇たまものである。