44-4 陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭 明治天皇(第百二十二代)

陸海軍りくかいぐん軍人ぐんじんくだたまヘル勅諭ちょくゆ(第四段)(明治十五年一月四日 法規分類大全)

【謹譯】しかルニ、ちんいとけなクシテ天津あまつ日嗣ひつぎケシはじメ、征夷せいい大將軍たいしょうぐん政權せいけん返上へんじょうシ、大名だいみょう小名しょうみょう版籍はんせき奉還ほうかんシ、としスシテ海內かいだいとうトナリ、いにしえ制度せいどふくシヌ。文武ぶんぶしん良弼りょうひつアリテちん輔翼ほよくセル功績こうせきナリ、歷世れきせい祖宗そそうもっぱ蒼生そうせいあわれたまヒシ御遺澤ごいたくナリトイヘトモ、しかシナカラ、臣民しんみんこころ順逆じゅんぎゃくわきまヘ、大義たいぎおもキヲレルカゆえニコソアレ。

【字句謹解】◯然ルニ 國難こくなん非常時ひじょうじの場合にの意 ◯幼クシテ 明治天皇は前述の如く慶應けいおう三年正月、わずか十六歳で卽位そくいされたのでこの御言葉おことばがある ◯天津日嗣 天皇御位みくらい ◯征夷大將軍 德川とくがわ慶喜よしのぶのこと。〔註一〕參照 ◯政權ヲ返上シ 國家の大政たいせいを朝廷に奉還ほうかんする ◯大名小名 王朝時代には名田めいでんを多く所有した者をいひ、武家時代には相當そうとう大きい領地の所有者のしょうとなり、江戸時代には幕府に直屬ちょくぞくした萬石まんごく以上の土地を領した者をいふ。これは一般の通稱つうしょうで制度上の規定ではないから、大名だいみょう小名しょうみょう區別くべつ明瞭めいりょうではないが、大體だいたい萬石まんごくさかいとし、それ以上を大名だいみょう、以下を小名しょうみょうとした。維新後いしんご一時は舊領地きゅうりょうちの知事としたが、のち封地ほうちの多少につて五しゃく區別くべつをなし、華族かぞくれっせしめられた ◯版籍ヲ奉還シ 版籍はんせき版圖はんと戸籍こせき略稱りゃくしょうで、土地人民のこと、それを諸侯しょこうから朝廷に返したてまつつたもので、明治二年六月十七日、朝廷では御采納ごさいのうになつた。〔註二〕參照 ◯海內一統ノ世 日本全國がかみにんに直接支配される世 ◯古ノ制度ニ復シヌ 武家政治が亡びて、王政おうせい復古ふっこした意 ◯良弼 きみ輔佐ほ さとして、君主の過失をめ、君德くんとくを行はせまゐらすしんの意 ◯輔翼 輔佐ほ さ翼賛よくさんの略で、しんきみをたすけまもること ◯功績 自分から進んで事を行ふ意、てんじていさをし、てがらのことになる ◯蒼生 『書經しょきょう』にある語で、一般國民の意 ◯御遺澤 代々の天子が後世にまでのこつたへられた御德おんとく ◯順逆ノ理 じゅんは下が上にしたがふこと、ぎゃくはその反對はんたいで、ここでは國民が朝廷の命にしたがふことを言つたもの、正當せいとうの道理といつた程の意味 ◯大義ノ重キ 大義たいぎ名分めいぶんの重大なこと、大義たいぎ臣下しんかとしての人間が守る本分ほんぶんや義務で、きみちゅうつくすこと。

〔註一〕征夷大將軍 征夷せいい大將軍たいしょうぐんは元は蝦夷え ぞはんした際に朝廷から任命される臨時の將軍の意で、建久けんきゅう三年に源賴朝みなもとのよりともが天下統一後この職に任ぜられるまでは、たんなる一將軍の地位しか得られず、時と共に解消する性質のものだつた。賴朝よりとも以後、天下兵馬へいばけん政權せいけんとを兼ね得て天下に號令ごうれいするやうになり、代々武士の最勢力者さいせいりょくしゃ稱號しょうごうした。ゆえ本勅ほんちょくの場合は江戸將軍を指したので、德川とくがわ慶喜よしのぶの意味になる。

〔註二〕版籍ヲ奉還シ 德川とくがわ慶喜よしのぶ大政たいせい奉還ほうかん後、維新いしんの事業は著々ちゃくちゃくと進み、幕府の直轄地ちょっかつち及び幕臣きゅうばくしん知行地ちぎょうちには府縣ふけんの設備が出來上つたが、諸侯しょこうの領土では依然いぜんとして藩主はんしゅが政治を行ひ、舊幕きゅうばく時代と少しも相違そういがなかつた。當時とうじ總裁局そうさいきょく顧問こもん木戸き ど孝允たかすけはこれを憂へ、諸侯しょこうの土地人民のすべてを朝廷に返上する意見を立て、議定ぎじょう三條さんじょう實美さねとみ・同岩倉いわくら具視ともみき、又藩主はんしゅ毛利もうり敬親たかちかにも建言けんげんした。次いで薩州さっしゅう大久保おおくぼ利通としみちまた之に賛成して藩主に說くに及び、翌明治二年正月に至つてちょうさつの各藩主が連署れんしょして土地人民を朝廷に奉還ほうかんせんことを願ひで、の藩主も多く之にならつた。朝廷は六月十七日にそれをゆるし、未だ奏請そうせいしない者に向つては還納かんのうを命じ、公卿く げ諸侯しょこうしょうはいして華族かぞくとし、二百六十にんきゅう諸侯を知藩事ちはんじとして舊領きゅうりょうの支配を命ぜられた。これを世に版籍はんせき奉還ほうかんといふ。

【大意謹述】この國事こくじ多端たたんときに際して、ちんは幼少の身で皇位こういいたのである。朕が卽位後そくいご間もなく、征夷せいい大將軍たいしょうぐん德川とくがわ慶喜よしのぶは政治上の大權たいけんげて朕に返上し、次いで各諸侯しょこうは土地・人民の奉還ほうかんひ、幾年いくとしをもないで日本全土は皇室の直接支配するところとなり、いにしえ王制おうせいふくした。この原因はぶん兩方面りょうほうめんの善良な忠義ちゅうぎに厚いしんがよく朕の輔佐ほ さとして君德くんとくをひろめ、助け守つたこうや、代々の天皇が主として國民をあわれみたまうた御仁德ごじんとくが後世にまでよき影響をあたへたことにあるのは勿論もちろんだといへる。が、朕は更にその上、我が日本臣民しんみんが道理の正しいものと正しくないものとを區別くべつするだけの心を持ち、君臣くんしんの道が重大である理由を知つてゐたから、すべてがはこばれたと考へる。

【備考】王政おうせい復古ふっこ、諸事改革のについたのは、主として明治天皇の偉大な御力おちからによる。が、一方においては、この勅書ちょくしょの中におおせられた如く、文武ぶんぶしんに立派な人物がをり、その全心を捧げて、明治維新皇謨こうぼ翼賛よくさんしまゐらせたからでもある。維新前後は人材輩出はいしゅつの時代で、今迄いままで人材の進路を妨害した障壁しょうへきは、ある程度迄撤廢てっぱいされ、新しい機運につれて、各方面から傑物けつぶつが現はれた。公卿く げの中では三條さんじょう實美さねとみ岩倉いわくら具視ともみあり、軍人には西郷さいごう隆盛たかもり大村おおむら益次郞ますじろうあり、政治家には、大久保おおくぼ利通としみち木戸き ど孝允たかすけがあるとつた具合で、いずれも皇謨こうぼ翼賛よくさんする上に、大きい功績をてた。勿論もちろん、それに加ふるに、一般、士民しみんが皇室を尊崇そんそうし、大義たいぎ名分めいぶんを重んじて、正しく行動したことも、明治の盛世せいせい實現じつげんに役立つたのである。勅書ちょくしょのうちで、「臣民しんみんこころ順逆じゅんぎゃくわきまへ、大義たいぎおもキヲレルカゆえニコソアレ」とおおせられたのは、この事にほかならぬ。明治天皇始終しじゅう慈眼じがんを一般士民しみんの上に注ぎ給うた御樣子ごようすここにも現はれてゐる。