読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

44-3 陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭 明治天皇(第百二十二代)

陸海軍りくかいぐん軍人ぐんじんくだたまヘル勅諭ちょくゆ(第三段)(明治十五年一月四日 法規分類大全)

【謹譯】さまうつかわリテクナレルハ、人力じんりょくモテ挽囘ばんかいスヘキニハアラストハイヒナカラ、ツハ國體こくたいもとリ、ツハ祖宗そそう御制おんおきてそむたてまつリ、淺間あさまシキ次第しだいナリキ。くだリテ弘化こうか嘉永かえいころヨリ、德川とくがわ幕府ばくふまつりごとおとろヘ、あまつさ外國がいこくことトモおこリテ、あなどりヲモケヌヘキいきおいせまリケレハ、ちん皇祖こうそ仁孝にんこう天皇てんのう皇考こうこう孝明こうめい天皇てんのう、イタク宸襟しんきんなやたまヒシコソ、かたじケナクモまたかしこケレ。

【字句謹解】◯挽囘スヘキニハアラス いにしえの理想的な狀態じょうたいに戻す方法がない ◯且ツハ 一方では、その上の意 ◯我カ國體ニ戻リ 我が建國けんこく精神せいしんにたがふ。〔註一〕參照 ◯祖宗 皇祖こうそ皇宗こうそうの意。皇祖こうそ神武じんむ天皇皇宗こうそう綏靖すいぜい天皇以下を意味す ◯淺間シキ次第ナリキ ここでは何とも言ひやうがないと悲しまれた御言葉おことばである ◯弘化 仁孝にんこう天皇ぎょ年號ねんごう皇紀こうき二五〇四―二五〇七年。〔註二〕參照 ◯嘉永 孝明こうめい天皇ぎょ年號ねんごう皇紀こうき二五〇八―二五一三年。〔註三〕參照 ◯其ノ政衰ヘ 德川幕府の衰因すいいん種々しゅじゅあるが、それは主として九代將軍家重いえしげ・十代家治いえはる・十三代家定いえさだ十四代家茂いえもちなどの幼主ようしゅ暗君あんくんが出て政治がみだれ、老中ろうじゅうまた凡庸ぼんようが多くて、內外の問題を處理しょりする力なく、維新いしんたんを開くに至つたことを意味する ◯剩ヘ その上、一とどまらないで更に又同種の結果をきたすものが加はる意 ◯外國ノ事トモ起リテ其ノ侮ヲモ受ケヌ勢 外交上の難問題が起つて、國辱的こくじょくてき條約じょうやくむをず結ぶやうな結果になつた。事例に就ては〔註四〕參照 ◯皇祖 この場合は天皇御祖父ご そ ふ御事おんこと ◯仁孝天皇 第百二十代の天皇御諱おんいみな惠仁さとひとと申し、光格こうかく天皇の第三皇子おうじにまします、文化ぶんか六年立太子りったいし、同十四年九月卽位そくい弘化こうか三年正月、四十七歳でほうぜられた ◯皇考 天皇御父おんちち御事おんこと ◯孝明天皇 第百二十一代の天皇明治天皇御父君おんちちぎみ御諱おんいみな統仁もとひとと申し、仁孝にんこう天皇の第四皇子おうじにましまし、天保てんぽ十一年立太子りったいし弘化こうか三年正月卽位そくい慶應けいおう二年十二月二十五日に三十六歳で崩御ほうぎょあそばされた。〔註五〕參照 ◯イタク宸襟ヲ惱シ はなはだ外交にかんして大御心おおみこころろうせられること ◯忝ケナクモ惶ケレ 有難いと同時にい。國難こくなん非常時に際して仁孝にんこう孝明こうめい兩帝りょうてい御心勞ごしんろうを今から考へると、感謝すると同時に恐れ多くてもつたいない氣がするとの意。

〔註一〕我カ國體ニ戻リ 日本の建國けんこく精神せいしんの中心となるものは天照大御神あまてらすおおみかみ神勅しんちょくで、萬世ばんせいけい天皇もと大義たいぎ名分めいぶんを理解した國民が一致協力して國運こくうん發展はってんを計ることで、一くん萬民ばんみんしかも一くんとは天皇萬民ばんみんとは平等に皇室の御慈愛ごじあいよくする萬民ばんみんの意である。この見地からは當然とうぜん武家政治とはあいれず、近來きんらい議論されてゐる通り、西洋流の議會ぎかい制度も一歩邪道じゃどうれば、すでにそれとそむくやうな存在となる場合がある。

〔註二〕弘化 弘化こうか時代の內政ないせい・外交上の重要事項を左にしるす。

(一)弘化こうか元年五月、水戸み と薺昭なりあき謹愼きんしんを命ぜられる。(十一月解愼)(二)元年七月、蘭使らんし、ヨオロツパの形勢を幕府にく。(三)二年正月、浦賀うらが新砲臺しんほうだい築造。(四)二年七月、英船えいせん長崎にきたる。(五)三年正月、仁孝にんこう天皇崩御ほうぎょ。(六)三年二月、孝明こうめい天皇踐祚せんそ。(七)三年五月、佛船ふつせん琉球りゅうきゅうに至り交易こうえきを求めたが、幕府は許さなかつた。(八)三年うるう五月、米船べいせん浦賀うらがきたつて交易を求めたが幕府はこれも許可しなかつた。(九)三年六月、丁抹デンマークせん浦賀きたる。(十)三年八月、海防かいぼう嚴飭げんちょく勅諭ちょくゆくだる。(十一)三年十月、幕府、外國の事情を奏上そうじょう

〔註三〕嘉永 同じく嘉永かえい時代の事情をしるす。

(一)嘉永かえい元年二月二十八日改元かいげん。(二)元年五月、米船べいせん蝦夷え ぞ漂著ひょうちゃく。(三)二年うるう四月、英艦えいかん浦賀うらがきたる。(四)二年六月、葡人ぼじん幕府へ外交上の忠告をす。(五)三年十一月、海防かいぼう嚴飭げんちょく勅諭ちょくゆ再び幕府にくだる。(六)五年五月、大森に砲臺ほうだいを築く。(七)五年八月、和蘭オランダ船長幕府に外交上の忠告をす。(八)五年九月二十二日、明治天皇御生誕ごせいたん。(九)六年六月、米使べいしペリイ浦賀うらがきたる。(十)六年七月、幕府米使べいし國書こくしょに就て諸侯しょこうの意見を求む。(十一)六年七月、露使ろ しプウチヤチン長崎にきたる。(十二)六年八月、砲臺ほうだい品川灣しながわわんに築く。

〔註四〕外國ノ事トモ起リテ其ノ侮ヲモ受ケヌ勢 この例はすでに〔註二〕〔註三〕の表にきてゐるが、その

(一)安政あんせい元年三月、アメリカとの和親わしん條約じょうやく締結ていけつ。(二)同八月、イギリスとおなじく締結。(三)同十二月、ロシアとおなじく締結。(四)同二年十二月、オランダとおなじく締結。

などがかぞへられる。

〔註五〕孝明天皇 孝明こうめい天皇如何い か國難こくなん大御心おおみこころろうされたかは『神祇じんぎ佛敎ぶっきょうへん』に詳述しょうじゅつして置いた如く、當時とうじかず多い勅語ちょくご宣命せんみょうなどから拜察はいさつすることが出來る。

【大意謹述】世の中の政治上の變遷へんせんが以上のやうであるからには、一おうは人間の力でいにしえの理想的なふうに引戻すことは出來ないとはいひながら、それでも一方に我が建國けんこく精神せいしんそむくと共に、他方には神武じんむ天皇を初めたてまつり、御代み よ々々の天皇のこし置かれた御規定ごきていと一致しなかつたのは、何ともひやうのない程きょうざめた次第である。そののち弘化こうか嘉永かえい年間から德川幕府が文武ぶんぶ實權じっけんを握る力を失ひ、その上、外交上の困難な問題が起つて、ややともすれば諸外國に輕視けいしされる狀態じょうたいにもなつたので、ちん御祖父ご そ ふ仁孝にんこう天皇御父おんちち孝明こうめい天皇は、この上もなく御心勞ごしんろうあそばされた。朕はこの事を考へるごとに、有難いと思ふ感情と、恐れ多いといふ氣持きもちとが一時に胸にあがるのをとどめ得ない。

【備考】幕府の失政しっせいしゅつは、覇道はどうによる政治、武斷ぶだん專制せんせいによる政治の當然とうぜんきつくべき終末にほかならない。のみならず、將軍が平凡であり、老中ろうじゅう傑出けっしゅつした人物がゐない以上、事毎ことごとに、政治上で蹉跌さてつするのは、これまた自然のいきおいだつた。要するに文化ぶんか文政ぶんせい以後の幕府は、惰勢だせいだけで生きてゐたのである。が、それにしても、幕府の當局とうきょくすところが、朝廷の方針とごう一せず、それがため仁孝にんこう孝明こうめいてい宸襟しんきんなやませまゐらせたのは、恐懼きょうくへぬ次第であるまいか。思ふに、仁孝にんこう天皇の時代は、日本が外交上、ようやく多難ならんとする傾向の見えはじめた際だつた。それが、孝明こうめい天皇の時代に至ると、一度に、外交難が勃發ぼっぱつした。さいわひにも孝明こうめい天皇英明えいめいであらせられため、時局じきょくを次第に有利に展開出來たとはふものの、始終しじゅう大御心おおみこころなやまされた場合が多かつた。天皇の御一生は國事こくじ極めて多難なめ、一度も、嵐山あらしやま觀櫻かんおうさへもされない。常に「ちんも一度だけ嵐山あらしやまさくらを見たい」とおおせられたが、實現じつげんさるる御暇おいとまさへなかつたのである。そしてその宸翰しんかんの大半は、國事にかんするもののみで、平生へいぜい、政治上の事は、大要たいようみずから書留めて置かれたとつたへられてゐる。(但し明治六年五月、宮城火災の折、それらが灰燼となつたのは嘆惜に堪へぬ)天皇御深憂ごしんゆうあまり寢食しんしょくも安らかであらせられず、幕府が勅許ちょっきょないで、アメリカとの條約じょうやく締結ていけつしたことをひどく逆鱗げきりんあらせられ、讓位じょういの決心までせられたこともある。また時には國事に御熱心なあまり、一日、三度も近衞家このえけ宸翰しんかんを下されたおりもあつた。それらの結果、天皇は、幕府の方針に滿足まんぞくせられず、到頭とうとう近衞このえ三條さんじょうらの公卿く げして、御下問ごかもんあらせられた末、勅諚ちょくじょうを幕府にたまわり、いで水戸藩みとはん內勅ないちょくを下されたのである。その御方針は、攘夷じょうい斷行だんこうの上にそんしてゐた。當時とうじ有樣ありさまを考へると、明治天皇勅語ちょくごうちで「ちん皇祖こうそ仁孝にんこう天皇皇考こうこう孝明こうめい天皇、イタク宸襟しんきんなやまたまヒシコソ、かたじケナクモまたかしこケレ」とおおせられたことが、身にみて感ぜらるるのである。