読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

44-2 陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭 明治天皇(第百二十二代)

陸海軍りくかいぐん軍人ぐんじんくだたまヘル勅諭ちょくゆ(第二段)(明治十五年一月四日 法規分類大全)

【謹譯】いにしえ天皇てんのうツカラ軍隊ぐんたいひきたま御制おんおきてニテ、ときアリテハ皇后こうごう皇太子こうたいしハラセたまフコトモアリツレト、大凡おおよそ兵權へいけん臣下しんかゆだたまフコトハナカリキ。中世ちゅうせいいたリテ文武ぶんぶ制度せいどみな唐國風からくにぶりならハセたまヒ、六衞府え ふ左右さ う馬寮めりょうテ、防人さきもりナトもうケラレシカハ、兵制へいせいととのヒタレトモ、つづケル昌平しょうへいレテ、朝廷ちょうてい政務せいむようや文弱ぶんじゃくながレケレハ、兵農へいのうオノツカラ二ツニカレ、いにしえ徵兵ちょうへいハイツトナク壯兵そうへい姿すがたハリ、つい武士ぶ しトナリ、兵馬へいばけん一向ひたすら武士ぶ しトモノ棟梁とうりょうタルものシ、みだレトともニ、政治せいじ大權たいけんモマタチ、およソ七百年間ねんかん武家ぶ け政治せいじトハナリヌ。

【字句謹解】◯御制 一定の制度のこと ◯時アリテハ る場合にはとの意 ◯皇后・皇太子ノ代ハラセ給フコト 皇后又は皇太子が天皇はつて軍の統治權とうちけんを得られた場合もある。この實例じつれいに就ては〔註一〕參照 ◯大凡 ほとんど全部の場合を指す言葉。皇后・皇太子が軍權ぐんけんを得られたのは絕無ぜつむではないが、むしろ例外といつてもよく、その例も少い、との意を裏面りめんに持つ ◯兵權 兵馬へいばけんと同じ、軍隊を統率する主要權力けんりょく ◯臣下ニ委ネ給フ その全權ぜんけん臣下しんかに委任する ◯中世ニ至リテ 大化たいか改新かいしんから平安朝の末期までを指すので、孝德こうとく天皇から高倉たかくら天皇の頃までを言つた ◯文武ノ制度 文官ぶんかん(司法・行政・文部等)と武官ぶかん(陸海軍)の制度 ◯皆唐國風ニ傚ハセ給ヒ 當時とうじの文明國とはれた支那し なふう模倣もほうしたこと。〔註二〕參照 ◯六衞府 宮中きゅうちゅうを守護する六役所で、これも支那し な模倣もほうである。六衞府え ふとは左近衞府さこんえふ右近衞府うこんえふ左兵衞府さひょうえふ右兵衞府うひょうえふ左衞門府さえもんふ右衞門府うえもんふをいひ、左右の近衞府このえふ天皇御座所ござしょを守り、左右の兵衞府ひょうえふ大內おおうち內廓ないかくを、左右の衞門府えもんふ宮城きゅうじょう諸門しょもん警衞けいえいする役であつた ◯左右馬寮 これも支那し な式で、朝廷の御馬おうま馬具ば ぐ・諸國の牧場ぼくじょうかんした ◯防人 ともむ。國境こっきょう守備隊しゅびたいのことで、諸國の壯丁そうていからり、三年交代で九州の警備に任ずる兵士。太宰府だざいふぞくした。『萬葉集まんようしゅう』にそれについての數々かずかずの歌をのこしてゐる。〔註三〕參照 ◯昌平ニ狃レ 天下の太平にすつかりなれてゆるむこと ◯文弱ニ流レ 文武ぶんぶが二分されたので朝廷の公卿く げどもすべての方面が惰弱だじゃくとなり、日々、詩歌しいか・文章を作り、管絃かんげんうたげなどで時を送るやうになつた。所謂いわゆる王朝文學としょうされるもののうちには、この時代の公卿く げ有樣ありさま如實にょじつえがかれてゐる ◯兵農オノスカラ二ツニ分カレ いにしえ兵農へいのうの別なく、平時へいじに於ける農夫が戰時せんじには武器をつて奮戰ふんせんしたが、武家が勢力をるにしたがひ、兵事へいじしたが專門せんもんの武士が起り、兵と農とが別途になつたことを意味する ◯徵兵 ちょうしょうの意、いにしえでは丁年ていねんになつた國民は、天皇御召おめしおうじて兵士となつたから、國民皆兵かいへいだつた ◯壯兵 そう身體しんたい健康で武力の强い者の意。この者共ものども兵事へいじ專門せんもんとするやうに變化へんかしたので、兵農へいのうの分離から國民皆兵かいへいじつは失はれた ◯武士 武藝ぶげいの意 ◯兵馬ノ權 海陸かいりく軍政ぐんせい總管そうかんする大權たいけん ◯棟梁タル者 武士の首領しゅりょう ◯世ノ亂レ 主として壽永じゅえい元暦げんりゃく年間に於ける源平げんぺい兩氏りょうしたたかいをいふ ◯凡ソ七百年間 源賴朝みなもとのよりとも鎌倉かまくらに幕府を創立した文治ぶんじ元年(皇紀一八四五年)から、德川とくがわ慶喜よしのぶ大政たいせい奉還ほうかんの年すなわ慶應けいおう三年(皇紀二五二七年)の間をいふ。

〔註一〕皇后・皇太子ノ代ハラセ給フコト 皇后が兵馬へいば大權たいけんを得られた例は神功じんごう皇后こうごうの三かん征伐せいばつの時で、皇子おうじの例は日本武尊やまとたけるのみこと熊襲くまそ蝦夷え ぞ征伐せいばつなどの際である。

〔註二〕皆唐國風ニ傚ハセ給ヒ 奈良・平安朝に於ける支那し な模倣もほうはあらゆる方面にあらはれてゐるが、政治方面に限つて考へても、本勅諭ほんちょくゆ拜誦はいしょう出來る例以外に、とう左僕射さぼくしゃ右僕射うぼくしゃならつた左大臣・右大臣の設置などがいちじるしい。

〔註三〕防人 防人さきもりの歌は『萬葉集まんようしゅうまき二十に多く、大體だいたい家庭の人々特に最愛の者との離別の情を主題としたものが多い。次にげる短歌四首中、(一)は防人さきもりの職務にたいする決心、(二)は父母と別離の情、(三)は最愛な者にたいする戀情れんじょう、(四)は防人さきもりの妻が夫にたいする愛著あいちゃく氣持きもちを歌つたもので、いずれもまき二十から選んだ。

(一)今日きょうよりはかえりみなくて大君おおぎみしこ御楯みたてわれ

(二)わすらむとやまわれれど父母ちちははわすれせぬかも

(三)さへなへぬみことにしあればかないも手枕たまくらはなれあやにかなしも

(四)草枕くさまくらたびせな丸寢まるねせばいわなるわれひもかず

【大意謹述】いにしえ天皇みずから全軍を統率せられるのが一般の規定で、時には皇后又は皇太子が天皇に代つてその大權たいけんを執行する場合もあつたが、軍の統率けん臣下しんかの者に委任されることは全然なかつた。それが大化たいか改新かいしん以後に至ると、文官ぶんかん武官ぶかんかんした諸制度は、皆當時とうじの先進國であるとう模倣もほうし、宮廷の內外を守護する六衞府え ふ御馬おうま牧場ぼくじょう監理かんりする左右の馬寮めりょう及び國境守備隊である防人さきもりなどの制度が出來た。左樣そ うした結果、表面からは軍事に就ての制度はいちじるしく完成されたやうになつたが、長くつづいた太平に心の緊張を失ひ、各方面の政務も段々にゆるみ、公卿く げらが惰弱だじゃくに流れて雄壯ゆうそうき、兵農へいのう一致から何時い つの間にか區別くべつされ、いにしえの國民皆兵かいへいの姿は、武術專門家の出現によつて消え去つた。遂にそれらの專門家ともいふべき武士の職が世襲せしゅうとなり一門全部がそれにしたがつて、軍の統率けんはその者共ものども首領しゅりょうの手に握られ、源平げんぺい二氏の爭亂そうらんて、世のみだれにしたが政權せいけんも同じく武家のものとなり、約七百年間、所謂いわゆる武家政治の時代となつてしまつた。

【備考】古來こらい、日本の長所は海外文化を巧みに攝取せっしゅし、敏活びんかつ吸收きゅうしゅうするところにあるが、時として、これがためにいろいろの弊害へいがいかもす場合もあつた。れいせば、軍事上、支那し なかた模倣もほうした如きは組織の整頓上にるところがあつたにもせよ、國家有事ゆうじの日、天皇御親征ごしんせい旨意し いは、次第にそれがために稀薄きはくになり、更に藤原氏が軍事一切を源平二氏に委ねるやうになつてから、古代の如く、兵馬へいば大權たいけん天皇において掌握しょうあくせらるるのじつを失ひ、源平二氏が武權ぶけんの中心勢力となつてしまつた。賴山陽らいさんようは、この變遷へんせん・推移を『日本にほん外史がいし』のうちき、藤原氏の失態を攻擊こうげきしてゐる。それにおいてれは、「藤原氏外戚がいせきをもつて、代々政權せいけんもっぱらにするに及んで、公卿く げ宰相さいしょうの位は一もんのものでなければ之に任ぜず、かんあたへるには、功勞こうろうよりもむしろ身分・血族などに重きを置くやうになつて、その習慣が遂に常例となり、朝廷の百かん有司ゆうしは皆親子しんし相傳そうでんの役となつてしまつた。そして兵馬へいばを指揮する大將たいしょうの仕事は皆源平二氏にまかせ、すこしも之をかえりみなかつたので、ここにはじめて武門ぶもんなる名稱めいしょうを生じた」と述べ、次ぎに兵農へいのう分離の事については、「光仁こうにん桓武かんむ兩帝りょうていの時代に及び、遠く離れて王化おうかの及ばない地方(東北)に於て、度々叛亂はんらんがあつた、折柄おりから寶龜ほうき年中、朝廷では會議かいぎを開き、當時とうじあつめた兵隊のうちで、餘分よぶんのものは淘汰とうたして歸農きのうせしめ、富裕の百姓ひゃくしょうで、その才能が兵馬へいばの道を修得するに適するものは、その後も武藝ぶげいを專門に學ばせて動員令におうるやう用意させた。が、身體からだが弱く、兵に適しないものはもっぱら農業に從事じゅうじさせたから、ここ兵農へいのう分離のたんを開いた」と述べてゐる。

 更に山陽さんようは、その後、武門ぶもんなるものが確立した事情に言及し、「貞觀じょうがん延喜えんぎの頃に至ると、綱紀こうき頽廢たいはいし、上下しょうか意思の疎通そつういた。そして奥羽おうう關東かんとうの豪族中には、戰功せんこうゆえを以て、かたじけなくも六舍人とねりとなり、また左樣そ うしたかんを望まないものは郷里にとどまつて、勝手に人民を支配し、宮中きゅうちゅう宿直とのいして、天皇守護にあたるべき役を勤めない。しか國司こくしとても、これを制御することが出來ぬのである。淸行きよつら所謂いわゆる六軍りくぐん貙虎ちゅこにあらずして、諸國の豺狼さいろうとなるもの』は、皆この手合てあいで、平生へいぜい甲冑かちゅう・軍馬を蓄へ、自ら武士としょうして威張い ばつた。ここにはじめて武士のしょうが起つたのである。天慶てんぎょうから寛治かんじに至るかん、源平二氏は度々、蝦夷え ぞを征伐したが、度毎たびごとに以上の手合てあいを用ひて平定の功をおさめた。うち、彼等の間に次第に關係かんけいが深くなり、遂に誰某なにがしは源氏にぞくする。誰某なにがし平氏ぞくするといふ習慣となり、その因襲いんしゅう久しきに及んで、ここに親分・子分の關係かんけいが出來て、恰度ちょうど君臣くんしんのやうな具合になつた。爾後じ ご、何か事があると、朝廷では、源平二氏に征伐の役を命じ、源平二氏は、各自、その部下を動員して、戰場におもむく。その手早くて簡單かんたんなことは、丁度ちょうどふくろの中のものを探るやうだつた。そのために、しょうを選び、兵をつのるのわづらはしさを重ねなくても、源平二氏に命ずれば、立所に征伐のじつげることが出來る。かうなると、藤原氏の如く、上につて政治をすものは、それをたのんで、すこぶ呑氣のんきとなり、安逸あんいつに流れ、源平二氏の勢力が次第に加はつてくるのに氣付かなかつた。それどころか、藤原氏は、源平二氏を自分らの政治上の野心を遂げる道具とし、各々、勢力をあらそひ、あい排斥はいせきし合ふことに夢中になつてゐた」と述べてゐる。以上のてんを考へると、藤原政治が、いかに皇室にわざわいし、武門政治の出現を助成したかが分明わ かる。最後に結論として、山陽さんようは左の如くつてゐる。

  そもそも軍事は、民の安危あんきのかかる所であるから、兵馬へいばけんは一日もかみにんの手を離れてはならない。ゆえに昔の聖天子せいてんしが、必ず自ら親征しんせいされたのは、じつに深い思召おぼしめしのある事だ。しかるに今や政治にあた藤原氏はこの大權たいけんを源平二氏の如き家筋いえすじのものにまかせて、兵事へいじあなどり、いやしんでかえりみず。彼等の身分を公卿く げ區別くべつして、これを朝廷の上にれっせしめず。はなはだしきに至つては、源平二氏のやから下男げなん下僕げぼくし、「あれは武門さ、武士さ」とけなすに至つた。のみならず、その手柄てがらを調べて、しょうあたへる必要ある際にも、これをおしんで、十分にしない時さへあつた。それでは、武士の方でたまらないから、互ひに手をたずさへて、いきおいを利用し、法を破らないわけにゆかぬではないか。ただ傳統でんとうの力が之をおさへて、あえはっせしめなかつただけのことである。かくして保元ほげん平治へいじらんあたり、政治がゆるむと、彼等はこれにじょうじて蜂起ほうきし、丁度ちょうど堤防を決潰けっかいした水の如く、そのいきおいは四方に滿ちあぶれ、收拾しゅうしゅうすべからざる動搖どうよう狀態じょうたいおちいつた。その戰爭せんそうつづいた結果は、遂にくべからざる兵馬へいば大權たいけんを朝廷に於て失ひ、以前藤原氏下男げなん下僕げぼくしたものの手に之を渡したのは何ともひやうのないほどなさけなく悲しいことである。

 以上、山陽さんよう感慨かんがいは、强い力を以て、人々を動かすところがある。「兵馬へいばけんは、當然とうぜん皇室の御手み てかえらねばならぬ」といふのが、山陽さんようの主張で、それが、やがて王政おうせい復古ふっこうながすところの前提となつた。ここに想ひ到ると、今昔こんじゃくの感に堪へぬものがある。