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43 谷干城ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

たに干城たてきくだたまヘル勅語ちょくご(明治十年十一月一日)

【謹譯】なんじ干城たてきさき賊徒ぞくと熊本くまもとおかスヤ、部下ぶ か諸兵しょへいとく孤城こじょう堅守けんしゅシ、つづい各地かくち轉戰てんせんひさシク艱苦かんくついこうそうス。ちんふかなんじ職任しょくにんつくセルヲミス。

【字句謹解】◯谷干城 西南せいなんえき當時とうじ熊本くまもと鎭臺ちんだい司令長官であつた。きゅう高知こうち藩士はんし、熊本城を固守こしゅして大功たいこうを建てのち農商務のうしょうむ大臣となつた。明治四十四年五月卒去そっきょとし七十五。〔註一〕參照 ◯嚮ニ この前、前日の意 ◯賊徒 皇軍こうぐん對抗たいこうする軍 ◯孤城ヲ堅守シ 援軍えんぐんのぞみのない城を堅く守つて苦戰くせんする ◯轉戰 方々ほうぼうの場所でたたかふ ◯艱苦ヲ經 艱難かんなん辛苦しんくめる ◯效ヲ奏ス ぞく誅伏ちゅうふくさせた意 ◯職任ヲ盡ス 軍人としての責任を申分なくつくす ◯嘉ミス 天皇められる言葉。

〔註一〕谷干城 熊本城は九州の中央とふべき部分にあるのみでなく、當時とうじ九州の鎭臺ちんだい所在地で、しこれを賊軍ぞくぐんおとしいれたら、九州全部が賊の手中しゅちゅうし、いて西部日本全部にわた大亂たいらんとなるのは明らかであつた。西郷方さいごうがたもこの熊本城の持つ重大性を知つて、攻擊こうげきの目標とする。その矢面やおもてに立つたたに干城たてきも無論以上の如き見通しのもとに責任を感じて死守する。ゆえに熊本城を中心として西南せいなん戰爭せんそうは展開され、四月十四日に官軍かんぐん援兵えんぺい包圍ほうい軍を打破つて城中に入つた瞬間、すで兩者りょうしゃの勝敗はまつた。元より官軍かんぐんでは食糧などの用意が不十分である。五十日間の包圍ほういなり苦しかつたが、日本人であるから、忠義ちゅうぎの一念で持ちこたへ、よく、西郷方の東上とうじょうを防止した。干城たてきの名はこの時から一躍天下に鳴り響いた。

〔注意〕西南せいなんえき維新いしん內亂中ないらんちゅう、最後・最大なものとして、歷史的れきしてきな意義を多分たぶんに持つてゐる。それだけに論功ろんこう行賞こうしょうかんする勅語ちょくごも少くはない。次にそれを年代順にしるす。

(一)黑田くろだ淸隆きよたかニ下シ給ヘル勅語ちょくご(明治十年十月三日)(二)野津の づ鎭雄しずお大山おおやまいわお山田やまだ顯義あきよしニ下シ給ヘル勅語(明治十年十月三日)(三)征討せいとう總督宮そうとくのみやニ下シ給ヘル勅語(明治十年十月十日)(四)川村かわむら純義すみよし山縣やまがた有朋ありともニ下シ給ヘル勅語(明治十年十月十日)(五)嘉彰よしあきら親王しんのうニ下シ給ヘル勅語(明治十年十月十日)(六)曾我そ がすけのりニ下シ給ヘル勅語(明治十年十月十日)(七)伊東いとう祐麿すけまろニ下シ給ヘル勅語(明治十年十月十日)(八)高島たかしま鞆之助とものすけニ下シ給ヘル勅語(明治十年十月十六日)(九)大島おおしま義昌よしまさニ下シ給ヘル勅語(明治十年十月)(十)三好みよし重臣しげおみ三浦みうら梧樓ごろうニ下シ給ヘル勅語(明治十年十一月一日)(十一)たに干城たてきニ下シ給ヘル勅語(明治十年十一月一日)(十二)鹿兒島かごしまけん逆徒ぎゃくと征討せいとうこう熾仁たるひと親王しんのう大勳位だいくんいじょスルノ勅語(明治十年十一月二日)(十三)山縣やまがた有朋ありとも川村かわむら純義すみよし黑田くろだ淸隆きよたかくんとうじょスルノ勅語(明治十年十一月二日)(十四)嘉彰よしあきら親王しんのう金幣きんぺい下賜か しノ勅語(明治十年十一月十二日)(十五)西南せいなんえき從軍じゅうぐんセシ隊付たいつきかく部長ぶちょう酒饌しゅせんたまフノ勅語(明治十年十一月)(十六)仙臺せんだい・熊本・廣島ひろしま・名古屋・大阪かく鎭臺ちんだい酒饌しゅせんたまフノ勅語(明治十年十一月)(十七)凱旋がいせん諸艦隊しょかんたい酒饌しゅせんたまフノ勅語(明治十年十二月二十五日)

【大意謹述】たに干城たてきなんじきに我が皇軍こうぐんに反抗した者が熊本に侵入するにあたつて、部下の諸兵を統督とうとくし、援軍えんぐんあてもない熊本城を堅く守り、賊が包圍ほういを解いた後には引續ひきつづいて各地に轉戰てんせんし、長い間の艱難かんなん辛苦しんく經驗けいけんして、たうとう朝敵ちょうてきを討ち滅し、ちん勝報しょうほうもたらした。朕は汝が朕の信賴しんらいする武人ぶじんとしての責任を完全に果したことを滿足まんぞくに思ふ。

【備考】西南せいなんえきに於ける殊勳者しゅくんしゃたに干城たてきである。當時とうじ西郷方さいごうがた邀撃ようげきするについて、一番よき策は、城から進出してゆくよりも、固く城を守つて、その東上とうじょうめるにあつた。けだし西郷方は、武勇ぶゆうけたものが多く、するど意氣込いきごみで、殺到したから、すぐに之にあたるとすれば、非常な損失を受けねばならぬ。たに干城たてきの部下の中には、進撃說しんげきせついだいてゐたものもないではなかつたが、要するに、これは冒險ぼうけんである。たに干城たてき軍略上ぐんりゃくじょうからくこれを知つて、巧みに西郷方の銳鋒えいほうを避け、つにぶらせた。それにたいし、西郷方は、「熊本城なにかあらん」といふいきおいで、はじめから、之をあなどりすぎた。その結果、到頭とうとうめられて作戰の上に大きい齟齬そ ごたしたのである。たに干城たてき名將めいしょうとしての面目めんもくは、この時に至つて最もよく知られた。陛下が勅語ちょくごたまわつて嘉賞かしょうあらせられたについて、忠義ちゅうぎ將軍しょうぐんの深く感激する樣子ようすが、はつきりに浮ぶやうに思はれる。