41 熾仁親王ヲ鹿兒島縣逆徒征討總督ニ任スルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

熾仁たるひと親王しんのう鹿兒島かごしまけん逆徒ぎゃくと征討せいとう總督そうとくにんスルノ勅語ちょくご(明治十年二月十九日 岩倉公實記)

【謹譯】ちんけいもっ鹿兒島かごしまけん逆徒ぎゃくと征討せいとう總督そうとくにんシ、陸海軍りくかいぐんさい軍事ぐんじならび将官しょうかん以下い か黜陟ちゅっちょく賞罰しょうばつあげもっテ、けいまかス。けい黽勉びんべん從事じゅうじすみやか平定へいていこうそうセヨ。

【字句謹解】◯ 二ほん親王しんのう有栖川宮ありすがわのみや熾仁たるひと親王しんのうを指したもの ◯鹿兒島縣逆徒 逆徒ぎゃくとは朝廷の命にしたがはない人々の意。これは例の西南役せいなんえきに於ける西郷方さいごうがたのこと。詳しくは〔註一〕參照 ◯黜陟 功ある者の官を進め、功なき者を退けること ◯賞罰 戰功せんこうおうじて褒賞ほうしょう差異さ いをつける意 ◯黽勉從事 一生懸命に事にしたがつて努力する。ここでは逆徒ぎゃくとの征服にあらん限りの努力をする意。

〔註一〕鹿兒島縣逆徒 明治維新後、我國の外交も全然新しい立場から行はれ、朝鮮にたいしても屢々しばしば禮儀れいぎつくして修好しゅうこうを求めたけれども、その書辭しょじ從來じゅうらいことなり、往々おうおう非禮ひれいに流れた。そこで、西郷さいごう江藤えとう副島そえじまらの征韓論せいかんろんおこり、當時とうじ新歸朝しんきちょうの特命全權ぜんけん大使岩倉いわくら具視ともみ參議さんぎ木戸き ど孝允たかすけ大藏卿おおくらきょう大久保おおくぼ利通としみちなどと對立たいりつした。やがて、征韓論せいかんろんは破れ西郷さいごう隆盛たかもり板垣いたがき退助たいすけ江藤えとう新平しんぺいなどは辭職じしょくした。隆盛たかもりはその後、郷里鹿兒島かごしまかえつて私學校しがっこうを設け、子弟の敎訓きょうくん從事じゅうじしたが、明治七年以後、佐賀・熊本などにらんが起ると、政府は西郷一味がその黑幕くろまくであらうと疑ひ、鹿兒島の彈藥だんやく製造所を大阪に移す計畫けいかくを立てた。私學校の生徒はおおいいかり、政府の役人の到る以前にその彈藥だんやくかすめ、偶々たまたま歸省した警視廳けいしちょう警部中原なかはら尙雄ひさお刺客しかくだとして隆盛をようし、遂に一まん五千の健兒けんじは政府にただす所があるとしょうして、明治十年二月十五日に鹿兒島をはっし、次第にいきおいを得て約四まん人に增加ぞうかした。

 政府はこの報を得て、ただちに隆盛たかもりを初め桐野きりの利秋としあき篠原しのはら國幹くにもとなどの官職かんしょくを奪ひ本勅語ほんちょくごにあるやうに有栖川宮ありすがわのみや熾仁たるひと親王しんのう征討せいとう總督そうとくとし、陸軍中將山縣やまがた有朋ありとも・海軍中將川村かわむら純義すみよし參軍さんぐんとし、陸軍少將野津の づ鎭雄しずお・同山田やまだ顯義あきよし・同曾我そ が祐準すけのり・同三浦みうら梧樓ごろう・同大山おおやまいわお・同三好みよし重臣しげおみ大警視だいけいし川路かわじ利良としよし・陸軍大佐高島たかしま鞆之助とものすけなどをしょうとして二十日に東京をはっした。兩軍りょうぐんたに干城たてきの死守する熊本城を中心として各地に轉戰てんせんしたものの、この場合も佐賀のらんと同じく徵兵令ちょうへいれいの結果がよくあらはれ、團體だんたい敎練きょうれんと新兵器の前には流石さすがの西郷方もてきず、田原坂たばるざか植木うえき・熊本・人吉ひとよし重岡しげおか出水いみず都城みやこのじょう城山しろやまと順次に追はれ、九月二十四日の官軍かんぐん總攻擊そうこうげきにもろくも西郷以下は皆戰死せんしした。じつ擧兵きょへい以後八ヶ月で、明治の內亂ないらんの最終・最大なものであつたと言はれてゐる。

 西南せいなんえきかんする勅語ちょくごは、づ明治六年のものから注目する必要があらう。(一)西郷さいごう隆盛びたかもり辭職じしょくニ付キ陸軍武官ぶかんニ下シ給ヘル勅語ちょくご(明治六年十月二十五日、陸軍省日誌)

 明治の三傑中けつちゅうでも特に大人物だいじんぶつであつたと噂のある西郷さいごう隆盛たかもりを中心とした征韓論せいかんろん者が續々ぞくぞく挂冠けいかんしたのであるから、當時とうじ人心じんしん動搖どうようしたのも無理はない。陛下は特にこの勅語中に、「皆々決して疑念をいだかず、までの如く職務を勉勵べんれいせよ」とはれてゐる。その本勅ほんちょく及びのち謹述きんじゅつする論賞ろんしょうみことのりを除いては、次の如きものがある。

(二)陸軍卿りくぐんきょう山縣やまがた有朋ありとも・海軍大輔たゆう川村かわむら純義すみよし征討せいとう參軍さんぐんにんスルノ勅語ちょくご(明治十年二月十九日、岩倉公實記)(三)西南せいなんえき島津しまづ久光ひさみつニ下シ給ヘル勅語(明治十年二月二十六日、三條實美年譜)(四)同ジえき征討せいとう總督そうとく熾仁たるひと親王しんのうニ下シ給ヘル勅語(明治十年三月七日、岩倉公實記)(五)大阪臨時病院ニ臨幸りんこう院長石黑いしぐろ忠悳ちゅうとくニ下シ給ヘル勅語(明治十年三月三十一日)(六)征討せいとう總督そうとく熾仁たるひと親王しんのう酒饌しゅせんたまフノ勅語(明治十年五月十三日、歷朝詔勅錄)(七)西南せいなんえき行在所あんざいしょニテ陸軍少將兼大警視だいけいし川路かわじ利良としよしニ下シ給ヘル勅語(明治十年七月三日)(八)西京さいきょうヨリ還幸かんこうニ付キ征討せいとう總督宮そうとくのみやニ下シ給ヘル勅語(明治十年七月二十五日、岩倉公實記)(九)征討せいとう總督宮そうとくのみやニ下シ給ヘル勅語(明治十年九月二十五日、歷朝詔勅錄)

【大意謹述】ちんは今、親王しんのう鹿兒島かごしま縣下けんかに於ける朝敵ちょうてき征討せいとうそう指揮官に任命し、陸海軍にかんするすべての軍權ぐんけん、及び將校しょうこう以下の進退・賞罰しょうばつを自由に行ひ權利けんりを全部委任する。親王よ!懸命になつて事にしたがひ、一刻も早くぞく誅伏ちゅうふくを朕に報告するやう努力されんことをこいねがふ。

【備考】熾仁たるひと親王しんのうが、始終しじゅう皇室のためにつくされたことは、甚大じんだいで、國家の柱石ちゅうせきであらせられた。親王有栖川宮ありすがわのみや第九せい當主とうしゅで、御父君おんちちぎみ幟仁たかひと親王しんのうであらせられる。天保てんぽ六年二月に御生誕、御幼名ごようめい歡宮よしのみやしょうした。嘉永かえい元年仁孝にんこう天皇御猶子ごゆうしとなられ、翌二年、親王宣下せんげ御名おんな熾仁たるひとたまわつた。文武ぶんぶ御敎養ごきょうよう深く、常に國事こくじを念とせられた。嘉永かえい六年、米露べいろ二國との通商つうしょう條約じょうやくにつき、幕府に專斷せんだん行爲こういがあつたとき、親王は條約締結の害を論じ、みことのりを幕府に下して、征夷せいいを起すべきことを奏上そうじょうされた。その後も始終しじゅう王政おうせい復古ふっこの事に力を注ぎ、慶應けいおう三年德川とくがわ慶喜よしのぶ大政たいせいを返上した際、國事こくじ御用係ごようがかりとして、朝議ちょうぎ參與さんよされ、いで王政おうせい復古ふっこ大號令だいごうれいはっせらるるに及び、總裁職そうさいしょくかれ、政府の中心人物として、最も重きをされたのである。

 それから明治元年鳥羽と ば伏見ふしみたたかいが起り、德川とくがわ慶喜よしのぶが朝廷に反抗しため、德川氏追討ついとうの軍をはっせられた折、親王は、總裁職そうさいしょく在任のまま征東せいとう大總督だいそうとくの重任をびられた。二月十五日(明治元年)親王錦旗きんき節刀せっとうほうじ全軍を引率いんそつ進發しんぱつの途中、諸城を下し、四月十一日、事なく、江戸城おさめられ、その功績著大ちょだいであつた。西南せいなん戰爭せんそうぜん元老院げんろういん議長の要職にをられたが、戰爭せんそう勃發ぼっぱつと共に、征討せいとう總督そうとくに任ぜられ、本營ほんえい福岡ふくおか久留米く る め・熊本等に進め、平定の功をまっとうされた。かうして、幕末から明治初期にかけて、親王は、國家の大事に際して、軍事を董督とうとくし、見事にその使命をはたされた。當時とうじ明治天皇親王勞苦ろうく貢獻こうけんとせられたことは、西南せいなん戰役せんえき中、さい三、たまわつた勅語ちょくごの上にも現はれてゐる。明治十年五月には、「けい諸軍しょぐん統督とうとくシ、籌策ちゅうさく指揮そのよろシキヲさきニ熊本城ニ聯絡れんらくシ、おおい賊勢ぞくせいくじク。ちんけい日夜にちや奮勉ふんべんそのしょくつくスヲよろこフ」とおおせられ、同年七月、明治天皇が京都から東京へ還幸かんこうせらるる際には、「征討せいとう諸軍しょぐんみな奮戰ふんせん勇進ゆうしん賊勢ぞくせい退縮たいしゅくス。けい都督ととくにんつくシ、籌策ちゅうさくよろシキヲルノいたところちんこれ嘉賞かしょうス。ちんいままさニ東京ニかえラントス。よっテ海軍中將西郷さいごう從道つぐみちヲシテ、特ニ其地そのちつかわシ、積日せきじつ勞苦ろうく慰問いもんセシム。とき炎熱えんねつさいス。けい自愛じあいセヨ」とおおせられてゐる。更に九月二十五日、西南せいなんえきぼ平定した時、「けい諸軍しょぐん統督とうとくシ、久シク戰地せんちリ、勞苦ろうくおもフヘシ」と慰諭い ゆあらせられた。思ふに、明治天皇臣下しんかたいする慈愛じあい大德たいとくを備へさせられ、大義たいぎのためにつくすべく、鼓舞こ ぶ・指導された事が、皇基こうきを固め、日本の進運しんうんを促す上に最も大きい效果こうかがあつたことは、明治初期の大動搖だいどうよう時代に善處ぜんしょせられた事の上にも十分うかがはれるのである。