読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

40 千島樺太交換條約批准ノ詔 明治天皇(第百二十二代)

千島ちしま樺太カバフト交換こうかん條約じょうやく批准ひじゅんみことのり(明治八年十一月十日 太政官日誌)

【謹譯】天祐てんゆう保有ほゆうシ、萬世ばんせいけい帝祚ていそふみタル日本にほん皇帝こうてい此書このしょもっ宣示せんじス。ちんぜん露西亞ロ シ ア皇帝こうてい陛下へいかのぞみおなじうシ、ちん樺太カバフトとう(薩哈連島)ノうちちん所領しょりょうタル部分ぶぶんぜん露西亞ロ シ ア皇帝こうてい陛下へいか讓與じょうよシ、ぜん露西亞ロ シ ア皇帝こうてい陛下へいかハ、その所領しょりょうタル千島ちしま群島ぐんとう(クリイルアイランズ)ノ全部ぜんぶちん讓與じょうよスルコトヲたがいけっシタルヲもっテ、雙方そうほう全權ぜんけん重臣じゅうしん明治めいじねんがつ彼得堡ペテルスブルグかいシ、その條約じょうやく締結ていけつ調印ちょういんセリ。すなわちその條款じょうかんごとシ(條款省略)

ちんしたシクみぎ條約じょうやく通覽つうらんシ、其旨そのむね至當しとうトス。ゆえいま此書このしょもっこれまった證認しょうにん批准ひじゅんシ、天地てんち悠久ゆうきゅうシ、すべ條約中じょうやくちゅう所載しょさい條款じょうかんこれ遵行じゅんこうセンことやくス。みぎ定證ていしょうトシテここちん親記しんきシ、國璽こくじきんセシム。

【字句謹解】◯宣示 のべ示す ◯樺太島 カバフトもとはカラフト、きた蝦夷え ぞしょうし、幕末、日本が油斷ゆだんしてゐるうちに、ロシヤ人の蠶食さんしょくするところとなつた。明治八年、ロシヤと交渉し、一旦、放棄して千島ちしまと交換、のち、明治三十八年、日露にちろ戰爭せんそう後、之を囘收かいしゅうした。しかし開拓困難のめ北部をき、ロシヤに返付へんぷした。今の領土は北緯五十度以南の地である。〔註一〕參照 ◯千島群島 日本の北東に於ける火山列島國後くなしりに起り、占守しゅむしゅに達する、古昔こせきはクルミセといひ、チユブカ・ラツコ・クリル等の別稱べっしょうがある。島嶼とうしょ大小三十、面積合せて一千方里ほうり、人口五千。〔註二〕參照 ◯讓與 ゆづりあたへる ◯彼得堡 現在は、レニングラアドといふ。以前は、セント・ペテルスブルグとつた。これは、ドイツ系の發音はつおんで、今のはロシヤ系の發音はつおんによる ◯通覽 全部を通じて閲讀えつどくする ◯批准 君主くんしゅ可否か ひ判斷はんだんしてのちと認めて、これを許す事、すなわ當事國とうじこく全權ぜんけん委員が合議ごうぎ談判だんぱんして、とりめた條約じょうやく案文あんぶんの國の主權者しゅけんしゃ嘉納かのう・採用する意 ◯悠久 年代の久しくつ事 ◯條款 箇條かじょうのこと ◯遵行 したがひ行ふ ◯定證 證據しょうこに同じ ◯國璽 國家を表章ひょうしょうするいん、日本の國璽こくじは二すん金材きんざいより成り、大日本國璽こくじの五字を記してある ◯ いんをおす事。

〔註一〕樺太島 日本が樺太カバフト千島ちしま方面の存在を知り、これを調査したのは、天明てんめい五年のことで、山口やまぐち鐵五郞てつごろう最上もがみ德內とくないらが、この任務にあたつた。勿論もちろん、千島の存在だけを知つたのは、ずつと以前すなわ元祿げんろく十三年のことで、松前まつまえ島郷帳とうきょうちょうに「くるみせしまほう」としるし、三十四島の名をあげてある。そして天明てんめい六年、松前氏はしてクナジリ・エトロウ・ウルブ諸島を巡視せしめた。當時とうじ、ロシヤ人は、樺太カバフト著眼ちゃくがんして、探檢たんけん・測量に從事じゅうじし、日本が、その通商つうしょう要求におうじなかつた時、ロシヤ使節レザノフは、樺太カバフトとう襲擊しゅうげきし、同島から日本移民を追ひはらつて、日本を苦しめ、いやでもおうでも、通商つうしょうを開始させようといふ策を建てた。その計畫けいかく實行じっこうしたのは、同國海軍大尉オストフなどで、「樺太島カバフトとうは、ロシヤ皇帝の領土だ」と宣言し、松前藩まつまえはんの出張所を攻擊こうべきして、四人の番人ばんにんを捕へなりの亂暴らんぼうを働いた。その後も再び樺太カバフトを荒らした事がある。少し遠い過去では右のやうな歷史れきしがあつた。日本の志士し しが、ロシヤの行動をいきどおり、北門ほくもん經營けいえいに重きを置くべきことを主張したのは、それらのためである。

 やがて嘉永かえい六年、ロシヤ使節プウチヤチンが日本長崎に來航らいこうし、國書こくしょていして通商を開き、樺太カバフト疆界きょうかいを定めんことを要請した。幕府は、筒井つつい肥前ひぜんのかみ川路かわじ左衞門尉さえもんのじょうして、談判だんぱんせしめたが、「確答かくとうのちしたい」といふ事できょくを結び、樺太カバフト問題は、解決されない。更に安政あんせい元年ロシヤと下田しもだ條約じょうやくを結んだときにも、樺太カバフトの事についてはただ漠然ばくぜんと「きたりのとおり」といふ、極めて不明瞭ふめいりょうな意思表示をした。が、結局川路かわじ左衛門尉さえもんのじょうらはプウチヤチンに迫つて、「日本人とアイヌ人とが住んでゐる地方は、日本の所屬しょぞくとする」といふ事を認めさせ、嘉永かえい六年の末、新たに樺太カバフトの南方につたロシヤ人を撤退させた。けれどもそれは口約こうやくだけにしためロシヤ人は、どしどし樺太カバフト南部にり込んだのである、幕府では、この有樣ありさまに驚き、慶應けいおう二年、函館はこだて奉行ぶぎょう小出こいで大和守やまとのかみをロシヤにし、談判だんぱんせしめたところが、ロシヤは樺太カバフト全島をロシヤの所領だと主張して、一歩をゆずらない。ようやく「樺太カバフト日露にちろ兩國人りょうこくじん雜居地ざっきょちであり、雙方そうほう共に往來おうらい自由だ」といふ生ぬるい協定に終つた。

 その後、幕府が倒れて、王政おうせい復古ふっこすると、北門ほくもん經營けいえいの事が、問題となり、明治二年十二月、外務大丞がいむだいじょう丸山まるやま作樂さらく開拓判官かいたくはんがん岡本おかもと監輔かんすけが、士農工商しのうこうしょう五百人ばかりをしたがへて、樺太カバフトに渡り、ロシヤ陸軍中佐テフレラトオウイツチと談判した。その際、丸山は、小出こいで雜居ざっきょ條約じょうやくを否定して、抗議したが、却々なかなか、先方は聞入れない。けれども當時とうじ、明治の新政府は、多事た じ多端たたんなためロシヤと事をかまへるのを不可とし、明治三年七月、開拓次官黑田くろだ了介りょうすけ(淸隆)を樺太カバフトし、その事務を管理せしめたが、境界問題は一こう進捗しんちょくしない。爾後じ ご相當そうとう曲折きょくせつて、明治五年、ロシヤ總領事そうりょうじエフゲニイ・ビウツオフが代理公使として、東京に來任らいにんした際、外務卿がいむきょう副島そえじま種臣たねおみから樺太カバフト境界問題を持ち出し、北緯五十度の地を兩國りょうこく疆界きょうかいとなさんことを要求したが、ロシヤはこれを承知しなかつた。當時とうじ、日本では征韓論せいかんろんようや擡頭たいとうし、內閣でも、この問題に心を惹かれた結果、黑田くろだ淸隆きよたか建議けんぎにより、樺太カバフト抛棄ほうきして、千島ちしまと交換するに決し、駐露ちゅうろ公使榎本えのもと武揚たけあきが談判數次すうじのち、右の如く約定やくじょうが成立した。それは明治八年五月の事である。

〔註二〕千島群島 ロシヤ人が、千島ちしまの一部、擇捉エトロフを荒らした事も、前後二かいのぼつてゐる。第一かいは、文化ぶんか四年四月のことで、擇捉島エトロフとうナイボ沖に現はれ、上陸後、日本の役所を襲擊しゅうげき、白米三百ぴょう食鹽しょくえん六百ぴょう强奪ごうだつし、役所及び倉庫を燒拂やきはらつた。いで同年六月、紗那シャナを襲ひ、前囘ぜんかい同樣どうよう亂暴らんぼうを働いたのである。當時とうじ幕府當局とうきょくの無能のため、日本は始終、受太刀うけだちの形で、志士し し憤慨ふんがいせしめた。その後、日本が明治八年、樺太カバフト全部をロシヤにあた千島ちしま群島ぐんとうを日本の所領とした時、合併十八島を手に入れ、カムサツカ地方、ラパツカ岬と占守シュムシュとうの間なる、ラベエスの海峡を以て、兩國りょうこくの境界とすることを約定やくじょうしたのである。

【大意謹述】皇祖こうそ皇宗こうそう御威靈み た ま冥助めいじょを保有して、萬世ばんせいけい帝位ていいに就いた日本皇帝は、ここ本詔ほんしょうを以て、日露にちろ間に協約したところを全國民に告げる。ちんはロシヤ皇帝と希望を同じうし、樺太島カバフトとう(サガレン)のうちで、朕の所領である部分をロシヤ皇帝にゆずり、同皇帝の所領たる千島ちしま群島ぐんとう(グリイル・アイランズ)の全部を朕の方へゆずり受ける事に決定した。よっ雙方そうほう全權ぜんけん及び大官たいかんが、明治八年五月七日にペテルスブルグに會合かいごうの上、その條約じょうやくを結び、これに調印したのである。すなわちその箇條かじょうは左に示す如くだつた。(箇條を略す)

 朕はみずから、右の條約じょうやく全文を一らんし、その趣旨を至當しとうだと考へる。ゆえに今、本詔ほんしょうを以て、これを全部認め、批准ひじゅんすることとした。爾後じ ご幾久いくひさしきにわたり、すべて條約中じょうやくちゅうせてある箇條かじょうは、これを固く守るであらうことを約束する。右の證左しょうさとして朕はここに親しく、を記入し、國璽こくじして、公表する次第である。

【備考】日本の志士し しで、北門ほくもん經營けいえいかんして第一に叫びをあげたのは、林子平はやししへいで、その著『三ごく通覽つうらん』の中には、ロシヤ人に先んじて北方の人民を手なづけ、その土地を開拓しなければならぬことをいた。ぎに經濟けいざい學者がくしゃ本田ほんだ利明としあきは『西域せいいき物語』で、日本の北進政策にれ、「日本を天下第一の最良國となすべき法を論ずれば、カムサツカの土地に本都ほんとうつし、西唐太島にしからふととう大城廓だいじょうかく建立けんりゅうして山丹さんたん滿洲まんしゅう交易こうえきして、有無を通じ云々うんぬん」とつてゐる。橋本はしもと左內さないはロシヤを踏みだいとして、日本の世界雄飛ゆうひを計らうと考へ、日露にちろ同盟を主張したことがあつた。吉田よしだ松陰しょういんは『幽囚錄ゆうしゅうろく』で、づ北海道を開拓して、樺太カバフト方面を占領し、進んで、臺灣たいわん・朝鮮を日本のものとすべきことを論じた。以上の如く、日本の志士し しは、つと北門ほくもん經營けいえいまなこを注ぎ、幕府の無爲む い無能むのうあきたらなかつたのである。