39 淸輝艦水卸式ノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

淸輝せいきかん水卸式すいしゃしき勅語ちょくご(明治八年三月五日 詔勅及令旨集)

【謹譯】新製しんせい淸輝せいきかん水卸式すいしゃしき執行しっこうス。まった汝等なんじら盡力じんりょくル。ちん喜悅きえつエス、うえそうすみやか落成らくせいセンコトヲふか希望きぼうス。

【字句謹解】◯新製ノ淸輝艦 九〇〇とん戰艦せんかんで、明治六年に横須賀よこすか造船所ぞうせんじょ迅鯨じんげい(一四五〇噸)と共に起工し、この時進水式げた。〔註一〕參照 ◯水卸式 新造しんぞう船舶せんぱくをはじめて水上に落し浮べる式で、その後不備なてんを更に改良して落成らくせいするのである。進水式の意 ◯執行 實行じっこうする。擧行きょこうする ◯喜悅ニ堪エス 喜ばしくてたまらない ◯落成 全部申し分なく出來上る ◯深ク希望ス 願ふ意が深い。

〔註一〕新製ノ淸輝艦 維新いしん前後西南せいなん戰役せんえきに至るまでの我が海軍力は現在から考へるとじつに貧弱で、言ふに足らないものがあつたが、本勅ほんちょく中に「ちん喜悅きえつエス」とのたまうてゐられるのをはいするに就いても、簡單かんたんにこのてんれて置く必要がある。

 武家時代には文武ぶんぶ大權たいけんが全く幕府に在り、幕府が大政たいせい奉還ほうかんしても、當分とうぶんの間は朝廷は一ていをも所有してゐなかつた。そこで朝廷は明治元年二月に、さつちょう及び安藝あ き筑前ちくぜん久留米く る めなどの諸藩しょはんから軍艦一隻づつをちょうされたが、翌三月東征とうせいの軍を起すに至つて、孟春丸もうしゅんまる肥前藩から獻上した鐵骨木皮艦三五七噸)・豐瑞丸ほうずいまる薩摩藩から獻上した鐵製三〇〇噸)・雄飛丸ゆうひまる久留米藩から獻上した鐵製二五〇噸)を率ゐ、兵庫から横濱よこはまに向つた。事が終つたのちに、幕府の軍艦觀光丸かんこうまる(木製一五〇噸)・富士山ふじさん(木製一八〇噸)・朝陽ちょうよう(木製一〇〇噸)・翔鶴しょうかく(木製三五〇噸)の四隻をおさめ、開陽かいよう蟠龍はんりゅう囘天かいてん千代田ち よ だの四隻をきゅう幕府にたまわつた。

 朝廷は更に奥州おうしゅう北越ほくえつ地方のきゅう幕臣ばくしん鎭定ちんていするために諸藩の軍艦を徵收ちょうしゅうしたり、外國戰艦せんかん購求こうきゅう武裝ぶそうしたりしたが、突如、榎本えのもと武揚たけあき函館はこだて脫走だっそうするあり、計畫上けいかくじょう非常の遺漏いろうを生じた。武揚たけあきは前に幕府にたまわつた四隻及び長鯨ちょうげい美賀保み か ほ神速じんそく咸臨かんりんの運送船を奪ひ、函館はこだておもむき、五稜廓ごりょうかくつて皇命こうめいこうしたのである。この時の皇軍こうぐんは、甲鐵こうてつ(アメリカからの購求後吾妻艦と改名した、當時最優のもの、一二〇〇噸)・春日かすが薩摩藩)・丁卯ていぼう長州藩)・陽春ようしゅん秋田藩)の諸艦、及び豐安ほうあん廣島藩)・戊辰ぼしん(德島藩)・晨風しんぷう久留米藩)・飛龍ひりゅう小倉藩から幕府に上納したもの)の運送船、都合八隻から成り、後軍こうぐんとして朝陽ちょうよう(幕府から上納)・延年丸えんねんまる佐賀藩)が加はつた。皇軍こうぐんは間もなく叛徒はんとを平定して、六月四日に凱旋したが、函館はこだてえきちゅうに失つたものは武藏むさし(品川碇泊中)・朝陽ちょうよう翔鶴しょうかくで、捕獲したものは千代田ち よ だ長鯨ちょうげい咸臨かんりん鳳凰ほうおう立象りっしょう飛隼ひしゅんなどであつた。當時とうじ軍務官所有の艦船は和泉いずみ河內かわち攝津せっつ甲鐵こうてつ富士山ふじさん觀光かんこう千代田ち よ だ咸臨かんりん長鯨ちょうげい鳳凰ほうおう快風かいふう飛龍ひりゅう飛隼ひしゅん開運かいうん立象りっしょうにしかすぎなかつた。

 海國かいこく日本の海防かいぼう、これが重要なのはろんたない。明治三・四年にかけて政府は在來のすべての戰艦をその所有とし、四年には英國から二隻をあがなひ、六年には迅鯨じんげい淸輝せいきを起工し、八年には三百萬圓まんえんの財源を得て英國造船會社かいしゃに新艦三隻(扶桑・金剛・比叡)を註文ちゅうもんし、更に石川島いしかわじま造船所で冲鷹ちゅうよう石川いしかわの二隻を竣工し、我が海軍は著々ちゃくちゃくその偉容いよう形作つたのである。

【大意謹述】新造しんぞう戰艦せんかん淸輝せいき進水式今日こんにち行はれる。これといふのも全く汝等なんじらの努力にるので、ちん滿足まんぞくこの上もない。今後更に盡力じんりょくし、少しも早く申し分なく、全部が完成せんことを深く望む次第である。

【備考】征臺せいだいえきに於ける大隈おおくま重信しげのぶ談話分明わ かる通り、臺灣たいわんへ兵を送出す船が一そうもなかつたといふ有樣ありさまで、明治七年當時とうじの海軍について、大隈おおくまは「海軍は川村かわむら(純義)だつたが、海軍の實質じっしつは無いも同樣どうようであつた」と述べてゐる。日淸にっしん日露にちろ戰爭せんそうて、日本海軍はすばらしい發達はったつをしたが、明治七・八年頃はあまりに見すぼらしい有樣ありさまで、海軍の擴張かくちょうは、焦眉しょうびきゅうだつた。かうした際、淸輝せいきかん進水式擧行きょこうされたのは、人意じんいうするものがあつた。陛下が喜悅きえつせられた御心持おこころもちも、十分拜察はいさつ出來る。