38 大久保利通ニ下シ給ヘル勅語 明治天皇(第百二十二代)

大久保おおくぼ利通としみちくだたまヘル勅語ちょくご(明治七年十一月二十七日)

【謹譯】なんじ利通としみち臺灣たいわん蕃地ばんちきょアルヤ、淸國しんこくおおい葛藤かっとうしょうスルニあたリ、辨理べんり大臣だいじん重任じゅうにん奉往ほうおうシテ、其事そのことセシム。なんじよくちんむねたいシ、反覆はんぷく辨論べんろんつい國權こっけんまっとフシ、交誼こうぎ奉存ほうぞんセシム。これ一ニなんじ誠心せいしんつくシ、とったゆマサルノいたところナリ。ただちんこころやすんスルノミナラス、じつ兆庶ちょうしょ慶福けいふくタリ。其功そのこうだいナリトフヘシ。ちんふかこれ嘉尙かしょうス。

【字句謹解】◯葛藤 紛爭ふんそうの義、〔註一〕參照 ◯辨理大臣 辨理べんりは職務を處理しょりするの義、したがつてここでは日淸にっしん外交事件を處理しょりする大臣の意となる ◯反覆 くり返す事 ◯國權 日本國の權利けんり ◯ 日本が正道せいどう立脚せる義 ◯兆庶 萬民ばんみんに同じ ◯慶福 幸福こうふくぼ同義、けいはよろこびの意。

〔註一〕葛藤 征臺せいだいえきを決行する前、日本政府は明治六年、臺灣たいわん蠻人ばんじん暴擧ぼうきょについて、支那し な談判する事となり、外務卿がいむきょう副島そえじま種臣たねおみ外務がいむ大丞だいじょう柳原やなぎはら前光さきみつと共に、淸國しんこくき、日本に征臺せいだいの意志あることを通告した。ところが淸國しんこくは、一ごんも、臺灣たいわん生蕃せいばんについてはず、ただ琉球りゅうきゅう淸國しんこくの領有するところであることを言明げんめいし、全く日本のふことに耳をかさない。それにたいし、副島そえじま琉球りゅうきゅうのことは、問題にしないで、「生蕃せいばん淸國しんこくの領民かどうか」を問うた。淸國しんこくは、「臺灣たいわん化外かがいたみだ」と答へたので、「では日本から兵をして、これを征服するであらう」と告げ、歸朝きちょうについたのである。

 その後、政府は、再び柳原やなぎはら前光さきみつ淸國しんこくおもむかしめて、臺灣たいわんの事を談判せしめたが、傲慢ごうまんな態度を示して、一こう、相手にしない。これを見て、日本の軍部では激怒し、「一きょ淸國しんこくを攻めて、京城ペキンじょう陷落かんらくさせよう。それには四師團しだんの兵があれば足りる」とひ、大分だいぶ戰時せんじ氣分きぶんが濃厚になつた。が、その際、大久保おおくぼ利通としみちは、日淸にっしん戰爭せんそう早計そうけいと考へ、平和手段により、淸國しんこくを屈服せしめようとしたのである。かうしてれは、明治七年八月、全權ぜんけん辨理べんり大臣に任ぜられ、九月十日、北京に入つた。すぐきょう親王しんのう總理そうり衙門がもんに於て會見かいけんし、臺灣たいわんのことを談判したが、却々なかなかはからぬ。前後七かい會見かいけんも、效果こうかありさうでなかつた。よって大久保は、十月に至り、斷乎だんことして、北京を去らうとした折柄おりから英國公使ウヱエドが調停のろうり、ようや淸國しんこくも日本の要求をれたのである。すなわ淸國しんこくは、琉球りゅうきゅう被害民の撫恤ぶじゅつ費十まんテール臺灣たいわんの道路修築兵營へいえい建設費四十まんテールを出すことをやくし、日本側は、それと共に臺灣たいわん駐屯の兵を引きあげる事とした。

【大意謹述】なんじ利通としみちきに臺灣たいわん生蕃せいばんが日本臣民しんみん暴擧ぼうきょを加へた事件につき淸國しんこく紛爭ふんそうを生じた際、なんじ辨理べんり大臣の重任を授け、北京ペキンいて、全權ぜんけんとして一切のことを處理しょりすべきやう命じた。なんじはよくちんの思ふところをほうじて、支那し な側の態度が不遜ふそんなるにかかわらず、始終しじゅう、日本の正しい立場を繰返して、論述し、結局わが國の權利けんりまっとうすると共に淸國しんこくをして隣交りんこうつくさしめきゅうの如く國交を持續じぞくしてゆく事に取纏とりまとめた。これ皆なんじ始終しじゅう誠心まごころを傾けて、談判盡力じんりょくし、義理のそんするところを固く守つて、少しも屈したゆむことがなかつためである。なんじの成功は、ただに朕を安心せしめたばかりでなく、この問題の成行なりゆき心痛しんつうした國民をも喜ばせた。の功績は大である。朕これをみする。

【備考】當時とうじ淸國しんこくの態度は、最初から日本をあなどつてかかり、なりに非禮ひれいわたつたてんがあつた。が、大久保に先立つて、淸國しんこく使つかいした副島そえじま種臣たねおみは、すこぶ氣骨きこつがあつたので、おおいに日本の立場を擁護ようごし、淸國しんこく皇帝に謁見えっけんせんことを求めた。ところが、淸國しんこく政府は、容易に之を許さぬ。それにたいして、副島そえじま嚴然げんぜんかたちを正し、「いやしくも一國の代表者として、國書こくしょを持つて來てゐるのに、謁見えっけんを許さぬといふことがあるか。許さなければ、斷然だんぜん旗をいてかえる迄だ」と怒鳴つた。これには、流石さすが李鴻章りこうしょうも、大分だいぶ困りぬいて、到頭とうとう副島そえじまの要求をれ、在來ざいらい慣習かんしゅうを破つて、副島そえじまを皇帝に謁見えっけんせしめたのである。英米佛えいべいふつなどの公使も、副島そえじま御蔭おかげにより、始めて謁見えっけんした。したがつて、副島そえじまの名は、淸國しんこくの外交社會しゃかいに知られ、いて國際間に、日本の國威こくい發揚はつようするの結果を招來しょうらいしたことは特筆とくひつあたいする。

 大久保もまた使臣ししんとして全權ぜんけんとして、副島そえじまゆずらぬ立派な態度を淸國しんこくに示した。れは淸國しんこく當事者とうじしゃ談判するにあたり、いつも條理じょうりを立て、沈著ちんちゃく威嚴いげんした。談判がまとまつてからも、彼れは隨員ずいいんきに歸朝きちょうせしめ、自分は、臺灣たいわんに渡つて、西郷さいごう從道つぐみち撤兵てっぺいの事を相談したのち、東京にかえつた。陛下が彼れの功勞こうろう嘉尙かしょうあらせられたのは、以上の功勞こうろうを認められたからである。