37 陸軍中將西郷從道ヲ臺灣蕃地事務都督ニ任スルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

陸軍りくぐん中將ちゅうじょう西郷さいごう從道つぐみち臺灣たいわん蕃地ばんち事務じ む都督ととくにんスルノ勅語ちょくご(明治七年四月五日 岩倉公實記)

【謹譯】臺灣たいわん蕃地ばんち處分しょぶんつきなんじ從道つぐみちめい事務じ む都督ととくタラシム。およ陸海りくかい軍務ぐんむヨリ賞罰しょうばつとうこといたルマテ、スルニ全權ぜんけんもっテス。すなわ委任いにん條款じょうかん遵奉じゅんぽうシ、黽勉びんべん從事じゅうじ成功せいこうそうセヨ。

一、國人こくじん暴殺ぼうさつセシつみヒ、相當そうとう處分しょぶんおこなフヘキこと

一、かれつみふくセサレハ、臨機りんき兵力へいりょくもっこれとうスヘキこと

一、爾後じ ご國人こくじん地方ちほういたとき土人どじん暴害ぼうがいかかラサルよう防制ぼうせい方法ほうほうツヘキこと

【字句謹解】◯臺灣蕃地處分 我が國人こくじんに不都合を働いた臺灣たいわん蕃人ばんじんたいする處置しょち、〔註一〕參照 ◯都督 事務總監そうかんの意 ◯賞罰 こうある者をしょうし、軍規ぐんきたがつた者をする權利けんり ◯委任 まかせる、自由に取扱はせる意 ◯條款 條々じょうじょうの意、これは本勅ほんちょくの最後に記してあるものを指す ◯遵奉 したがひ守る ◯黽勉從事 懸命になつて事にしたがふ ◯臨機 その時々におうじて似つかはしい行動をとる意 ◯防制ノ方法 豫防よぼう手段。

〔註一〕臺灣蠻地處分 明治四年十月に、宮古みやこ八重山やえやまとう琉球)の住民約六十人が臺灣たいわん漂著ひょうちゃくし、獰猛どうもう蠻民ばんみんの手にかかつて大部分が虐殺された。明治六年にも備中びっちゅうの者四人が臺灣たいわん漂著ひょうちゃくして慘虐ざんぎゃく取扱とりあつかいを受けたことがある。我が政府は外務卿がいむきょう副島そえじま種臣たねおみ全權ぜんけん大使たいしとして北京ペキンつかはし、(一)琉球りゅうきゅうが我が領土である事をき、(二)臺灣たいわん蠻民ばんみん處分しょぶんを要求したが、淸國しんこくは(一)を否定し、(二)は臺灣たいわん化外かがいにある地として處分しょぶんおうじない。わが政府はそこで自力につて解決するよりほかがないと考へ、明治七年佐賀のらんが終るのを待つて蕃地ばんち事務局を置き、大隈おおくま重信しげのぶを長官・西郷さいごう從道つぐみち都督ととくとして征臺せいだいの軍を起した。本勅語ほんちょくごはその時たまはつたものである。勿論もちろん蠻民ばんみんは我が敵ではない。諸蕃しょばんかぜのぞんで降參こうさんした。我が戰勝せんしょうの報に接した淸國しんこく支那)は今度は臺灣たいわんわが領土だと主張して、日本の撤兵てっぺいを要求した。われはそれにたいして、改めて大久保おおくぼ利通としみち全權ぜんけん辨理べんり大使たいしとして北京ペキンつかはし、淸國しんこく談判させ、約一ヶ月を費して、

(一)淸國しんこくは五十まんテール償金しょうきん支拂しはらふ事。(二)生蕃せいばんをして今後我が渡航とこうみんに危害を加へさせないやうする事。(三)日本の征臺せいだい保民ほみん義擧ぎきょと認める事。

とう淸國しんこくに承諾せしめ、北京ペキン條約じょうやくを結んで撤兵てっぺいした。當時とうじ、日本側の軍費は七百八十萬圓まんえんを要し、少からぬ財政上の痛手だつたとはれる。

〔注意〕本問題にたいする勅語ちょくごとしては、本勅ほんちょくほかに、

(一)陸軍少將たに干城たてき・海軍少將赤松あかまつ則良のりよし臺灣たいわん蕃地ばんち事務參軍さんぐんにんスルノ勅語ちょくご(明治七年四月六日、法規分類大全)(二)大久保おおくぼ利通としみちニ下シ給ヘル勅語(明治七年八月五日、岩倉公實記)(三)司法省しほうしょうやとい佛國人ふつこくじん「ボアソナアド」ニ下シ給ヘル勅語(明治七年八月五日)(四)西郷さいごう從道つぐみち凱旋がいせんめいスルノ勅語(明治七年十一月十二日、岩倉公實記)(五)米國べいこくじん甲世爾リセンドル」ニ下シ給ヘル勅語(明治七年十一月十五日)(六)臺灣たいわん辨務使べんむし支那人しなじん仙得せんとくニ下シ給ヘル勅語(明治七年十一月十五日)(七)佛國人ふつこくじん「ボアソナアド」ニ下シ給ヘル勅語(明治七年十一月十九日)(八)柳原やなぎはら前光さきみつニ下シ給ヘル勅語(明治七年十一月二十五日)(九)大久保おおくぼ利通としみちニ下シ給ヘル勅語(明治七年十一月二十七日、三條實美公年譜)(十)西郷さいごう從道つぐみち凱旋がいせんさい下シ給ヘル勅語(明治七年十二月二十七日、三條實美公年譜)

などがある。

【大意謹述】ちん今囘こんかい臺灣たいわん生蕃地せいばんち處分しょぶんすに就て、なんじ從道つぐみちを軍事都督ととくに任命する。つ陸海軍の軍務一切、及び賞をあたへ罰を加へる臨時の全權ぜんけんなんじあたへる。ゆえに早速後述こうじゅつする條々じょうじょうしたがひ、おこたらず事を勤め、十分な成功ををさめるやうに致せ。

一、生蕃せいばんには我が國人こくじん虐殺した責任者を出させ、損害におうじた程度の處分しょぶんをすること。

二、生蕃せいばんがその處罰しょばつおうじなかつたならば、時と場合とにしたがひ、兵力を使用して征討せいとうしても差支さしつかえないこと。

三、今後我が國人こくじん臺灣たいわん渡航しても、生蕃せいばんの虐殺の暴行に苦しめられないやう豫防策よぼうさくを立てること。

【備考】臺灣たいわんと日本の交渉は、江戸時代の始めから、相當そうとうに密接なてんがあつた。德川とくがわ家康いえやすは、臺灣たいわんと通商を開始しようといふ考へから、肥前ひぜん日野江ひ の え城主じょうしゅ有馬ありま晴信はるのぶに命じて、臺灣たいわん探檢たんけんせしめた。つて晴信はるのぶはそのしん千々岩ち ぢ わ釆女うねめを派遣したところが、蠻人ばんじんのために苦しめられ、中には殺されたものもあつた。千々石ち ぢ わらはひどくいかつて、蠻人ばんじん數名すうめい生捕いけどつたことがある。それから元和げんな元年に至り、家康は、長崎の代官村山むらやま東菴とうあんに命じて臺灣たいわん討伐とうばつを決行せしめた。その際、東菴とうあんは一部を占領したことがある。そののち濱田はまだ彌兵衞や へ え渡臺とだいして、勇名ゆうめいをあげたこともあつて、臺灣たいわんと日本との交渉はなりに密接だつた。

 征臺せいだいえきは、有馬ありま晴信はるのぶ臣下しんか蠻人ばんじんに殺された當時とうじのことを想ひ出さしめる。が、その動機は、單純たんじゅんでなく、征韓論せいかんろん破裂の餘波よ はによると同時に、不平士族しぞくの心を外に向つててんぜしめようとする事にもよる所があつた。一たい士族しぞくの立場は當時とうじ彼等自身の考へからすれば、有利でなかつたともへる。昔は農工商のうこうしょうの人々よりも上位を占め、武人ぶじんとしての封祿ほうろくを受けて、安易あんいに生活し、兩刀りょうとうびて大道だいどう濶歩かっぽするといふ風だつたが、明治の新政と共に四みん平等びょうどうとなり、いで徵兵令ちょうへいれいによつて、一層、その存在の影をうすくした。むなく實業じつぎょうてんずると、「士族の商法」でおおむね失敗し、廢刀令はいとうれいも行はれようとするに至つては、木から落ちた猿の如く、失意の度がはなはだしい。それから來た不平が佐賀のらんその他を激發げきはつする一因ともなつた。たまたまその表面の口實こうじつ征韓論せいかんろん乃至ないし國粹こくすい運動にりたのだともへよう。

 以上の如き空氣が濃厚であつたから、政府においてもいろいろと考へた。恰度ちょうど、そこへ臺灣たいわん蠻人ばんじん邦人ほうじん虐殺ぎゃくさつ事件が起つたので、これを理由に征臺せいだいえきを起し、士族しぞくの不平を消散しょうさんせしめようとした。が、それについて最も反對はんたいしたのは木戸き ど孝允たかすけで、內治ないち主義の上から、きに征韓せいかん反對はんたいして置きながら、今となつて、征臺せいだいきょを行ふのは矛盾だと考へたからである。けれども大久保おおくぼ利通としみちは、木戸の純理じゅんり主義とちがつて、變通へんつう主義だから、征臺せいだいえきを起しても差支さしつかえないと信じた。こんな具合で木戸と大久保との間に意見の衝突があつたが、岩倉いわくら具視ともみの大久保支持より到頭とうとう征臺せいだいえき實現じつげんするやうになつた。その際、木戸は憤然ふんぜん辭職じしょくして、長州ちょうしゅう歸臥き がしたのである。

 ところが、ここ征臺せいだいのことについて、イギリス及びアメリカから抗議が出た。その事については、當時とうじ臺灣たいわん事務局長官だつた大隈おおくま重信しげのぶの談話がある。それには、種々しゅじゅの事情を述べ、「兵を出す迄は、我輩わがはいの責任だが、・・・サア兵を出さうとふのに船が一そうもないといふ始末だ。三千五六百の兵を送り、これに兵器・彈藥だんやく馬匹ばひつを送らなければならぬので、其頃そのころとしては大變たいへんなんである。其處そ こでいろいろ苦心して、英米の船を借りるといふ事にした。ところが、愈々いよいよきまつたと思ふと、英米から臺灣たいわん支那し なの領地だ、これに兵を出すは不都合だとふので、英公使ハリイ・パアクス、米公使ジヨオジ・ビンガムを以て、英米は中立だといふ口實こうじつで船長に命じて船を出すことを中途でめた。サア大變たいへん愈々いよいよ絕對ぜったい絕命ぜつめいといふ場合で、トウトウ我輩獨斷どくだんで、の頃太平洋がよひをして居た米國飛脚船ひきゃくせん等五六せきを買ふことにした。當時とうじ我輩大藏卿おおくらきょうとして財政けんを持つて居たので、專斷せんだんで政府の金をほしいままにし、これを支出したといふので、非常な彈劾だんがいこうむつた。あやう進退しんたいうかがひを出さなければならぬ所だが、すで乘船じょうせん仕度したくととのうたる、間髪かんぱつれざる場合であるから下手に中止しようものなら、軍隊內に不平・內亂ないらんが起りさうな形勢である。第一西郷さいごう(從道)が一こううなずきはしない。平生へいぜいでも此方こっちあまり人望の無い方で、其處そ この始末だから、攻擊こうげきの火の手は益々ますます高まつたが、形勢かくの如しで、我輩だんじてこれをかず、の際果斷かだん決行にかずとなした。其處そ こで大久保は態々わざわざ太政官から長崎に我輩に差止めにやつて來たが、我輩は極力の際、果斷かだんの必要なるをいて、トウトウ大久保が一番に同意してくれた」と語られてゐる。

 以上のやうな形勢で、外務省は、征臺せいだいえきたいして氣乘き のりせず、陸軍のみは、强硬きょうこうな態度を示した。したがつて西郷さいごう從道つぐみち躊躇ちゅうちょ逡巡しゅんじゅんはいし、眼中がんちゅうすでに英米なく、淸國しんこく(支那)なく、「ただ征臺せいだいのことを敢行かんこうするのみだ」といふ意氣い きで、「淸國しんこくが異議を唱へたら、我輩らを國政こくせいに服しない脫徒だっととせよ」と豪語ごうごし、五月二日、長崎出發しゅっぱつ、全軍をしたがへて、臺灣たいわんに向つたのである。その結果、連勝したことは、ふ迄もない。かくしてれは、臺灣たいわん事務都督ととくとして、立派にその任務をまっとうし、陛下の御信任ごしんにんに答へまゐらせたのであつた。