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36-1 嘉彰親王ヲ征討總督ニ任スルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

嘉彰よしあきら親王しんのう征討せいとう總督そうとくにんスルノ勅語ちょくご(第一段)(明治七年三月一日 佐賀征討日誌)

【謹譯】ちんさき佐賀さ が縣下けんか士民しみん嘯集しょうしゅうキ、內務卿ないむきょう大久保おおくぼ利通としみちつかわシ、これ鎭靜ちんせいセシメントほっス。しかルニ益々ますます暴逆ぼうぎゃくたくましウシ、みだり凶器きょうきろうシ、つい王師おうしこうスルニいたル。つみうたセサルカラス。

【字句謹解】◯曩ニ 以前に ◯佐賀縣下士民嘯集ヲ聞キ 嘯集しょうしゅう惡人あくにんが仲間を呼び集めること。これは江藤えとう新平しんぺいの佐賀のらんの意。詳しくは〔註一〕參照 ◯內務卿 今の內務ないむ大臣のこと。神社・地方行政・議員選挙・警察・土木・衞生えいせい・地理・宗敎・出版著作けん賑恤しんじゅつ及び救濟きゅうさい等にかんする事務を取り扱ふ長官 ◯大久保利通 明治維新けつの一にん。〔註二〕參照 ◯鎭靜 とりしづめる ◯暴逆ヲ逞ウシ 傍若ぼうじゃく無人ぶじんに人々を苦しめたり殺したりする ◯凶器ヲ弄シ 大義たいぎ名分めいぶんかえりみず、武器を勝手に振廻ふりまわす ◯王師ニ抗スル 皇軍こうぐんに反抗する。

〔註一〕佐賀縣下士民嘯集ヲ聞キ 佐賀のらんは、明治七年に江藤えとう新平しんぺいが佐賀縣下びけんかで行つた叛亂はんらんをいふ。最初征韓論せいかんろんに破れた失意の新平しんぺいは、辭職じしょくして佐賀にかえつたが、明治七年一月に民選みんせん議院ぎいん建立けんりゅうさんし、政府の改革を促さうとした。時に佐賀の人々の多くが現政府に不平を持つてゐたので、新平はその人々にようせられ、不平派の率先として兵をげたのである。當時とうじれは、しま義勇ぎゆうなどとがっして、約二千五百人の軍勢ぐんぜいを率ゐ、二月一日には軍資ぐんしとして小野お の商會しょうかい財物ざいぶつ掠奪りゃくだつした。朝廷では早速熊本及び佐賀近傍きんぼう鎭臺ちんだいに命じて兵を出さしめ、大久保おおくぼ利通としみちしょうとし、のちにこの勅書ちょくしょにあるやうに、二ほん親王しんのう仁和寺にんなじのみや嘉彰よしあきら親王しんのう征討せいとう總督そうとくに命ぜられた。賊軍ぞくぐんは同十五日に佐賀縣廳けんちょうを襲つたものの、新しく訓練された兵士と新兵器との威力にはこうし得ず、總督そうとくが未だ戰地に至らない前に敗走した。新平は事の成らないのを知るや、鹿兒島かごしまにある西郷さいごう隆盛たかもりもとはしつたがれられず、土佐に渡つて逮捕され、しまと共に梟首きょうしゅの刑を受けた。

〔註二〕大久保利通 大久保おおくぼ利通としみち幼名ようめい正助しょうすけのちに一ぞうと改め、甲東こうとうごうした。鹿兒島かごしま藩士はんしで、明治維新の際には政權せいけんの返上、藩籍はんせき奉還ほうかん廢藩はいはん置縣ちけんなどについ大功たいこうあり、のち歐米おうべい巡廻じゅんかい歸朝後きちょうご征韓論せいかんろん反對はんたいして、征韓せいかん派一味を排除した。當時とうじれは內務卿ないむきょうとして最も羽振はぶりがよく、西南せいなんえきには、舊友きゅうゆう西郷さいごう隆盛たかもりと敵味方に分れて、之を鎭壓ちんあつし、朝廷から金帛きんぱくたまはつた。ところが、明治十一年五月十四日、島田しまだ一郞いちろうのために東京赤坂の紀尾井き お いざかで暗殺された。時にとし四十八。朝廷ではその生前のこうみせられてしょう右大臣を贈り、靑山あおやま墓地にほうむつた。

〔注意〕明治政府に反對はんたいした者にきゅう幕臣ばくしんがあつたが、それはいたずらに過去の感情に支配され、將軍を無上むじょうのものと考へた人々で、朝廷としてもそれ程の苦勞くろうなく鎭壓ちんあつ出來た。第二は新政府の政策に反對はんたいし、武官ぶかんとして文官ぶんかん對立たいりつした人々で、ややともすれば政府の基礎をゆるがすだけの力があつた。ゆえに朝廷でも全力をつくして、その鎭定ちんていに努力したのである。明治七年の佐賀のらんあたつて、政府がわずか二千五百の叛徒はんとにどれ程の注意を向けたかは、何よりも當時とうじの諸勅語ちょくごあきらかに之を物語つてゐる。次にそれらを年代順にならべる。

(一)出征しゅっせい近衞このえ第二聯隊長れんたいちょう大隊長だいたいちょうニ下シ給ヘル勅語ちょくご(明治七年二月二十七日、佐賀征討日誌)(二)嘉彰よしあきら親王しんのう征討せいとう總督そうとくにんスルノ勅語(明治七年三月一日、佐賀征討日誌)(三)陸軍中將山縣やまがた有朋ありとも・海軍少將伊東いとう祐麿すけまろヲ佐賀けん賊徒ぞくと征討せいとう參軍さんぐんニ任スルノ勅語(明治七年三月一日、同上)(四)陸軍少將山田やまだ顯義あきよしニ下シ給ヘル勅語(明治七年五月二十一日)(五)陸軍少將野津の づ鎭雄しずおニ下シ給ヘル勅語(明治七年五月三十一日)(六)佐賀けん士族しぞく前山まえやま精一郞せいいちろうニ下シ給ヘル勅語(明治七年五月三十一日)(七)參謀さんぼう陸軍少佐渡邊わたなべひさしニ下シ給ヘル勅語(明治七年五月三十一日)(八)第四大隊長厚東こうとう陸軍少佐・第十大隊長茨木いばらぎ陸軍少佐・第十一大隊長和田わ だ陸軍少佐ニ下シ給ヘル勅語(明治七年五月三十一日)

【大意謹述】ちんは先日らい、佐賀けんに於ける一部士民しみんが、とうを集めて騒ぎ立て、我が朝廷の方針に反對はんたいしたと聞き、ここ內務卿ないむきょう大久保おおくぼ利通としみちつかわして、それをしずめさせようとした折柄おりから者共ものどもは以前よりも一層亂暴らんぼうを働き、何の許可もなく、武器を手にして皇軍こうぐん敵對てきたいするに至つたとの報に接した。ことここに至つてはつみまさに死に相當そうとうするので、如何い かなる手段をつても、討ち滅ぼさなくてはならない。

【備考】佐賀のらんは、征韓論せいかんろんの破裂に根ざしてゐるが、更に政治上から、よく考察すると、つまり明治政府に於けるさつちょうの勢力均衡きんこうが破れ、文治ぶんち派と武斷ぶだん派、內治ないち派と外征がいせい派との衝突した火花の中から生じたものとも見られる。江藤えとう新平しんぺいは、佐賀の武斷ぶだん派、外征がいせい派を代表した一英傑えいけつで、しかれ自身は、輕擧けいきょ妄動もうどうすことをはじめから好まなかつた。けれども彼れの郷黨きょうとうは、しきりに江藤をかつぎ、つその歸國きこくを促してやまない。當時とうじ、彼れが周圍しゅういの形勢に餘儀よ ぎなくされて、歸國きこくしようとした時、切にこれをとどめたのは、同郷の友人、大隈おおくま重信しげのぶだつた。けれども江藤は、その懇切こんせつ忠言ちゅうげんに感謝しながらも郷黨きょうとう鎭撫ちんぶしようと考へ、歸國きこくしたのである。ここに至つて、ミイラりは、みずからミイラとなつた。江藤は、少壯しょうそう血氣けっきの人々にようせられ、いやでもおうでもたなければならぬ運命の上に置かれたのである。しかも彼れがたのみとした征韓派せいかんは西郷さいごうは容易に起たぬ。板垣いたがきは最初から江藤とことなつた方向にこころざした。こんな具合で、江藤はづ時代の犠牲者となつてしまつた。彼れは、擧兵きょへいを希望せずにゐながら、結果は、擧兵きょへいの中心人物とされてしまつたのである。彼れの豫期よ きせぬ行動が、陛下の宸襟しんきんなやましたてまつつたことは、彼れの最も苦痛としたところであらうと思ふ。