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34 徵兵令制定ノ勅語  明治天皇(第百二十二代)

徵兵令ちょうへいれい制定せいてい勅語ちょくご(明治五年十一月二十八日 太政官日誌)

【謹譯】ちんおもんみルニ古昔こせき郡縣ぐんけんせい全國ぜんこく丁壯ていそうつの軍團ぐんだんもうもっ國家こっか保護ほ ごス。もとヨリ兵農へいのうわかちナシ。中世ちゅうせい以降いこう兵權へいけん武門ぶもんシ、兵農へいのうはじメテわかレ、つい封建ほうけんス。戊辰ぼしんノ一しんじつニ千ゆう年來ねんらいノ一だい變革へんかくナリ。さいあたリ、海陸かいりく兵制へいせいまたときしたがよろしきせいセサルヘカラス。いま本邦ほんぽう古昔こせきせいもとづキ、海外かいがい各國かっこくしき斟酌しんしゃくシ、全國ぜんこく募兵ぼへいほうもうケ、國家こっか保護ほ ごもといテントほっス。なんじかん有司ゆうしあつちんたいシ、あまね全國ぜんこく告諭こくゆセヨ。

【字句謹解】◯徵兵 國家が國中くにじゅう一般の成年男子から徵集ちょうしゅうして、一定の期間兵役へいえきに服せしめること ◯惟ルニ 深く考へること ◯古昔郡縣ノ制 昔郡縣ぐんけん制度の設けられてゐた時のこと。〔註一〕參照 ◯丁壯 壯年そうねんの若者 ◯軍團ヲ設ケ 軍隊を編制する。〔註二〕參照 ◯兵農ノ分ナシ 兵士と農夫との區別くべつはなかつた ◯中世以降 奈良平安朝以後、この事情に就いては『陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭ちょくゆ』(明治十五年一月四日、官報)に詳細をつくされてある ◯兵權 軍隊を指揮する權力けんりょく ◯武門に歸シ 武士の手に握られる。〔註三〕參照 ◯封建ノ治 一君主の治下ち かに領地をあたへられた世襲せしゅう諸侯しょこうが、る程度まで自治を以て領內を支配する政治。我が國では德川とくがわ家康いえやすの時に至つて完成された ◯戊辰ノ一新 戊辰ぼしん明治元年、一しんは政治上の一大改革である。明治天皇御手み てつた王政おうせい復古ふっこの意 ◯制ス 定める。

〔註一〕古昔郡縣ノ制 我が國の郡縣ぐんけん制度は、大化たいか改新かいしんの時に定められたが、大寶律令たいほうりつりょう成つて政治的に完成し、徵兵ちょうへいの制度もこの時に定められた。

〔註二〕軍團ヲ設ケ 軍團ぐんだんすなわち軍隊の性質は、諸國からの正丁せいてい(二十一歳から六十歳までの人民)の三分の一を交互に上番じょうばんさせ、一年間は京師けいしにあつて宮門きゅうもんを守り、三年間は西海さいかいの防備のために派遣された。この編成は五人をとし、十人をだい、五十人をたい、百人をりょとするのが原則で、一だん千人が規定である。出征しゅっせいの時には三千人以上には將軍・副將軍・軍艦・軍曹ぐんそう及び錄事ろくじを任命し、五千人以上、一まん人以上には副將軍以下の定員をして、これを一軍としょうした。更に三軍が出征すれば、將軍の上に大將軍だいしょうぐんを置く。

〔註三〕武門ニ歸シ 奈良朝以後、國司こくしの私欲がつのつて人民を苦しめた結果、盗賊が續出ぞくしゅつし、諸國からの徵兵ちょうへいでは間に合はなくなつた。そこで光仁こうにん天皇寶龜ほうき十一年には富裕の農夫中から弓馬きゅうば巧者こうしゃな人々を徵發ちょうはつし、その他は皆のうかえらせるやうになり、大寶令たいほうれいに設けられた徵兵ちょうへいの制度は募集兵となり、兵士は富める家から出て專門化せんもんかし、やがて武士が出現して、兵農へいのう分離するに至つたのである。

〔注意〕幕末の頃、長崎の高島たかしま秋帆しゅうはん・伊豆の江川えがわ太郞左衞門たろうざえもんなどの努力につて西洋式訓練方法が輸入されたが、各藩一致して行ふまでにはかなかつた。明治維新と共に王政おうせい復古ふっこされ、新政府は明治三年十一月、徵兵ちょうへい規則を定め、一萬石まんごくつき、五人の割合で大阪兵部省ひょうぶしょう常備兵じょうびへいしたが、ゆえあつて全部を歸休ききゅうせしめた。これより先我國の徵兵ちょうへい制度について非常に苦心した大村おおむら益次郞ますじろうは、ヨオロツパ諸國の制にならつて四みん平等に之をてはめるべきであるとの意見を上奏じょうそうした。この事は武士の常職じょうしょくを解く事となるから、却々なかなかの難事で、士族しぞく反對はんたいが最も多い。つて差當さしあたり京都に兵學寮へいがくりょうを作り、將士しょうし養成に著手ちゃくしゅしたが、そのめ、大村は刺客しかくの手にたおれるといふ悲劇を生じた。いで朝廷では明治二年六月に山縣やまがた有朋ありとも西郷さいごう從道つぐみちを軍事視察のためヨオロツパに派遣し、その歸朝後きちょうご、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式に改めた。明治四年につて御親兵ごしんぺいの編制あり、同年四月二十三日に朝廷では東北・西海さいかいどう鎭臺ちんだいを置き、前者を石卷いしのまきに、後者を小倉こくらに置いて不虞ふ ぐに備へたが、廢藩はいはん置縣ちけん斷行だんこうのちに之をはいし、國防こうぼう軍備の新制をくの必要にせまられた。すなわづ東京・仙臺せんだい・大阪・熊本に各鎭臺ちんだいを置いて兵馬へいばけんを朝廷におさめた。當時とうじ士卒しそつ舊藩きゅうはん士族しぞくからつのり、平民は加らなかつたのである。

 明治五年二月二十八日に、朝廷では兵部省ひょうぶしょうわかつて陸海軍二しょうとし、三月には近衞兵このえへいを置くことにした。この時に新たに陸軍大輔たゆう近衞このえ都督ととくに任ぜられた山縣やまがた有朋ありともは、再び大村の意見を上奏じょうそうし、遂にそれがれられて本勅ほんちょくはっせられ、いで徵兵令ちょうへいれい發布はっぷされた、そして明治六年一月九日には鎭臺ちんだいを置く場所を東京・仙臺せんだい・名古屋・大阪・廣島ひろしま・熊本と改めた。

【大意謹述】かえりみるに我國わがくに古代に郡縣ぐんけんの制度がかれた際には、全國から二十一歳以上六十歳以下の靑年せいねん及び壯者そうしゃ召集しょうしゅうし、軍隊を組織して國家をまもつたのである。當時とうじ勿論もちろん武士と農夫との區別くべつはなかつた。それが奈良・平安朝をるにしたがつて、天下の武權ぶけんことごとく武士の手に握られ、始めて武士・農夫が各自分業的に區別くべつさるるに至り、結局、一君主のもと諸侯しょこう自領じりょうを支配するといふ封建ほうけん政治となつた。明治元年王政おうせい復古ふっこじつにこの封建制を打破つたもので、政治上一千年弊風へいふうを打開した一大改革である。ゆえにこの時にあたつては、時世の變化へんかと共に陸海軍の兵制もまた、それにおうじた方法をらなくてはならない。ちん今囘こんかい、我國古代の制度を基礎として、諸外國の方法を參照さんしょうし、全國から身分の如何いかんかかわらず、一定の年限ねんげんだけ兵役へいえきの義務に服させる人々を召集しょうしゅうする制度を設け、國家を保護する土臺どだい申分もうしぶんなく立てようと考へる。汝等なんじら一般の官吏かんり及びその方面に從事じゅうじするものは、朕の意をよく了解して、全國すべてに徹底させる方法をとつてほしい。

【備考】徵兵令ちょうへいれい發布はっぷの事については、山縣やまがた有朋ありとも自記じ きするところに、詳細をつくしてゐる。最初、山縣やまがたが、歐洲おうしゅうを視察した時、陸軍は、ドイツ式を可としたが、更に審議して、フランス式としたのである。それから軍服は、大阪兵學寮へいがくりょう調査の式に一定し、大阪操練そうれんの兵士に著用ちゃくようさせ、次第にこれを諸藩に及ぼした。當時とうじ徵兵令ちょうへいれいもとづく新制度については、士族しぞく側において、これを理解せず、「農工商のうこうしょう子弟してい兵役へいえきに服しても、物の役に立たぬ」とし、農工商の子弟もまた兵役の義務について、了解するところがなかつた。したがつて、兵員補充については、少からぬ苦心がともなつたのである。けれども後に、佐賀・萩・熊本・鹿兒島かごしま戰亂せんらんあたり、訓練されたので、徵兵ちょうへい制度のこうおおいに現はれた。ここに至つて世上せじょういずれもこれを正當せいとうに理解するやうになつたのである。

 思ふに、徵兵令ちょうへいれいの意義にかんして、太政官だじょうかん告諭こくゆくところは、最も適切である。それにおいて、「これ上下を平均し、人權じんけんせい一にする道にして、すなわ兵農へいのうを合一するもといなり。ここに於て、さむらい從前じゅうぜんさむらいにあらず、民は從前じゅうぜんの民にあらず。ひとしく皇國こうこく一般の民にして、國に報ずるの道も、もとよりべつなかるべし」と確言かくげんしてあるてんは、兵事史へいじしの上に一しん紀元きげんすもので、農工商の人々も、護國ごこくの上では、昔の武士にかわらぬ奉仕をすと同時に、兵農へいのう合一のみならず、兵商へいしょう合一、兵工へいこう合一といふ意味迄、擴大かくだいされた。これでこそ、擧國きょこく護國ごこくしん意義を具體化ぐたいかしたとへる。この大英斷だいえいだんは大村・山縣・西郷(從道)らの貢獻こうけんにもよるが、明治天皇におかせられて、時勢じせい進運しんうん明察めいさつせられ、山縣の上奏じょうそう嘉納かのうあらせられたことが、國家にさいわひしたのである。