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33-1 德川幕府親征ノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

德川とくがわ幕府ばくふ親征しんせい勅語ちょくご(第一段)(明治元年二月二十八日 太政官日誌)

【謹譯】ちんつと天位てんいキ、今日こんにち天下てんかしんときあたリ、文武ぶんぶ公議こうぎ親裁しんさいス。國威こくいりゅう不立ふりゅう蒼生そうせいあん不安ふあんハ、ちん天職てんしょくつくつくサスニレハ、日夜にちや寢食しんしょくやすンセス、はなは心思しんしろうス。ちん不肖ふしょういえどモ、列聖れっせい餘業よぎょう先帝せんてい遺意い い繼述けいじゅつシ、うち列藩れっぱん百姓ひゃくせい撫安ぶあんシ、そと國威こくい海外かいがいかがやかサンことほっス。

【字句謹解】◯夙ニ天位ヲ紹キ 早く卽位そくいされたこと。天位てんい萬世ばんせいけいの地位。明治天皇は我が國未曾有み ぞ う國難こくなん當面とうめんされつつ、慶應けいおう三年正月に、御年おんとし十六で卽位そくいあそばされた ◯天下一新ノ運 王政おうせい復古ふっこの意。長い武家政治の終末を受けて、再び、天皇御親政ごしんせいの時を得られたから、天下を全然新らしく改められたと言はれたのである。〔註一〕參照 ◯膺リ 引き受けること ◯文武一途 文官ぶんかん武官ぶかんの差異なく、天皇直屬ちょくぞくしんとなる意、有名な『五箇條かじょう御誓文ごせいもん』中に「官武かんぶ庶民しょみんニ至ル迄、各々おのおのこころざしケ、人心じんしんヲシテサラシメンコトヲ要ス」(『思想社會篇』参照)とある ◯親裁 政務について天皇みずから最後の決定をされること ◯國威ノ立不立 國家の威力を中外に輝すかいなか ◯蒼生ノ安不安 國民が生活に安堵あんどするかいなか。蒼生そうせいとは所謂いわゆる「あをひとぐさ」の意で、草の茂つて多いことから國民をたとへたのである ◯天職 天照大御神あまてらすおおみかみから受けいだ天皇としての責任のこと、〔註二〕參照 ◯日夜 ひるも夜も、常にの意 ◯寢食ヲ安ンセス 常に國政こくせいの方面が氣になつて、ゆつくりと食事をしたり、睡眠することが出來ないこと、寢室しんしつに入つても、食事をする時にも、國威こくいはどうか、(外交關係)國民はどうか、(內政關係)と心がけられる意 ◯心思ヲ勞ス 他に何事も考へず、この二てんだけに心の全部を打ちこむ ◯不肖 親に似ないの意、これは言ふまでもなく御謙遜ごけんそん御言葉おことばである ◯列聖ノ餘業 過去に於ける代々の天皇の御仕事 ◯先帝 孝明こうめい天皇を指したてまつる ◯繼述 そのまま受けついだ姿を發展はってんさせる ◯列藩 諸大名の意。諸侯しょこう版籍はんせき奉還ほうかんは明治二年六月十七日に行はれたのだから、未だこの時は各はんは存在した ◯百姓 一般國民のこと ◯撫安 不平のないやうに仁政じんせいを以て治める。

〔註一〕天下一新ノ運 我國に於ける武家政治は、建久けんきゅう三年(皇紀一八五二年)七月、源賴朝みなもとのよりとも征夷せいい大將軍たいしょうぐんに任ぜられ、幕府を開いた時から始まる。外見上あだかも國に二王が存在するやうになつたのである。これが日本の建國けんこく精神せいしんに反するのは當然とうぜんで、そののち北條ほうじょう足利あしかがの二氏をて、久しい戰亂せんらんを德川氏の手で平定し、將軍は依然として武家政治を行つた。かうして幕府は三百年間、天下を支配した。それにたいし、代々の天皇王政おうせい復古ふっこおこころざし志を持たれながら容易に實現じつげんされず、その時機の來るのを待望されてゐた。江戸末期の內憂ないゆう外患がいかんあたり德川幕府は無能振むのうぶりを暴露したので、士民しみん信賴しんらいは地にち、孝明こうめい天皇御世み よに及んで、遂に天皇親政しんせいの時代を早める事になつた。その結果、明治維新となつたのである。我國近世史上これ程の政治的な變化へんかはない。じつに天下は新しく改造されたのである。この意味で「天下一新」とはたんなる修辭上しゅうじじょうの句でないことがわかる。

〔註二〕天職 天職てんしょくの語は、最初支那し な儒敎じゅきょう思想によつたから、日本精神せいしん支那に由來するとく學者もある。これは言葉と思想とは決して變化へんかさせ得ないものだとする誤謬ごびょうで、天にたいする意味が、支那と日本と全然ことなつてゐるのを知らない者の意見である。支那ふ天は、漠然とした陰陽いんよう思想にもとづく上天じょうてんを指すが、日本では高天原たかまがはらを指し、支那では正體しょうたいの分からない天帝てんていを天の主宰者しゅさいしゃとするに反して、日本では皇室の御先祖であらせられる天照大御神あまてらすおおみかみを意味する。支那の天帝が下す天命てんめいとは、天下を平定し、國民を安定させる者なら誰にでも下る性質のものだが、日本のはさうでない。神勅しんちょくにある通り、天照大御神あまてらすおおみかみの御子孫に限られる。決して支那のやうにぎょうでもしゅんでも、でも、又は武王ぶおうや、始皇帝しこうていのやうな者でも差支さしつかえないといふのではない。だから、この勅語ちょくご天職とは、高天原たかまがはらにまします天照大御神あまてらすおおみかみから授け給はつた日本の統治けん及び道義どうぎを以て世を治めてゆくの意で、天職といふ語が支那から出ようとも、その內容は全くことなるのである。勅語ちょくご拜讀者はいどくしゃは、その相違そういを知らねばならない。

〔注意〕明治めいじ維新いしん遠因えんいんとしての國學こくがく水戸み とがく發達はったつ近因きんいんとしての內憂ないゆう外患がいかん、それにたいする幕府の無力、勤王きんのう志士し しの努力などは他の場合にゆずり、ここではこの勅語ちょくご發布はっぷされた背景となる政治事情を略述する。幕末に於ける幕府の無力は、諸藩しょはん血氣けっきに燃える若き志士し しを動かし、朝廷と結びつけた。岩倉いわくら具視ともみ三條さんじょう實美さねとみなどが中心となり、薩摩さつま西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ利通としみち長州ちょうしゅう木戸き ど孝允たかすけ廣澤ひろざわ兵助へいすけ土佐と さ坂本さかもと龍馬りょうまなどと計り、いよいよ慶應けいおう三年十月に倒幕とうばく密勅みっちょく薩長さっちょうはんに下るまで事が進行した。しかし倒幕はいたずらに人命を損し、國民を苦しめるのが目的ではない。平和のうち政權せいけん授受じゅじゅが行へれば、これに越した事はなく、一方、何といつても三百年近く君主として政權せいけんを握つた德川氏を一ちょう朝敵ちょうてきとするのはあまりに無慈悲であるとの考へが坂本龍馬らの頭にあり、同藩の後藤ごとう象二郞しょうじろうの賛成を得て、前藩主山內豐信やまのうちとよのぶにこの事を建言けんげんした。豐信とよのぶも之を良策として岩倉具視に計り、慶應けいおう三年十月四日、將軍家にたいして建白書けんぱくしょ捧呈ほうていした。時の將軍慶喜よしのぶは德川代々の將軍中で賢明な人物であつたので、他方から薩州さっしゅう小松こまつ帶刀たてわき慫惥しょうようもあり、深く時世をも考慮して、ここに一大決心のもとに、十四日に上表じょうひょうして大政たいせい奉還ほうかん奏請そうせいしたのである。ちやうどそれは薩長さっちょう討幕とうばく密勅みっちょくはいしたのと同日である。朝廷では翌日ただちに奏請そうせいを許し給うたので、江戸幕府はここに終末を遂げた。

 王政おうせい復古ふっこと決定すると、朝廷では卽時そくじに各種の改革を行つたが、當時とうじ京都の二條城にじょうじょうに居た慶喜よしのぶは少しもそれにあずからなかつた。諸大名の多くは未だ時世の進展を理解せず、王政復古を薩長所爲しょいとして不快に思つてゐた結果、そのある部分のものはただちに慶喜に同情し、翌明治元年正月、大阪城に退いた慶喜ようして、會津あいづ藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもり桑名くわな藩主松平まつだいら定敬さだあき討薩とうさつの名目で入京しようとしたが、さつちょうげいはんのためにこばまれ、鳥羽と ば伏見ふしみの決戰でおおい幕兵ばくへいは破れた。ここに慶喜朝敵ちょうていの名を得て、容保かたもり定敬さだあき等と共に江戸に逃れ、朝廷からは堂々と討幕軍を進めることになつた。江戸の慶喜追討ついとうするため皇軍こうぐんたまうたのが、この勅語ちょくごである。その後例の江戸城明渡あけわたし、奥羽おううたたかい函館はこだてたたかいなどをて、維新の戰亂せんらんは全くみ、海內かいだいは平定にした。

【大意謹述】ちんは若くして皇位こういき、今日こんにち、天下一しん機運きうんじょうじて、政治狀態じょうたいを全然改革して王政おうせい復古ふっこし、文武ぶんぶりょう方面を統一し天下の政務をみずか決裁けっさいすることとした。ゆえに今後日本の威勢いせい益々ますますさかんになるかいなか、國民の生活が安全となるか否かは、全く天照大御神あまてらすおおみかみから引きいだ天皇としての責任を朕がつくすか盡さないかにかかつてゐる。それ故ひるは食事をる間も、夜は寢殿しんでんに入つてからも、少しも、この二を忘れたことがなく、常にそれが氣がかりとなつてゐる。朕は父君の御聰明ごそうめいには及ばないが、御代々おんだいだい天皇の御仕事及び先帝せんてい御志おこころざしをそのままの姿で發展はってんさせ、內政ないせい方面では各藩の人民を不平なきやう治め、外交方面では我が國威こくいを海外に輝さなくてはならないと切に思ふ。

【備考】當時とうじは、最も困難な時代で、し朝廷において一歩踏み誤ると、建武けんむ中興ちゅうこうの挫折したやうな具合にならぬとも限らなかつた。慶應けいおう三年十月、一旦、大政たいせいを朝廷へ返上した慶喜よしのぶは、周圍しゅういいきおいに動かされ、慶應四年(明治元年)正月、朝命ちょうめいこうするに至つた。この際、明治天皇が深く宸襟しんきんなやまさせられたことは、まさ勅書ちょくしょおおせられてゐる如くである。かうして著々ちゃくちゃく、政治改革のことを斷行だんこうせられんとする折柄おりから德川とくがわ慶喜よしのぶが反抗態度を示したことは改革の前途に一まつの暗雲を投げかけたものとへる。事は伏見ふしみ鳥羽と ばたたかい大勢たいせいが決し、朝廷は有利な地位にたれはしたが、正月六日、慶喜大阪城だっして、汽船きせん開陽丸かいようまるり、東歸とうきみちを急いだ以上、その反抗は當然とうぜん繼續けいぞくされるものと見なければならない。かうなると、前途樂觀らっかんを許さぬので、明治天皇餘程よほど大御心おおみこころろうせられたにちがひない。今日、これを拜察はいさつすると、恐懼きょうくへぬ。