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32 外國條約に自今天皇の稱を用ふることを各國に告ぐるの勅語 明治天皇(第百二十二代)

外國がいこく條約じょうやく自今じこん天皇てんのうしょうもちふることを各國かっこくぐるの勅語ちょくご明治元年正月十日 法規分類大全)

日本國天皇、告各國帝王及其臣人。嚮者將軍德川慶喜請歸政權、制允之內外事親裁之。乃曰、從前條約雖用大君名稱、自今而後、當換以天皇稱而各國交際之職專命有司等。各國公使諒知斯旨。

【謹譯】日本國にほんこく天皇てんのう各國かっこく帝王ていおうおよ臣人しんじんぐ。さき將軍しょうぐん德川とくがわ慶喜よしのぶ政權せいけんかえさんことをふ。せいしてこれゆるし、內外ないがいことしたしくこれさいせり。すなわいわく、從前じゅうぜん條約じょうやく大君おおぎみ名稱めいしょうもちふといえども、いまよりしてのちまさふるに天皇てんのうしょうもってし、しかして各國かっこく交際こうさいしょくもっぱ有司ゆうしめいずべし。各國かっこく公使こうしをしてむね諒知りょうちせしめよ。

【字句謹解】◯各國の帝王 從前じゅうぜんから日本と條約じょうやくを結んで公使こうしを派遣してゐた國々を指す。主としてイギリス・フランス・オランダ・アメリカ・ロシヤ・イタリイ等 ◯制して みことのりを下しての意 ◯親しく之を裁す 王政おうせい復古ふっこによつて天皇親裁しんさいとなつた意 ◯大君 德川時代に幕府が外國との交際上、特に將軍の別號べつごうとして使用したしょう。これを「タイクーン」とんでゐた。〔註一〕參照 ◯各國交際の職 各國使こくしと直接談判にあたる事務・職掌しょくしょう ◯諒知 よく承知して了解出來ること。

〔註一〕大君 德川將軍は事實上じじつじょう文武ぶんぶけんを握つてゐるが、その上に天皇がましまして、はば政務の一切を將軍に委任された形式となつてゐるのが我が國封建制度治下ち か有樣ありさまだつた。その特殊性は外國使臣ししんに多少理解は出來でも、心からの了解は出來なかつたに相違そういない。れいせばフランスは將軍に近付き、イギリスは勤王派きんのうは薩長さっちょうに近付くといふ風だつた。すなわち外交上統一をいたのである。ゆえ明治天皇王政おうせい復古ふっこあたつてづ外國公使に、このよしを申し入れられたので、明治新政府ここに始めて、外國にたいして完全に日本の主權者しゅけんしゃ天皇であらせられるよしを徹底して知らしめ得たのである。

【大意謹述】日本國の天皇は、我が政體せいたい變革へんかくあたつて、各國の帝王及びその命令のもとに派遣された公使たちに次のことを通告したい。先般せんぱん德川慶喜とくがわよしのぶはその所有する文武ぶんぶ大權たいけんげて、皇室に奉還ほうかんせんことをうた。ちんみことのりして、そのこいれ、ここに我國內外の事はすべて自身で裁斷さいだんすることになつたのである。そこで朕は、過去に於いて慶喜よしのぶらが對外たいがい條約じょうやく大君たいくん名稱めいしょうを使用したのをはいし、今後は天皇しょうを用ひ、外交事務について各國を直接に事を話す方面には、それぞれの役人を使用したいと考へる。各國公使はこのてんつき、誤解なきやう右の旨を了解してほしい。

【備考】右の勅語ちょくごは、日本外交史上、劃期的かっきてきな意義を含み、日本が天皇親政しんせいのもとに、新しく國際こくさい場裡じょうりに登場したものとして、欣快きんかいの情が、おのづから湧き上るのである。この勅書ちょくしょはっせらるるに至つた事情については、略述すべき必要がある。最初、慶應けいおう三年、德川とくがわ慶喜よしのぶ政權せいけん奉還ほうかん勅許ちょっきょせられた頃、大久保おおくぼ利通としみちらは、王政おうせい復古ふっこのことを外國に通告するについて、伯爵はくしゃくモンブラン(Count Montblans)といふ政治顧問こもんに相談した。その際、モンブランは、「この際、勅命ちょくめいを以て、天皇の御地位をあきらかにする必要がある。すなわ天皇勅書ちょくしょに、ちんは日本の天皇諸侯しょこうはすべて朕の命令に服從ふくじゅうすべきものである。ところが、在來ざいらい、德川將軍が、みずから日本國主としょうして、外國に接したのは、萬世ばんせいけい皇統こうとう持續じぞくする日本の國體こくたいに反してゐるといふことをあきらかに宣言せられたいと存じます」と答へた。そしてれは、左の如く、天皇親政しんせいの立場から、おおいださるべき事項をげたのである。

(第一)將軍職をはいする事。(第二)今後、日本の政務は天皇みずから之を裁斷さいだんせらるるにつき、日本に於ける外交事務は、すべて天皇御名み なにおいてさるべき事。(第三)天皇統治下にある諸侯しょこうは、すべて天皇おおせをほうじ、天皇におかせられて、國政こくせいたまふ場合、各藩主はんしゅを京都に召集しょうしゅうし、議事院ぎじいん會合かいごうし、その決裁けっさい天皇においてさるる事。(第四)長崎・横濱よこはまその他開港地かいこうちは、在來ざいらい德川氏の名で開かれたが、今後は、天皇御名み なに改めて、これを開く事。(第五)右の如く、政體せいたい變革へんかくすると同時に爾後じ ご、一層外國と親善しんぜんを加ふべき事。

 以上の具體案ぐたいあんにより、大久保は更に外交通といはれた寺島てらじま宗則むねのりと相談し、多少の改修を加へた。が、さつちょうえつげいはんの意見をちょうしたとき、多少の反對はんたいを生じたので、大久保らが作つた告文こくぶんは、之を發表はっぴょうせず、一層の熟考じゅっこう鍛練たんれんとを重ねた上、右の如き勅書ちょくしょとして、渙發かんぱつさるるに至つた。それには、列藩れっぱん會議かいぎの事を全くはぶき、朝臣あそん諸侯しょこう連署れんしょを用ゐずに、ただ御名ぎょめい御璽ぎょじを以てしたのである。

 以上の勅書ちょくしょ發表はっぴょうせらるると共に、今後の外交方針について、慶應けいおう四年正月十五日、國內にも、ぎのやうな布告ふこくはっせられ、ここに日本の外交が、一つの新しい時期を作り、天皇におかせられて、したしく外交事務を統裁とうさいあらせらるべきことを明白にせられた。

  外國のは、先帝せんてい多年たねん宸憂しんゆうにあらせられ候處そうろうどころ、幕府從來じゅうらい失錯しっさくより、因循いんじゅん今日こんにちに至りそうろう折柄おりから世態せたいおおいに一ぺんし、大勢たいせいまことむをさせられず。此度このたび朝議ちょうぎの上、斷然だんぜん和親わしん条約じょうやく取結とりむすばせられそうろう。ついては、上下しょうか、疑惑を生ぜず、おおい兵備へいび充實じゅうじつし、國威こくいを海外に光耀こうようせしめ、祖宗そそう先帝せんてい神靈しんれい對答たいとうあらせらるべき叡慮えいりょ候間そうろうあいだ、天下列藩れっぱん士民しみんに至る迄、むね奉體ほうたい心力しんりょくつくし、勉勵べんれいこれあるべき事。

  ただしこれ迄幕府において取結びそうろう條約じょうやくうち弊害へいがい有之これありそうろう件々けんげん利害りがい得失とくしつ公儀こうぎの上、御改革あらせらるべくそうろうほ外國交際の儀は、宇内うだい公法こうほうを以て取扱とりあつかい有之これあるべく候間そうろうあいだ此段このだんあい心得こころえ申すべく候事そうろうこと

 以上の布告ふこくにおいて、上下しょうか、疑惑を生ぜざるやう、訓示くんじし、今後、兵備へいび充實じゅうじつすべきことを命ぜられてゐるてんに、新日本の將來しょうらいに輝かしい希望のあることを、ほのめかされてゐる。ほ「宇内うだい公法こうほう」とは、今日こんにち國際法こくさいほうにほかならない。いで慶應けいおう四年二月、(陽曆三月)各國使臣ししん謁見えっけんたまわつたのであるが、當時とうじ攘夷じょうい思想は士民しみんの間にのこつてゐたので、英國えいこく公使こうしパアクスを襲うた暴徒があつた。さいわひパアクスは、そのわざわいまぬがれたので事なく、謁見えっけんを終つた。同時に、政府は、「外人にたいして暴行をすを禁ず」といふれいおおやけにしたのである。

 以上の如くにして、新日本の外交は面目めんもくを改めた。それにより歐米おうべい各國かっこくも、日本の主權者しゅけんしゃとして、天皇があらせられ、一くん萬民ばんみんのもとに政治が進行することを確實かくじつに知つた。この事は、日本の體面上たいめんじょう、最も好結果をもたらしたとへる。それ以前迄は歐米おうべいにおいて將軍を主權者しゅけんしゃと思ひ、おそれ多いが、天皇をロオマ法王の如き地位にあらせられると考へ、宗敎上の君主視くんしゅしするといふやうな誤謬ごびょうおちいつてゐた。慶應けいおう三年、フランス公使レオン・ロツシユ(L.Roshes)が德川とくがわ慶喜よしのぶと大阪で會談かいだんしたとき、將軍のことをみかどしょうしてゐた。左樣そ うした時、天皇と將軍の區別くべつを知つたのは、イギリスのパアクス公使で、れは書記官サトオの意見により、將軍のことをみかど區別くべつして、ハイネスと呼んだ。Highneseはいふ迄もなく、殿下の意味で、幕府の老中ろうじゅうらは、これを喜ばなかつたとつたへられる。サトオの『英國えいこく策論さくろん』には、「大君たいくんは日本一とうの君主たるやうに最初の條約じょうやくせつつてゐるが、れはただ諸侯しょこうおさにすぎない。彼れはわずかに日本半國はんこくほどのみをりょうしをるにかかわらず、みずから日本君主と唱へたのは、名分上、正しくないのみならず、あきらかに僣僞せんぎ行爲こういだ」といひ、「將軍は天皇勅許ちょっきょないで、外國との條約じょうやくを行ふことが出來ない」と確言かくげんしてゐる。ここにサトオの卓識たくしきひらめいてゐたといはねばならぬ。