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31 源賴朝追討の勅 安德天皇(第八十一代)

源賴朝みなもとのよりとも追討ついとうみことのり(治承四年九月 山槐記)

賴朝忽相語凶徒凶黨、欲虜掠當國隣國。叛逆之至旣絕常篇。宜令右近衞少將平維盛朝臣薩摩守同忠度朝臣、參河守同知度等、追討彼賴朝及與力輩。兼又東山兩道堪武勇者、同令備追討。其中拔有殊功輩加不次賞。

【謹譯】賴朝よりともたちまちに凶徒きょうと凶黨きょうとうあいかたらひ、當國とうごく隣國りんごく虜掠りょりゃくせんとほっす。叛逆はんぎゃくいたすで常篇じょうへんつ。よろしく右近衞權少將うこんえのごんのしょうしょう平維盛朝臣たいらのこれもりあそん薩摩守さつまのかみどう忠度朝臣ただのりあそん參河守みかわのかみどう知度とものりれいし、賴朝よりともおよ與力よりきはい追討ついとうすべし。ねてまた東山とうさん兩道りょうどう武勇ぶゆうたくみなるものおなじく追討ついとうそなへしむ。うちぬきんでて殊功しゅこうあるはい不次ふ じしょうくわへん。

【字句謹解】◯賴朝 源賴朝みなもとのよりともの事、〔註一〕參照 ◯忽ちに 意外にもの意。伊豆い ず配流はいるした賴朝よりともが早くも擧兵きょへいしようとは平氏へいしの人々は考へなかつた ◯凶徒凶黨 惡人あくにんの仲間 ◯當國 伊豆國いずのくにを意味する ◯虜掠 暴力を以て强制的に奪ひ取る ◯叛逆 朝廷の命にしたがはないこと ◯常篇に絕つ 君臣くんしん大道だいどうを何とも思はない。常篇じょうへんは人の道を記した書物 ◯平維盛 重盛しげもり嫡子ちゃくし、〔註二〕參照 ◯薩摩守同忠度 淸盛きよもりの弟、〔註三〕參照 ◯參河守同知度 淸盛きよもりの子 ◯與力の輩 賴朝よりとも擧兵きょへいに一した人々 ◯殊功 おおいなる戰功せんこう ◯不次 何時い つか、いくさが終つたのち

〔註一〕賴朝 義朝よしともの第三子、平氏へいしに捕へられた後、伊豆國いずのくに蛭島ひるがしまに流され、北條時政ほうじょうときまさの保護のもと治承じしょう四年に以仁王もちひとおう令旨りょうじほうじて擧兵きょへいした。一たび石橋山いしばしやまで大敗したが再びいきおい盛返もりかえし、本勅ほんちょくに見える如く平家の大軍と富士川ふじかわかいしておおいに之を打破つた。

〔註二〕平維盛 維盛これもり仁安にんあん年中に美濃み の權守ごんのかみとなり、つい右少將うしょうしょうに任じ、承安しょうあん二年にはじゅ位下い げとなつた。治承じしょう四年に本勅ほんちょくを受けて賴朝よりとも富士川ふじかわに戰つて破れ、以後平氏へいしと共に西海さいかいおもむき、のち、出家した。

〔註三〕薩摩守平忠度 忠度ただのり忠盛ただもりの子、淸盛きよもりの弟で、しょう位下い げ薩摩守さつまのかみである。壽永じゅえい二年に義仲よしなかの部下足利あしかが義淸よしきよを破つたこうがあり、平氏へいしの一族と共に西海さいかいおもむいて一ノたに岡部おかべ忠澄ただすみられた。『千載集ざいしゅう』に故郷の花の一首があるのは世に有名である。

〔注意〕富士川ふじかわたたかいる意味で源平げんぺいせきはらしょうせられてゐる。本勅ほんちょくはその源をなしたものとして注意されなければならない。なほ安德あんとく天皇は、この他に

(一)源賴朝追討のみことのり(治承四年十一月、吉記)

をもはっせられてゐる。天皇平氏へいし擁立ようりつした所であつた。

【大意謹述】伊豆い ず配流はいるされた源賴朝みなもとのよりともは、今囘こんかい意外にも多數たすう凶徒きょうとを一として、伊豆い ず相模さがみ地方を武力を以て手に入れようとしてゐる。れが朝廷の命令にしたがはない罪は何とも言ひやうのない程大きい。早速右近衞權少將うこんえのごんのしょうしょう平維盛朝臣たいらのこれもりあそん薩摩守さつまのかみ平忠度朝臣たいらのただのりあそん及び參河守みかわのかみ平知度たいらのとものりなどに命じて、叛逆人はんぎゃくにん賴朝よりともとその一とう者共ものどもを追ひ討つことにした。更にちんはその援軍として東山とうさん兩道りょうどう武勇ぶゆうに優れた者を同じ目的で準備させようとしてゐる。この軍中いくさじゅうに特別のこうを立てた者は、戰後相當そうとうしょうあたへることをやくする。

【備考】この場合、安德あんとく天皇は、最初から全然平家へいけに同情せられ、平家のひによりこの勅書ちょくしょはっせられたのであるから、賴朝よりともは、逆賊ぎゃくぞくの名をあたへられた。が、賴朝よりとも攻擊こうげきするところは、平家であつて、朝廷に向つて反抗したのではなかつた。したがつてこれを「叛逆はんぎゃくいたり」とするのは、平家側から見た事で、源氏げんじ側から見ればおのづから別であるといふ事になるであらう。