26-2 遣唐使の爲め神階を進めらるるの詔 仁明天皇(第五十四代)

遣唐使けんとうし神階しんかいすすめらるるのみことのり(第二段)(承和三年五月 續日本後紀

辭別氏申給久、神那我良母皇御孫之御命乎堅磐爾常磐爾護奉幸閉奉給部。又遣唐使正四位下藤原朝臣常嗣等乎、路間無波風之難久慈賜比矜賜比天、平久可太良可爾歸志賜倍止、稱辭竟奉久止申。

【謹譯】ことわけもうたまはく、かんながらも皇御孫すめみま御命みこと堅磐かきわ常磐ときわまもたてまつさきはへたてまつたまへ。また遣唐使けんとうししょうげの藤原朝臣ふじはらのあそみ常嗣つねつぐを、みちひまなく波風なみかぜわざわいなくめぐたまあわれたまひて、たいらけくかたらかにかえたまへと、稱辭たたえごとたてまつらくともうす。

【字句謹解】◯辭別て 言葉を別にしての意で、一層とか特別とかいふことばあたる ◯神ながらも かみ御心みこころのままにの意で、天皇のことを申したのである ◯堅磐に常磐 永久に變化へんかのないやうにと祝う壽言よごと宣命せんみょうには常に出ることばで、堅磐かきわ常磐ときわは共に大石おおいしのこと ◯幸はへ 幸福こうふくが持ちたされるやうにといふ意 ◯遣唐使 支那し な(唐)への留學生りゅうがくせい。〔註一〕參照 ◯路の間なく 往復路おうふくろに障害なく ◯かたらかに かたらかにで、健康に、無事にの意 ◯稱辭 十分にとくをあげてほめ祝ふ言葉。

〔註一〕遣唐使 遣唐使けんとうしとは支那し な唐朝とうちょうの時に、我が國から派遣したひろい意味の留學生で、目的は佛敎ぶっきょう傳授でんじゅ內政ないせいの改革・社會しゃかい改良などに必要な制度・文物ぶんぶつの輸入にあつた。遣唐使遣隋使けんずいしの後を受けたもので、最初は孝德こうとく天皇白雉はくち四年に小山しょうさん上吉士じょうきしの長丹ちょうたんを大使に、小乙しょうおつ上吉士じょうきしのこまを副使にした。その後天皇御代み よに一かい齊明さいめい天皇御代み よに一かい天智てんじ天皇御代み よに三かい派遣した。文武もんむ天皇大寶たいほう元年に再興して桓武かんむ天皇までに元明げんめい稱德しょうとく二帝を除いて毎朝まいちょう渡支と しし、仁明にんみょう天皇御代み よには宣命ほんせんみょうにある如く、參議さんぎ藤原常嗣ふじはらのつねつぐを大使に、小野篁おののたかむらを副使としたが、とう國亂こくらんつづいたため、宇多う だ天皇御代み よ參議さんぎ菅原道眞すがはらのみちざねを大使に、右少辨うしょうべん紀長谷雄きのはせおを副使と決定したまま、道眞みちざね上表じょうひょうつて永く之を中止した。

〔注意〕仁明にんみょう天皇御代み よ遣唐使けんとうしかんしてはっせられたみことのりを左に列擧れっきょする。の約半數はんすう船舶せんぱく難破なんぱした奏文そうぶんたいしての命令である。

(一)入唐使にっとうし節刀せっとうたまふの宣命せんみょう(承和三年四月、續日本後紀)(二)香取神かとりのかみしょう鹿島神かしまのかみしょう枚岡ひらおか神社じんじゃ天兒屋根命あまのこやねのみことしょう、同じく比賣神ひめがみじゅ位上いのじょうさずたてまつるの宣命せんみょう(承和三年五月、續日本後紀)(三)入唐使にっとうし留學生りゅうがくせい位記い き追贈ついぞうするの詔詞しょうし(承和三年五月、續日本後紀)(四)遣唐使發船はっせん慰勞いろうするの宣命せんみょう(承和三年五月、續日本後紀)(五)遣唐使藤原常嗣ふじはらのつねつぐに下し給へる勅符ちょくふ(承和三年七月、續日本後紀)(六)太宰大貳だざいのたいに藤原廣敏ふじはらのひろとしに下し給へる勅符ちょくふ(承和三年七月、續日本後紀)(七)遣唐けんとう副使ふくし小野篁おののたかむらに下し給へる勅符ちょくふ(承和三年七月、續日本後紀)(八)藤原常嗣ふじはらのつねつぐに下し給へる勅符ちょくふ(承和三年八月、續日本後紀)(九)漂損ひょうそんの人物をたずぬるのみことのり(承和三年八月、續日本後紀)(十)遣唐使往還おうかんあいだ供養くよう行道ぎょうどうするのみことのり(承和五年三月、續日本後紀)(十一)遣唐けんとう大使たいし藤原常嗣ふじはらのつねつぐ副使ふくし小野篁おののたかむらに下し給へるみことのり(承和五年四月、續日本後紀)(十二)小野篁おののたかむら配流はいりゅうするのみことのり(承和五年十二月、續日本後紀)(十三)大般若經だいはんにゃきょう及び海龍王經かいりゅうおうきょう轉讀てんどくみことのり(承和六年三月、續日本後紀)(十四)太宰府だざいふに下し給へる勅(承和六年八月、續日本後紀)(十五)太宰府に下し給へる勅(承和六年八月、續日本後紀)(十六)遣唐使藤原常嗣ふじはらのつねつぐ歸朝きちょうねぎらふのみことのり(承和六年九月、續日本後紀)(十七)遣唐使藤原常嗣ふじはらのつねつぐしょうするの宣命せんみょう(承和六年九月、續日本後紀)(十八)遣唐船けんとうせん歸著きちゃくうかがふのみことのり(承和七年三月、續日本後紀)(十九)太宰府に下し給へる勅符ちょくふ(承和七年四月、續日本後紀)(二十)出羽國でわのくに大物忌大神おおもののいんべのおおかみじゅさずたてまつるの宣命せんみょう(承和七年七月、續日本後紀)(二十一)金剛こんごう般若經はんにゃきょう轉讀てんどくみことのり(承和八年四月、續日本後紀)(二十二)小野篁おののたかむら本爵ほんしゃくふくするのみことのり(承和八年閏九月、續日本後紀

【大意謹述】特に申し上げたいことは、かみ御心みこころのままである天皇御命おんおおせを永久にかわらない大石たいせきのやうにまもつて、幸福こうふくを授けられたいのが一つ、それから今囘こんかい派遣する遣唐使けんとうししょうげの藤原朝臣ふじはらのあそみ常嗣つねつぐの一行を、往復路おうふくじつつがなく、波風の難儀なんぎもなく加護か ごれられて、平穩へいおんな航海をつづけ、健康な身で歸朝きちょうさせたいのが二つ、この二をどうか御聞おんききとどけあるやう、神々かみがみとくうやまひ心から祈る。

【備考】以上、遣唐使けんとうしの無事を祈られたについて、藤原常嗣ふじはらのつねつぐらは、深く感激したことであらうと拜察はいさつする。常嗣つねつぐ承和しょうわ元年、遣唐けんとう大使たいしたる命をはいし、同三年七月、九州出發しゅっぱつ、途中、暴風にひ、第三ぱく破壞はかいしため、同四年七月、用意を整へて再發さいはつしたが、再び暴風にひ、五年七月に至つて、出發しゅっぱつした。それから、歸朝きちょうの時、常嗣つねつぐは日本の船の完全でないのに不安をいだき、新羅しらぎせんそう分乘ぶんじょうして、歸國きこくいた。かうして、肥前ひぜん松浦まつうらに無事帰著きちゃくしたのである。この一を以てしても、當時とうじ渡支と しは、却々なかなか、困難だつた事情がわかる。それから遣唐使けんとうしをやめたのは、表面、宇多う だ天皇の時代になつてゐるが、事實じじつ仁明にんみょう天皇承和しょうわ五年に於ける遣唐使を最後として、その幕を閉ぢたのであつた。