26-1 遣唐使の爲め神階を進めらるるの詔 仁明天皇(第五十四代)

遣唐使けんとうし神階しんかいすすめらるるのみことのり(第一段)(承和三年五月 續日本後紀

皇御孫命坐、四所大神申給波久。大神等彌高彌廣仕奉止奈毛保志食。是以件等冠上獻狀、中務小輔從五位下藤原朝臣豐繼、內舍人正六位下藤原朝臣千葛等令捧持、奉出事申給久止申。

【謹譯】皇御孫命すめみまのみことせ、四所よところ大神おおかみもうたまはく。大神おおかみたち彌高いやたか彌廣いやひろつかまつるとなもおもほしめす。ここもっくだり等冠かかぶりたてまつさまを、中務小輔なかつかさのすくたすけじゅ位下いげの藤原朝臣ふじはらのあそみ豐繼とよつぐ內舍人うとねりしょう位下いげの藤原朝臣ふじはらのあそみ千葛ちくずささたもたしめて、奉出たてまだこともうたまはくともうす。

【字句謹解】◯皇御孫命に坐せ 天照大御神あまてらすおおみかみ御子孫ごしそんの意で、仁明にんみょう天皇御自身のこと、ちん天照大御神あまてらすおおみかみの子孫であるからの義 ◯四所の大神 伊波比主命いわひぬしのみこと建御賀豆智命たけみかづちのみこと天兒屋根命あまのこやねのみこと比賣神ひめがみを指しまゐらせたもの。伊波比主命いわひぬしのみこと齋主神いわいぬしのかみとも書く。經津主神ふつぬしのかみの事。武甕槌神たけみかづちのかみと共に武神ぶしんとして名高い。比賣神ひめがみは八まん大神おおがみの一つ、神體しんたい神功じんごう皇后こうごうであるともはれる。〔註一〕參照 ◯彌高に あるが上にも高くの事、一層崇敬すうけいする意 ◯件の等冠に 等冠かかぶり冠位かんいのこと、これは香取神かとりのかみしょう鹿島神かしまのかみしょう枚岡ひらおか天兒屋根命あまのこやねのみことしょう、同じく比賣神ひめがみじゅさずたまふこと ◯中務小輔 中務省なかつかさしょう次官じかんで、大輔たゆうを助けて事務を處理しょりする役、中務省なかつかさしょうとは支那し な中書省ちゅうしょしょうと同じで、至尊しそんして諸用をつかさどる役所。〔註二〕參照 ◯藤原豐繼 麻呂ま ろ曾孫そうそん大繼おおつぐの子 ◯內舍人 中務省なかつかさしょう官人やくにん ◯令げ持たしめて 四しょ大神おおかみ冠位かんいあげるのじょうみことのりを捧げ持たせる ◯奉出す事 とうとところ使者して物をけんずる時の例言れいげん

〔註一〕四所の神 この時には下總國しもふさのくに香取郡かとりごおりじゅ伊波比主命いわひぬしのみことしょうを、常陸ひたちのくに鹿島郡かしまごおりじゅくん一等建御賀豆智命たけみかづちのみことしょうを、河內國かわちのくに河內郡かわちごおりじゅくん三等天兒屋根命あまのこやねのみことしょうを、じゅ四位比賣神ひめがみじゅ四位じょうを授けたてまつつたよしが、『しょく日本にほん後紀こうき』に見える。

〔註二〕中務少輔 中務省なかつかさしょうの職員は、きょう大輔たゆう少輔しょうふ大丞たいじょう小丞しょうじょう大錄たいろく小錄しょうろく史生しせい等があり、その所屬しょぞく侍從じじゅう內舍人うどねり內記ないき監物けんもつ等があつた。

〔注意〕我々は今日こんにち支那し なにゆくことを何とも思はないが、航海及び造船の發達はったつしない一千年以前には航海が非常に困難で、再び故郷の土を見られないかも知れぬといふ決心が誰にもあつた。航海中の難船なんせん海賊難かいぞくなん等があつて、かくその半數はんすう以上は事實じじつ上、無事に日本にかえれないとすれば、神明しんめい加護か ごつて航海中の無事を祈るのが當然とうぜんである。そのために當時とうじ一般人民及び藤原氏崇敬すうけいする香取かとり鹿島かしま兩神りょうしん及び氏神うじがみを祭つて敍位じょいされたのであつた。しかもこの時の遣唐使けんとうし藤原常嗣ふじはらのつねつぐなどの船も支那し なちゃくしない以前に難船なんせんし、かろうじて到著とうちゃくした。

【大意謹述】天照大御神あまてらすおおみかみの子孫たるちんは、香取かとり鹿島かしま、及び枚岡ひらおか天兒屋根命あまのこやねのみこと、同比賣神ひめがみに申し上げる。今囘こんかいその神々を今までよりも一層崇敬すうけいし、ひろつかたてまつらうと思ひ、香取神かとりのかみしょう二位、鹿島神かしまのかみしょう二位、天兒屋根命あまのこやねのみことしょう、同じく比賣神ひめがみじゅ四位じょう冠位かんいたてまつ書狀しょじょうを、中務なかつかさ少輔しょうふじゅ五位藤原朝臣ふじはらのあそみ豐繼とよつぐ、及び內舍人うどねりしょう六位藤原朝臣ふじはらのあそみ千葛ちくずなどにささげ持たせて、神々にたてまつるのである。

【備考】日本文化と遣唐使けんとうしとの關係かんけいなりに深いものがある。その遣唐使の前に遣隋使けんずいしさかえた時代もあつた。つまり、支那し な文化が漸次ぜんじ日本に輸入せられたのは、遣隋使の時代から、目立つやうになつたとつてからう。遣隋使を支那し なに送る迄の日本は、韓國(朝鮮)を通じて、支那文化を輸入したのであるが、もつとそれを理解するには、直接、支那おもむく必要があるといふ事を學者らが考へついた。朝廷でもここ留意りゅういせられたと見え、推古すいこ天皇の十五年、聖德太子しょうとくたいしの考へにより、小野妹子おののいもこらをずいに派遣されたのである。當時とうじ日支にっしの交通は、百濟くだら經由けいゆしたらしく思はれる。そして小野妹子おののいもこは再びずいおもむき、學生八人をともなつた。南淵請安みなぶちしょうあん高向玄理たかむくのくろまろ僧旻そうびんらは、この時、渡支と ししたのである。

 そのあとを受けて、支那し な文化輸入の使命をびたのが遣唐使けんとうしだつた。その最初は舒明じょめい天皇の二年八月、犬上御田鍬いぬがみのみたすきを派遣された。それから宇多う だ天皇寬平かんぴょう六年九月、これをやめられる迄、十九かいわたり、派遣されたのである。その間の年數ねんすうは、二百六十四年間に及んでゐる。

 ぎに遣唐使けんとうしの主要な役割は、大使たいし副使ふくし判官はんがん錄事ろくじといふことになつてをり、隨員ずいいんを合せると、毎囘まいかい人數にんずう二百五十人以上に達し、のちには五百人にのぼつた。これだけの人員の生命をたくした船はどうかといふと、あまりに脆弱ぜいじゃくだつた。したがつて多くの水手か こを必要とし、人員五百人とすれば、その半數はんすう水手か こだつた。それですら、危險きけんな目にふことが少なくない。遣唐使發航はっこうするところは、難波なにわの三うら―現時の大阪市寺町でらまち―にきまつてゐた。そこから瀨戸せ と內海ないかいに出て、九州にき、博多に立寄るのを常とした。同處どうしょから支那し なへゆくには南路と北路とがあり、任意、いずれかを選んだのである。大體だいたいにおいて北路によつて渡支と しした側には、割に遭難そうなんするものが少かつた。が、遭難は遣唐使もののやうになつてゐたとはれる。けれども、代償として支那し な文化を吸取きゅうしゅするといふてんがあつたから、忍耐し得たのである。